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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 01 遠いパラダイス
藤原 章生
第5回 ハイチ、アフリカからはるか遠く

 冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

2004年、ポルトープランスで

 なぜ銃を横にして構えるのだろう。ハイチの首都、ポルトープランスの郊外で4人組に銃を突きつけられたとき、私は妙に落ち着いていて、そんなことが気になった。銃を撃った経験はないが、普通、単銃を構える場合、銃は地面に対して垂直に、つまり縦にして使うものだが、私の前に現われた4人は、なぜか銃を90度寝かして、手の甲を空に向けた形にしている。4人が4人、みなそんな格好で「止まれ」「撃つぞ」などと言いながら近づいてくるものだから、何事かと思ったのだ。
 本当に相手を撃ち殺す気なら、ちょっと古いがハリウッド俳優、クリント・イーストウッドが主演し日本でも流行った70年代の映画「ダーティー・ハリー」シリーズの「お不潔刑事」のように、短銃を両手で構え、相撲取りが四股(しこ)を踏むようにしっかりと踏んばるものでは。あるいは、「羊たちの沈黙」のFBI捜査官、ジョディ・フォスターのように、少なくとも眼光鋭く、両手を銃に添えるのが、作法というものではないのか。
 なのに、4人のチンピラ風情は、小さめのサングラスでやや上向きに歩き、右手で銀や黒の短銃を上からつかみ、左手も前に突き出しヒラヒラさせている。こういう構えは、タイトルは忘れたが最近の米国のギャング映画で見た気もする。リオデジャネイロを舞台にしたブラジル映画「神の街(ラ・シウダー・デル・ディオス)」でも、子どものギャングがそんな風に銃を使っていた。チンピラの間の流行なのかも知れない。

2004年、ポルトープランスで

 ここではこれ以上、銃には立ち入らない。私は戦場や内紛のことを書くとき、あまり兵器のことを詳しく書かない。武器、兵器が好きでない上、浅い知識で下手なことを書くと、ずいぶんと詳しい人から説教されるためだ。やれ、なんとかは砲弾の直径が何ミリで破壊力はさほどないだの、自動小銃の場合「連発」という言い方はしないだの、私が訴えたい話と関係のないところで、無知を指摘されたりするので、わざわざ貴重な時間を武器の勉強にあてる気がない以上、あまり触れないようにしている。多分、4人組全員が銃を寝かせて構えるのは、戦術上何らかの理由があるのだろうが、銃に詳しくない素人の被害者から見ると、何だか馬鹿みたいだった。
 そんな経験はしたくないのに、私は過去に何度か銃を突きつけられている。そういうときは極度の緊張から、目の前の現実を斜に構えて眺めているような、まるで映画の中の出来事のように感じる錯覚(須原一秀著『超越錯覚』新評論、参照)が働き、意外に恐怖はないという。私にもそういう経験がある。でも今回のハイチの場合は、それとは違い、端からさほどの恐怖がなかったように思える。
 運転手2人に通訳、私の計4人はその日、反政府勢力が陥落させた町に向け、首都の市街地を抜けようとしていた。市内には焼き討ちや略奪のあとがあり、時折、ギャングが道をふさぎ、強盗まがいのことをしていた。

2004年、ポルトープランスで

 4人組もその類(たぐい)と思っていたが、いきなり銃を空中に撃ち、走りよってくるところが他の強盗とは違っていた。ただ、車のフロントガラスの向こうで近づいてくる例のポーズを見たとき、私には「撃たれない」という確信のようなものがあった。むしろあったのは「カメラと靴下に隠してある200ドルを盗られる」という落胆だけだった。それでなくとも私は過去に空き巣や置き引き、空港職員らにカメラを盗まれ続け、この時点ですでに長年使ってきた一眼レフ型をあきらめ、300ドルほどで買った最後の一機、オリンパスの小型デジタルカメラを大事に使っていたのだ。「結局、これも盗まれるのか。あーあ、また自腹で買わなくちゃなんない。お金がないのに、もう…」と思うと、腹が立ってきた。
 4人は我々を車から降ろすと、我々の後頭部に銃をぐいぐい押しつけ、ボディチェックを始める。その態度が何か芝居がかっていてまた腹が立つ。国の混乱をいいことにこんなギャングごっこをやって喜びやがって。銃がなけりゃ一目散に逃げる臆病者が、などと考えていると、身軽な少年が車の座席の下に手を入れ、カメラを探り当てた。「やられた」と絶望的な気分になっていると、少年はカメラを2、3度ひっくり返し、興味なさそうに座席の上にポンと置いた。もしかしたら…、という願いはかなった。連中はただの物取りではなく、反政府勢力につく民兵、つまり、結構まじめな類の悪者だった。彼らは反政府側の陣地の境界で待ち伏せし、武器を調べていたのだ。私が日本の記者と知ると、背の高いサングラスの男は「何だ、記者かあ」と言って、銀色の銃で頭をかいている。嬉しそうだ。「君たちの話を聞きにきたんじゃないか」と持ちかけると、ボスは少し戸惑いながらもエディ・マーフィーに似たやや派手な笑みを浮かべ、「じゃあ、何でも聞いてもらおうか」と言って、少し胸をそらせた。背が高いため、顔の向こうに空が広がる。そのせいか、その顔がことのほか黒く見える。

