冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。
どうしてだか、キューバ人の話し声を聞くと、愛しいような懐かしいような気分になる。
キューバを去った亡命作家たちが、結局、死ぬまでキューバへの思いを語り続けるのは、独裁政権への憎しみだけではない。やはり、望郷だろう。それが特に強いのは、マイアミも含め島の外では決して聞くことのできない、その音を懐かしんでいるからではないだろうか。
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早朝、淡い日を浴びて美しく輝く ハバナの町05年1月 |
2005年2月21日、キューバ出身の作家、ギジェルモ・カブレラ・インファンテが30年以上にわたり暮らした亡命先のロンドンの病院で死去した。ブドウ球菌に感染したそうだ。75歳だった。
カストロによるキューバ革命が起きた1959年、インファンテはすでに29歳。ハバナで映画評論などを書き、それなりに名の知れたジャーナリストだった。革命政権早々、彼は新聞の別冊週刊誌「ルネス」の編集長に据えられたが、時に革命政権を揶揄する原稿を平気で載せたため、雑誌は61年に廃刊となり、インファンテは65年、当時勤めていたベルギーのキューバ大使館から亡命し、ロンドンに居を構えた。
以来、一環してカストロによる独裁、チェ・ゲバラら革命政権草創時の面々による、露骨な言論統制、頭の固さや融通の利かなさを批判し、それを小説作品に活かしてきた。
後半生をロンドンに暮らしながらも、彼は最期までキューバにこだわり続けた。これは、やはりパリで死んだキューバ人作家アレホ・カルペンティエルにも、エイズを患いニューヨークで自殺したレイナルド・アレナスにも言えることだが、彼らは亡命後、キューバと直接関係のない作品を試みながらも、結局、キューバへ立ち戻っていく。キューバ人たちは、亡命作家というよりも「望郷作家」と呼んだ方がいいくらい、自分が生まれ育った島と向き合い、死ぬまで書き続ける。
カブレラ・インファンテは、スペイン語文学で最も権威のあるセルバンテス賞を受賞した翌年の98年、珍しくスペインの雑誌インタビューに応じている。
「もし明日、カストロもカストロ主義も消えたら、キューバに戻りますか」
と聞かれ、彼はこう答えている。
「よく、行進の先頭に立って帰るのかと聞かれるけど、いつもこう答えるんだ。最初の飛行機に乗って帰るつもりはない。ただ一つ言えるのは、自分はこのロンドンの家に暮らし、もう30年になるということだ。多分、住所や行き先を変えることはできるだろうけど、意識や感覚まで変えることはもうできない」
自分はもう変わってしまった。30年も離れた故郷に帰ったからといって自分自身の何かが始まるわけではない。つまり、いそいそと戻ることはないと言いたかったのだろう。
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生き物のように水が波打つハバナ港の朝 05年1月 |
だが、インファンテが「自分にとって一番の小説」と答えている1976年発表の作品集Exorcismo de esti(l)o(スタイルからの脱却)を読むと、キューバへの思いがあふれていて、哀れにさえ思える。
この時点で亡命から10年が過ぎていたが、作品はキューバ人の口癖、発音を駆使した言葉遊びで埋め尽くされている。
「La Habanera Tu」(君もハバネラ)というハバナのダンス音楽に名を借りた作品では、ハバナっ子の話し振りだけが、ただずらっと列挙されている。
早口でテンポのあるS抜きの短い言葉だ。
ミエマナ(ミ・エルマーナ、私の妹)
イロニニョ(イ・ロス・ニーニョス、そしてその子たち)
アイ・ロミモ(アイ・ロ・ミスモ、それはおんなじ)
キューバの言語を知る者がその一篇を読むと、耳の奥にハバナの街頭に立ったかのような喧騒がよみがえる。
この作品集を一番にあげた理由として、インファンテは
