冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。
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タンゴを披露するプロのカップル 02年10月、観光客が集まる ブエノスアイレスのラ・ボカ地区 |
「馬に乗れる中国人」。その言い方がなんだか面白く、いつまでも耳に残った。アルゼンチンのブエノスアイレスでのこと。コーヒーを飲みながらアンドレスさんと雑談をしていた。彼の父親はずい分前にぶらりとアルゼンチンにやってきて、そのままこの街に住みついた日本人。母親はフランス系の少し厳しい顔のアルゼンチン人だ。
私の目から見ると、日本人の血が入っているようには思えない。目や髪の色は薄く、比較的彫りが深く、頬骨もさして張っていない。といっても、日本人の顔もさまざまで、一言二言で言えるものでもない。
以前、灰色っぽい緑の目をした日本人と知り合った。先祖にロシア人でもいるのかと聞いたら、そんなことはないと答えた。彼の顔を見たあるメキシコ人の高校教師は
「なんで日本人なのに目の色が緑なんだ。混血だろう」
と聞いた。
「本人は日本人だと言っている」
と答えると、
「そんなこと、絶対にない。目の色が緑の日本人なんているわけがない」
と言い張る。
話は少し横にそれるが、この高校教師は肌の色や目の色、人種に関する通説にずい分とこだわる人で、茶色い瞳で髪も黒々としている大学生の長男について
「赤ん坊のときは、青い瞳で金髪だったのに、どうしたことか、どんどん変わっていって…」
と半ば嘆くような口調で話すことがあった。教師の妻はメキシコの旧上層階級だが、いまは没落し、家計は火の車である。だからなのかどうか、自分たちばかりでなく、受け入れているさまざまな留学生の身体的特徴を国籍とからめて批評を加えたりする。
そんな高校教師がアンドレスさんを見たらなんと言うだろう。
「頬からあごにかけての骨格に東洋系の曲線をそなえている」
とでも言うだろうか。
だが、少なくとも私の目には、その辺りを歩いているアルゼンチンの若者と大差ないように思えた。
彼に言わせると
「どう自分で考えようが、何を主張しようが、自分はアルゼンチン人の目から見たら明らかなチーノ(中国人)」
ということになる。
言うまでもないことだが、ラテンアメリカなどの大半の人々から見れば、日本人も中国人も同じである。
20代後半で独身のアンドレスが付き合う人の大半は、恋人も含め、欧州系のアルゼンチン人だ。週末、友人らと山に行ったりすることも多いのだろう。彼は乗馬のエピソードを教えてくれた。
「アルゼンチン人は山や原野に行くと、馬に乗りたがる。そこで、僕がうまく馬を操ると、『中国人なのに馬に乗れるじゃないか』ってみんな驚くんだ。それで僕は、馬に乗れる中国人と言われるようになるんだ。で、仮に僕が乗馬の選手になったとして、誰よりも上手に馬を手なずけられても、僕の呼び名はいつまでも変わらない。『馬に乗れる中国人』のままなんだ」
もちろん、彼はそれを抗議や不平のつもりで言っているのではない。それが現実だと、大半のアルゼンチン人はそう見ているということを言いたいのだ。
なぜこんな話になったのかと言えば、彼が私にアルゼンチン社会についての感想を求めてきたからだ。
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マタデロスの露天商で買い物をする人々 03年5月、ブエノスアイレス郊外 |
ほんの短い滞在だったが、私はこの社会に南アフリカに似た居心地のよさを感じた。人種や民族よりも、まず個人を見る社会という印象を抱いたためだ。今、私が暮らしているメキシコには「国民意識」や「国民性」のようなものに人々がこだわっているところがある。日本人ほどではないにしても「メキシコ人とは・・・」「俺たちメキシコ人の場合・・・」と「集団意識」が強い。
ところが、アルゼンチンの場合、そこに暮らす国民はもう少し国家から気持ちが離れ、ひとりひとりが勝手に浮いているような感じがする。先住民が少ない分、メキシコのようにことさら民族主義をあおる必要もなく、革命もなかった。いわば辺境の比較的新しい移民国家というせいもあるだろう。「アルゼンチン人とは」といった国民性を求める研究は、メキシコほど盛んではない。その分、個人の重きが大きい。つまり、人々は皆ばらばらで世間など関係なく好き勝手なことを自分本位にやって生きている、という印象が強い。
スペインの思想家、オルテガ・イ・ガゼットは、一時暮らしたアルゼンチンの国民性について、こんな風に記している。
「幼少時にパンパ(大平原)を見て育つ、地平線まで広がる大地を見た記憶が、彼らを彼らの父祖、欧州人とは明らかに違う者たちに変えてしまう。最果ての孤独が、国家によって立つことのない、強い個人主義を生みだす」