2004年、ポルトープランスで

 さて、何を聞いたものか。特段聞きたいこともないな、と考えていると、通訳の若い男が「早く、早く、何かを聞いてくれ、早く」と両手を挙げたまま私に絶叫した。少し慌てた私は「待て、いまレコーダーを出すから」と言って、小型の録音機を口元に当てると、エディ・マーフィーはもう銃などそっちのけで、嬉しさを隠しきれない「ウワッハ、ウワッハ」と声を上げて笑い出した。私もそれに反応し思わず笑い声を上げると、エディ・マーフィーの口元を中心に悪者たちの間に笑いの輪が広がり、一気に暑苦しくなった。
「気をつけてください。帰りは私の名を言ってくれれば問題ありません」。そう言われ、何事もなかったかのように、我々はその場を後にした。2、3分の沈黙の後、緊張が抜けたのか我々4人はつかれたように悪者集団の格好や、その時の我々の互いの顔つきについて冗談を飛ばしあった。靴下の200ドルは結局、さわられもしなかった。

 私は臆病なたちだ。子どものころ、夜、しかられて外に追い出されたときも、兄は遠くの公園まで一人で歩いていったものだが、私は怖くて、家の外の物置で声を潜めて隠れている方だった。13歳のとき、海で溺れたときも、足が立たないと思った途端、恐怖で体がすくみ動けなくなり、どんどん沈んでいった。

2004年、ハイチ南部ミレバレで

 ところが、ハイチではさほど恐怖を感じなかった。国が混乱し、若者が好き勝手なことを始める場面は、アフリカで何度か経験している。いずれも銃など絡まず、瞬時に広がる民衆の暴動という形だった。私はその場にいる唯一か、ごく少数の外国人。「ここにムズング(白人)がいる」「中国の傭兵がいるぞ」などと一人が叫び、不穏な空気が一気に濃くなり、誰かが棒で、拳でこちらに殴りかかる。ジグザクを切りながら、その場を逃げようとするが、投石に遭ったり、群衆、主に子どもと言える十代の連中に囲まれ、押しとどめられそうになる。叫び声は歌になり、歌は絶叫になる。
「・・・殺したのは、お前だ」
 と輪になって歌う群衆。
 その異様な調和、リズム、土ぼこり、喉の渇き、太陽、混乱。「殺されるかも」という疑問。「かも、かも」が膨らみ体から、脳から血の気が引いていく感覚。それが恐怖だ。
 その感覚が、ハイチにはない。なぜだ。

 地理的な違いだろうか。アフリカは大陸である。例えばコンゴ、旧ザイールの内乱。銃を持った連中が地図にも現われない密林を駆け回り、あらゆる蛮行を繰り返す。そんなイメージだけでなく、ごく平凡なやさしいアフリカ人たちが、機会を与えられれば、まるでティッシュペーパーに火をつけたような勢いで燃え上がる。人間の波は大陸の地平まで、永遠につきないように思える。
 強いて言えば、アフリカでの恐怖は、大海原を漂う恐怖。どうあがいても抜け出せそうにない、取り残された者の足のすくみだ。

2004年、ポルトープランスで

 だが、ハイチのそれは、池に投げ落とされ、もしかしたら溺れるかも、といった程度のもの。しかも池の周りから大多数の人が見守ってくれている。
 ここでも死体は路上に転がっている。でも、小さな島、小さな町では何から何までお見通しである。下手なことが起きれば、すぐにカリブをはさんだマイアミからヘリが猛スピードでやってくる。それに、この、アメリカのテレビの群れはいったい何だ。 
 しかも、「話が違うじゃないか」「いいから来なさい」「私は大統領だぞ」「いいから乗りなさい」と、米国が邪魔になった大統領を勝手に連れ去ってしまう。
 その大統領も芝居がかった三文役者のような男だ。その男に歯向かう反政府勢力は喜劇役者もいいところで、やはりゲリラごっこの域を出ない。米国に叱られると頭をかいて、すごすごと引き下がる。

2004年、ポルトープランスで

 ハイチ人には外見だけは西アフリカや、コンゴの人々によく似た人が大勢いる。だが、たどってきた歴史があまりに違う。両者とも、欧州列強の植民地支配下にあったとは言え、ハイチは寄せ集めの奴隷の子孫が共通の部族の言葉を持たず支配者のフランス人に抵抗しながら共存してきた国だ。一方、例えばコンゴを見た場合、ベルギー人が20世紀初めに入り込み、かなり暴力的な統治を続けたとは言え、国家という感覚からほど遠く、部族の文化を守り通してきた地だ。両者は全く別の歴史を生き抜いてきたと言える。
 コンゴの人々とは土台、役者が違う。住む世界も、育った環境も何もかも違うのだ。少なくとも、事に当たる際、コンゴ人には、ハイチ人ほどの自意識がない。こんなことをしたら米国がどう反応するか、世界がどうみるか。そんなことは考えもしない。

2004年、ポルトープランスで

 それでも、米国のメディアはよくハイチを何の躊躇もなく「アメリカ大陸、カリブ圏の中のアフリカ」と呼ぶ。私もブードゥーと呼ばれる宗教やその色彩豊かな絵から、カリブでも最もアフリカに近い文化を備えた国と思い込んでいた。
 だが、現時点で感覚的に言えることがある。ハイチにはアフリカほど得体の知れないものが潜んでいるとは思えない。アフリカほど、他者を排除し恐怖に陥れるような土壌がない。そして、アフリカ人ほどの強さ、群衆が放つエネルギーのようなものがない。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。 北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。

主な著作:
『世界はいま
どう動いているか』

(共著、岩波ジュニア新書)

世界はいまどう動いているか

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