「キューバ言語をそのまま使い、おそらくスペイン語ではかつて誰もやらなかったような言葉遊びをしているから」
と答えている。
亡命作家は、決して帰ることのない島に今も流れる音を、原稿用紙の上によみがえらせた。人々が発する音にそれほどまでこだわるのは、やはりキューバ人だからではないだろうか。
キューバ人のしゃべり方には特徴がある。早口でリズムがあり、全体としてかすれた、少しこもったような音色に、ガマガエルを押しつぶしたような音がかすかに重なる。
同じスペイン語でも例えばメキシコ人の場合、もう少し音が角張っていて、ねちゃっと尾を引き、少女たちが話しているのを聞いたりすると、口の中によだれがあふれているような印象を持つ。だが、キューバ人のそれは、もう少し軽やかな、すいすいと波を泳いでいくような音に聞こえる。
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サルサの前座として踊りを披露する女性 03年10月、ハバナ・ビエハ(旧市街) |
日本でも作家の村上龍氏らが紹介したことから、一時キューバ音楽のサルサがはやった。スペイン語がわからなくても、その音を聞くとなんとなく心地よい気分になるという人がよくいるが、それも、多分、キューバ特有の音のせいではないかと思う。
彼らには単語の中におさまっているSの音をすっ飛ばし、駆け足で話し続ける癖がある。例えばドイツ語を小耳にはさむと、SやZの音が重要なのか、やたらと「シーシー」「シューシュー」と空気の抜ける音がする。ところが、これは私の印象に過ぎないが、アフリカの言語にはこのSの音があまり目立たず、むしろ唇や頬の形をたくみに変えて絞り出すさまざまな母音がよく使われる。
16世紀からアフリカの奴隷が集められる港だったせいか、ハバナには宗教から料理までアフリカの影響が色濃く残っている。おそらく、彼らが話すスペイン語もそれが一因なのだろう。というのも、キューバ的な話し方は国境を越えてカリブ海全域に広がっているように思えるからだ。
カリブ海は地中海と同じくらいの広さだが、例えばガルシア・マルケスの作品の舞台となったコロンビアのカリブ海沿岸や、ベネズエラの北岸でも、似たような早さ、リズム、Sのない音で機関銃のように言葉を発し続けるスペイン語が主流だ。コロンビアのカルタヘナからバランキージャ、サンタマルタあたりの音は、沿岸からマグダレーナ川を何日も遡って辿り着くコロンビアの首都ボゴタで話される「正統派のスペイン語」の角張った音とはまったく違うものだ。
沿岸の人間が「ボゴタ人は気取ってやがる」「いつも心を値踏みしている」「気候と同じ、人間も冷たい」と言うのは、話し方の違いもあるのだろう。
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物々交換の朝市で談笑するお年寄りたち 03年10月、ハバナ |
ベネズエラの左翼、チャベス大統領はキューバのカストロ国家評議会議長を信奉しているだけあって、長い演説を得意とする。言っている内容は反米左派の理想主義的なもので、少し古臭いが、彼も内陸の原野出身とはいえ、発音はかなりキューバ風で、その抑揚につい耳を傾ける人も多いという。
では、キューバ言語とはどんなものなのか。
たとえば、「お元気ですか?」という「コモ・エスタ?」は、キューバ人に言わせると「コモエタ?」となる。「まあまあです」の「マス・オ・メノス」は、「マオメノ」。ちょっと長めの「この女の子がこっちを見ててねぇ」の「エスタ・ニーニャ・エストゥボ・ミランドメ」も、「エタニニャ・エッボ・ミランドメ」となる。
「エスタ・ニーニャ」と「エタニニャ」。字面だけ見れば、たいした違いはないが、前者の場合、「エ」と「ニ」にアクセントがくる5音で構成されるが、後者の場合、事実上、アクセントは「エ」だけで、後段の音は時に応じて2から3音で語られる。
