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Series コラム
名著との再会 岩本 宣明
05/11/30

第4回 『タテ社会の人間関係』

一冊の本との出会い…。同じ本でも、いつ、どこで、どのような状況で読むかによって、受け取るものは違ってくる。時を経て、再びその書物を手にしたとき、今度はまったく別のものを見いだすこともある。岩本宣明氏が、かつて読み、心に残った名著との再会を通じてその魅力を紹介する。

『タテ社会の人間関係/
 単一社会の理論 』

 中根千枝著
 講談社現代新書

 日本人が外に向かって(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先することである。記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。また他人がより知りたいことも、A社、S社ということがまず第一であり、それから記者であるか、印刷工であるか、またエンジニアであるか、事務員であるか、ということである。(中略)
 ここで、はっきりいえることは、場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくるということである。
 この集団意識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。

 以前、免疫学の分野で世界最先端の研究を続けている学者を取材した折に、学問の醍醐味について尋ねたところ、彼は「それはなんと言っても、世界の誰も知らないことを、今、自分だけが知っているという、えもいわれぬ幸福感ですよ」と答えた。忙しい時間を割いて難解な研究のことを何時間もかけて、素人の私にも分かりやすく説明してくれた親切に感動していたこともあったけれど、私は、自分の研究が多くの人の幸福に寄与するなどとしらけたことを言わなかった彼のことを、それで大好きになった。
 すべての学者がそういう幸せに恵まれるわけではないのだろうけれど、世界の誰も知らないことを自分だけが知っているというのは、ちょっと想像するだけでもワクワクすることだ。けれど、学問の醍醐味はそれだけではなかろう。世界中の誰もが知っていることだけれど、なぜそうなっているのかまだ誰もうまく説明できていないことについて、誰もが納得できるような説明を試みるというのも、負けず劣らずワクワクできる学問の魅力であるように思う。

『タテ社会の人間関係』で、中根千枝が提示したアイディアは、まさにそのような説明だった。
 中学校ではなぜ先輩があんなに威張っていられたのか、日本ではなぜ年功序列と終身雇用がゆるぎないのか、ヤクザや政治家はなぜ十年一日の如く派閥抗争を繰り返しているのか、テレビ局はどこもここも代わり映えがしないのはなぜか、兄弟姉妹よりも嫁や養子との関係に重きが置かれるのはなぜか・・・といった日本社会の不思議を、中根は「場」という概念を使って、見事なまでに完璧に説明している。学生時代にこの書に触れたとき、私は、私にはあまり居心地がよいとは思えない日本社会のすべてが理解できたような気持ちになった。
『タテ社会の人間関係』は1967年が初版の大ロングセラーである。中根はこの論文の中で、社会構造分析のカギとして「場」と「資格」という概念を提示している。「場」とは家族とか集落、学校、会社などの個人が属する集団であり、「資格」とは身分とか職業、性別などの個人の属性である。どのような社会であれ、個人は資格と場によって社会集団に属している。例えば、トヨタのセールスマンは、営業職という「資格」とトヨタという「場」で社会に属している。
 日本社会の特色は、資格より場が社会的に重要な意味を持つことである。デザイナーであるとか営業マンであるとかいう資格より、トヨタという会社に勤めているという場の方が、社会的に大きな意味を持つ。結果、個人が一つ以上の「場」に所属することは稀である。「場」への依存度が高いため、複数の場に所属することは集団への裏切りと取られかねない。企業に就職しながら、例えば、地域社会であるとかボランティアグループであるとか、その人が会社に所属するのと同じくらいの重要さを持って同時に他の何かの社会に所属することはきわめて珍しいのである。それを、中根は「単一社会」と呼び、日本社会の特徴だという。
 そうした社会では、デザイナー同士とか営業マン同士、同期入社といった資格を同じくするもの同士のヨコのつながりより、上司と部下、先輩と後輩といったタテの関係が、社会構造の基盤をなす。成員の絆は、ルールや信念といった等価で論理的なことがらではなく、保護と依存、温情と忠誠といった等価でない情緒的なものとなる傾向が強い。タテ型の社会で有力な成員となるには、能力や人格よりも、その場にどれだけ長くいて、どれだけ多くの直属の子分がいるかということが決定的意味を持つ。政治家なら当選回数、会社員なら入社年次が水戸黄門の印籠のような力を持つ。従って、転職などで途中で所属する「場」を変更することはものすごく不利なことである。年功序列や終身雇用といった日本型社会の特徴は、実はタテ型社会の特色なのである。

 中根の社会構造分析は、40年近くたった今もまったく色褪せることなく、日本社会の特質を説明し続けている。中根が本書で展開する「リーダーと集団の関係」を読めば、なぜ、派閥力学の中では異端児だった一匹狼の小泉首相が、かくも強力なリーダーシップを発揮できたのかを、うまく説明することができる。
 タテ型の社会では、大集団ほどリーダーはすべての成員を直接ではなく、大部分をリーダーに直属する幹部を通して支配せざるを得ない。一方、有力幹部は彼を頂点とするタテのグループを支配し、幹部同士はライバル関係にある。上に行けば行くほど、リーダーは有力な部下の顔色を伺わなければならない。有力幹部に造反されては集団を把握できなくなるばかりか、分派分裂の危険性を孕んでいるからである。そのため、幹部の発言権が強力になり、リーダーは有力幹部の調整役的な立場に立たされることが多い。日本社会にワンマンのリーダーが少なく、調整型のリーダーが多く見られるのは、そうした社会構造の制約があるからだという。
 小泉首相がこれまでの自民党の指導者と著しく違うのは、派閥という党中党を権力の基盤としていないことであろう。派閥のトップではなく派閥力学から誕生したのでもない小泉首相は、自民党というタテ型社会の従来のヒエラルキーからは逸脱しており、顔色を伺わなければならない有力な部下もいない。中根の理論を応用すれば、派閥領袖型ではない小泉首相が強力なリーダーシップを発揮できるのは、タテ型社会のしがらみから自由な立場にいるからなのである。
 ところで、バブル経済の崩壊以降、日本では、機会平等と自己責任を基盤とする自由主義が幅を利かせ、日本社会の特徴だった年功序列と終身雇用が過去のものとなりつつあるかのような現象が広がっている。さらには、フリーターやニートなど、社会に所属する「場」を持たない人々も増えてきている。彼女・彼らの苦しみは、「場」を重視する社会で「場」を持てない疎外感にあるのかもしれない。
 これからの日本社会は、タテ社会から、資格を同じくする人々がルールや信念で強く結びついたヨコ型の社会に移行していくのか、あるいは、もう一度、年功序列や終身雇用といったタテ型の社会の特徴を、形を変えて取り戻していくのか、興味は尽きない。

中根 千枝 なかね ちえ
(1926年−)

東京生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業。ロンドン大学で社会人類学を専攻。東京大学教授を経て、現在は東京大学名誉教授。専門はアジアを対象とする社会人類学。インド・チベット・日本の社会組織などを研究対象とする。2001年には文化勲章を受章。著書に『適応の条件/日本的連続の思考』『タテ社会の力学』(ともに講談杜現代新書)『社会人類学/アジア諸社会の考察』『家族を中心とした人間関係』(ともに講談社学術文庫)など。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

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