こうした景観や地理的な理由だけではないだろう。アルゼンチンが、やはり英国による植民活動や、開拓民、つまり19世紀の欧州からの移民たちが築いた社会だという面も大きい。私が南アフリカの社会の雰囲気と似たものを嗅ぎ取ったのも、原野という景観と、英国の関与という2点の共通性があるからかも知れない。
そんな印象をアンドレスさんに話すと、彼は
「どんな場面で、そう感じた」
と聞いてきた。
そう言われると、心もとない。一度、ブエノスアイレスで日系人のビンゴ・ゲームの集まりに招待されたとき、外に向けた開かれた方が、例えばペルーなどよりずい分と広く大らかに思えた。それは、社会がそれだけ、よそ者、新たな存在を受け入れやすいからだろうと私は考えた。
ペルーの首都リマにいたとき、やはり同じビンゴ・ゲームに誘われた。そのときは、来ている数百人の人々の大半が日系人だった。リマ市民を歓迎してはいるものの、その場には何か閉じられた空気があった。秘密結社とは言わないまでも、社会の中のマイノリティーがほんのひと時、自分たちだけの時間を楽しんでいるという印象だった。
一方、ブエノスアイレスのそれは、大学生などが主催したせいもあるのだろうが、外に向けて、より開かれているように見えた。いる人々も欧州系が多かった。
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蚤の市で稼ぐギタリスト 03年5月、ブエノスアイレス中心街 |
アルゼンチンは人口約3800万人の97%をイタリア、スペイン系など欧州系が占め、そこに暮らす日系人は約1万8000人だ。一方、ペルーの場合、人口約2700万人のうち先住民族が45%で、残りは混血が37%、白人は15%と、人種的には、メキシコと似たインディオが主体の国だ。そこに暮らす日系人は約8万人を数える(『世界年鑑』共同通信社、参照)。
ペルーに比べアルゼンチンの日系社会がより一般の社会に浸透していると感じるのは、そんな人口構成も影響しているのだろう。どんな社会にも、排除するものとされるものはある。それは自然なことだ。でも、そんな中でも先住民族に比べ、欧州系の方がより合理的にものを考える分、少なくとも日系人ら後から来た民族を排除する傾向は低いように思える。ざっと見渡した限り、新参者にとっては白人主体の移民社会が一番暮らしやすいとも言える。
アルゼンチンで活躍している日本人の舞踏家の言葉も、私の印象をより強めた。
「アルゼンチンでは、国籍など関係なく実力だけで評価される。日本人だから、といった目で見られることはない」
その話をアンドレスさんにしたとき、彼は軽く苦笑いをしながら、「馬に乗れる中国人」の話を始めたのだ。そして、
「多分、そのダンサーはとても優れた人なのだろう。でも彼女がどんなに上手でも、どんなにアルゼンチン人のように踊っても、彼女は『タンゴをうまく踊れる中国娘』なんだ。それは未来永劫ついてくる。もちろん、表立って彼女に誰もそんなことは言わない。でもそうなんだ」
アンドレスさんは現実を淡々と語るだけで、その良し悪しを述べているわけではない。そこが私にはとても新鮮に思えた。
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マタデロスで伝統舞踊を踊る女性達 03年5月、ブエノスアイレス郊外 |
そういう風に世間を眺めて、自分の置かれた立場を鳥瞰するような目で暮らしていれば、人種的なストレスを感じることもないだろう。それは、アイデンティティーの危機に陥りやすい人間の一つの工夫のように思えた。
自分はこうだ、などと考える必要はない。周りのステレオタイプ的な見方に抵抗もせず、単なる記号として受け入れてしまえばいい。そのステレオタイプの集団の中で、個人個人は違うものを抱いているわけだから。
合わせ鏡のようなものだ。ステレオタイプ的な見方に反発するということは、それだけこだわっているということだ。
「デブ」と言われた人が、「俺はデブじゃない」と言い返す。それはその人も「デブ」に属する人を差別しているからだ。でも「ああ、他人は自分をデブとみなすようだ。ならそう呼ばせておこう」と思えば、反発することもない。
数年前、日本の経済危機が世界で騒がれたとき、コロンビアの知人がこんな風なことを言った。
「なんで日本人はだめなんだ。やっぱり、インディオだからだろ」
ここで「インディオ」は先住民全般に対する蔑称として使われている。外見が先住民に近い日本人、中国人は彼らにとって「インディオ」と変わらない。なのに、なぜか「金持ち」になっているところが大きな謎なのだ。言葉には、そんな彼らの視線が込められていて面白い。反発する必要などない。「日本人=インディオ」という見方を踏まえた上で、彼らと接すればいいのだ。
(敬称略、つづく)
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