普通、「マス・オ・メノス」とSを発音すると、その度に口内の空気が外に抜け、前後の音がよりはっきりとしたものになりがちだが、キューバ人の場合、マオメノとの音を省略する分、マオメノの音で口内の空気が一度に吐き出される。このため、時にガマガエルの鳴き声のようにつぶれた低音の響きが一気に発散され、音が中断されない分、リズムをつけやすい。
私は11年前に初めてキューバを知ったにすぎないが、ときどきハバナを訪れたり、知人に電話を入れると、つい笑みがこぼれる。多分それは、このキューバ独特の音のせいだと思う。その心地よい音は、一度聞くと、きっと忘れられないものなのだろう。だから、別段古い付き合いでもないのに、ハバナを懐かしく思ったりする。
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ハバナ旧市街の海沿い、マレコンに上る朝日 05年1月 |
高い評価を受けながら、その同性愛からカストロ政権にいじめ抜かれ、米国に亡命した作家、レイナルド・アレナス。彼の自伝で映画化もされた『夜になる前に』(Antes que anochezca)には、亡命先の車窓を流れるニューヨーク、マンハッタンの風景に、ハバナのぼろぼろの街の景色が交わる場面がある。
映画版『夜になる前に』(2000年、ジュリアン・シュナーベル監督)では、その場面にアレナスの自伝の朗読が重なる。それまでスペインの主演俳優、ハビエル・バルデムは作中、英語を話していたが、そこで突然、キューバのスペイン語に切り替える。それまでストーリーを追っていた観客たちはそこで初めて、アレナスのキューバ言語を耳にすることになる。そして、スペイン語を解さなくとも、観客たちは、アレナスがキューバの音をあやつる詩人だったのだと気づく。その心地よい音は英語にも、ごく普通のスペイン語にも吹き替えようがない。アレナスの詩は、ハバナとマンハッタンが交わる逆光の風景に溶け込むかのようだ。
詩は音なのだ。だからこそ、アレナスはまず真っ先に、キューバ人に向け、うたったのだろう。
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ほとんど物のない配給所を任される少女 東部オリエンテ州の町、パルマソリアーノ 03年10月 |
インファンテも同じだ。彼は、いつか自分の作品を読むはずのキューバ人に向け、ひたすら書き続けた。65年から続く発禁処分がある日解かれ、後の世代が彼の作品をむさぼるように読むかもしれないと。
「亡命作家とは」と聞かれたインファンテはこう答えている。
「自分にとってそれは、普通の読者、つまりキューバ人の読者を失った作家のことだ。自分には世界中に読者がおり、米国のキューバ人読者もいる。でも、キューバに読者がいない。いつか、自分の本がキューバで普通に読まれる日が来るのを待ち望んでいる」
フィデル・カストロは偶像化されるのを嫌い、お札や銅像などに顔をさらすのを禁じているという。だが、ハバナの革命博物館に足を踏み入れれば、それがまやかしに過ぎないと気づく。
「初めて新聞に載ったフィデル」
「小学校の時のフィデルの作文」
「フィデルが初めて手にした短銃」
と、フィデルづくしなのだ。革命博物館というより「フィデルの思い出館」といった方が良さそうな博物館を後にするころには、その男臭さで気分が悪くなる人もいるのだろうか、外にはいくつかベンチが用意されている。
一方、カストロは世界で最も知られたキューバ人作家の一人、インファンテの作品の発表を決して許さない。彼が60年代、革命政権を批判したという、たったそれだけの理由からだ。
カストロと会談する前、スペインの著名な作家、フアン・ゴイティソロはキューバの政権幹部に「カブレラ・インファンテのことは口にしないでください」と念を押されたという。
インファンテの死を唯一伝えたキューバのウェブマガジン「La Jiribilla」(転回)は、彼を「言語実験の先駆者」とたたえた上でこう紹介した。
「狂信的なほど、キューバ革命に反対する強迫観念にとらわれていた」
(敬称略、つづく)
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