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Series コラム
名著との再会 岩本 宣明
06/03/31

第8回 『モオツァルト・無常という事』

一冊の本との出会い…。同じ本でも、いつ、どこで、どのような状況で読むかによって、受け取るものは違ってくる。時を経て、再びその書物を手にしたとき、今度はまったく別のものを見いだすこともある。岩本宣明氏が、かつて読み、心に残った名著との再会を通じてその魅力を紹介する。

『モオツァルト・無常という事』
 小林秀雄著
 新潮文庫

――確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は迫いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。

 多感な子供のときに、誰(何)に憧れるかは、その人の人生を決定的に方向付けてしまうことである。誰だって、格好良い人になりたいと願うのは自然のことだから、憧れの人のように、自分もなりたいと思うからである。寅さんのような人格に痺れてしまった子供は、幸福な人生を送れるかもしれないが、悲惨な生活を覚悟せねばなるまい。出会いは、人生のすべてであると言ってもよい。
  私は、悩み多き少年だったので、ヨーロッパの小説とか、哲学の本とか、心理学の本などを読みすぎてしまい、さらには、芸術家や風来坊に憧れを抱いてしまったため、そのようなものに憧れることが、どのような結果を招くかということについて無自覚なまま年齢を重ね、軌道修正もできずに悲惨な人生をまっしぐらに歩いてきてしまった。我ながら、気の毒である。

  芸術のほかに、少年時代の私がとても憧れていたのは、教養であった。分からないことや知りたいことが多すぎることに苦しんでいた私は、教養がその苦しみの一部を取り除いてくれるに違いないと信じていた。いくら考えても分からないことや、答えのないことが世界にはあるということを知らないほどバカではなかったが、知ることで解決できることもあるのだということも、おぼろげながらには知っていたのである。
 教養を身につけたいと思っていた高校時代の私にとって、小林秀雄は大きな知の壁であった。当時、亀井勝一郎と小林秀雄は、教科書や模擬試験の定番だったのだけど、何度読んでも、その面白さがまったく分からなかった。当然である。当時の私はビートルズや中島みゆきが好きでモオツァルトなどほとんど聴いたことはなかったし、ワグナーやハイドンも名前しか知らなかった(今もそんなによく知りませんが)。かろうじてゲーテは少し読んでいたけれど、とにかく、『モオツァルト』に出てくる固有名詞の大半を知らなかったのである。が、教養も能力もないのに、誇りだけは嫌になるほど肥大化していた高校生に、そんなことは口が裂けても言えない。とにかく、ここに出てくる固有名詞が分かるようにならなきゃと、心密かに決意しつつ、「小林秀雄流に言うとさ」などと、空疎なことを口にしていた、情けない青年であった。

  高校時代に読んだ古い文庫本を書架から引っ張り出した私は、実は、試験を受ける学生のような気分になっていた。いったい、今の自分は、小林秀雄を面白いと思うだろうか。面白くないと思ったとして、その内容を理解したうえで、なぜつまらないかということがちゃんと言える大人になっているだろうか?
 再読して、私は胸をなでおろした。面白かったのである。
『モオツァルト』は、評論もまた創作であり芸術なのだ(当然ですが)、ということを、空手チョップを打ち込むみたいに、分からせてくれるほど、知の力溢れる作品だった。
 学生時代の私は、バカだったので(今もですが)、自分は何も創造しないで、人の作品や思想について、あれこれ、なんだか難しいことを書いている評論があまり好きではなかったし、そういう評論家的な生き方を、内心軽蔑もしていた。が、それは大きな間違いだった。小林秀雄を再読して、改めて、その思いを強くした。
 極論すれば、小林秀雄の理解が当を得ているか得ていないかということは、評論の面白さとはほとんど関係ない。作品中に出てくる固有名詞について、初歩的なことは知っておいたほうが、より楽しく読めるということはあっても、それをほとんど知らなくても、面白く読める(知らないと退屈なところがあることは否めませんが)。そういうものが、この作品にはある。高校時代の私に面白さが理解できなかったのは、固有名詞についての知識の不足だけではなく、この作品の面白さを理解できる知的体力が決定的に欠けていたからだった。
 小説や詩が芸術であるように、評論もまた、創作であり芸術である。冒頭に引用した「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は迫いつけない」という一文を生み出しただけでも、この作品は偉大であると思う。モオツァルトを知らない人でも、この言葉に打たれて、モオツァルトを聞いてみたいと思うであろう。それが、芸術としての評論というものではあるまいか。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

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モオツァルト・無常という事

『モオツァルト・無常という事』
小林秀雄著
新潮文庫

小林 秀雄 こばやし ひでお
(1902年 - 1983年)

評論家。東京生まれ。
東京帝国大学仏文科卒業。1929年に『改造』の懸賞評論で、『様々なる意匠』が二席に入選。1935年に『文学界』責任編集者となり『ドストエフスキイの生活』の連載を開始、『私小説論』を発表するなど、幅広く活動し、日本における近代批評を確立した。1983年、逝去。享年80歳。
著者に『無常という事』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『考えるヒント』『ドストエフスキイの生活』『Xへの手紙』『私小説論』など多数。

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