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Series コラム
名著との再会 岩本 宣明
05/10/31

第3回 『裸のサル』

一冊の本との出会い…。同じ本でも、いつ、どこで、どのような状況で読むかによって、受け取るものは違ってくる。時を経て、再びその書物を手にしたとき、今度はまったく別のものを見いだすこともある。岩本宣明氏が、かつて読み、心に残った名著との再会を通じてその魅力を紹介する。

『裸のサル』
 デズモンド・モリス著
 日高敏隆訳
 角川文庫

この奇妙な、そして高度に繁栄した種類は、たくさんの時間を彼の高尚な行動契機の探究に費やす一方、彼の基本的な行動契機を故意に無視することに同じぐらいの時間を費やしている。彼は、霊長類中最大の脳をもつことを誇っているが、彼のペニスもまた最大であることはかくしたがる。彼は卑怯にも、この名誉を巨大なゴリラに押しつけようとするのである。彼は、音声による意志の伝達のきわめて発達した、ひどく探索的な、ふえすぎたヒトニザルである。今や彼の基本的な行動を検討してみるべきときであろう。

 デズモンド・モリスの『裸のサル』は、私の大学時代にちょっとしたブームを巻き起こした名著である。人間を動物(類人猿の一種)ととらえ、動物を観察するのと同じ手法で人間の行動を観察するという視点の斬新さもさることながら、人間の行動を観察してみせることで、動物行動学という学問の面白さと奥深さを、存分に世に知らしめたのであった。
 青春時代、自分の鬱陶しさをもてあましていた私は、人間とは一体どのような存在であるのかを知りたくて哲学を学んでいたのだけれど(実際はお芝居に明け暮れていましたが)、高校時代にこの本に出会っていたら、もっと手っ取り早くしかも直接的に分かりやすく人間の何たるかを教えてくれる動物行動学を志し、今頃は一廉の学者となり動物である自分を深く理解することが出来て悩みも少なくなり、不惑を過ぎてなお自分の鬱陶しさをもてあましているということにはなっていなかったかもしれないと思うと、少し残念な気持ちがするほどである。
 加えて記すと、翻訳者の日高敏隆先生(といっても、私は飲み屋で何度かお見かけしただけで、薫陶を受けることはなかったのですが)は、当時大変な人気のあった教授で、その門下生だった竹内久美子氏の才能により、動物行動学の面白おかしさや日高氏が日本に紹介したドーキンス進化論は、多くの人の知るところとなった。竹内氏の『そんなバカな』は、ご覧になった方も多いことと思う。

 その内容が文句なく面白すぎたことは当然だけれど、私がモリスに傾倒し、さらに動物行動学や進化論に強い関心を抱くようになったのには、もう一つの訳がある。
『裸のサル』第五章「闘い」でモリスは、この本に書いてある人間が無意識に発している行動の信号(目を伏せたり、唇をなめたりといった行動)を注意深く学べば、行動によって人を騙すことができる、というようなことを書いている。モリスは実際に、警察官を扱うのにそれを計画的に試みて成功を収めたと豪語さえしている。
 すなわち、ちょっとした交通違反で捕まったら、自分がまったくまぬけでばかげていたことを告白し、罪を完全に認め、自分の車を止めた警官の正しい行為を賛美し、そのことに感謝する(相手を優位に立たせるため)。車から直ちに降りて(優位の相手が立っている時に座っていてはいけない)、車を離れること(自分の縄張りを放棄するため)。立ち上がったときは、頭をちょっとたれ、体をかしがせ気味にし、不安そうな表情をして目を逸らす——というような行動に、警察官をなだめる効果があるというのである。
 嘘みたいな偶然だが、その頃、京都の老舗の印章店で配達のアルバイトをしていた私は、その章を読んだ次の日、不注意から一方通行を逆進してしまい、運悪くその路地の出口で警察官と出くわしてしまった。もちろん、私はすぐに車を放棄し、自分の非を認め、捕まえてくれたことを感謝し・・・。そして、違反切符を切られずにすんだのだった。あのとき、中年の警察官が私を解放するときに見せた満足げな表情を、自らのあまりといえばあまりの卑屈な態度とともに、今でも鮮明に思い出すことができる。『裸のサル』は動物行動学的視点による人間論であると同時に、私にとっては勝れた実践の書でもあった。

 人間の行動原理は2階建てである(そうとは書いていませんが)というのが、モリスの説であると思われる。人間はもともとサル(当然ですが)であり、基本的にはサルやヒトニザル(類人猿)の行動様式を身につけているが、森を追われることで狩りをすることを強いられたために、猫科や犬科の行動様式をサル行動の上に建て増ししたのである。その特徴は、ひ弱な動物(ヒト)が自分よりも強い動物を狩らなければならない必要上、脳を発達させ、互いに協力して生きていかなければならなかったことにある。人間の行動パターンは、そうした必要に応じて進化している、というのがモリスの主張である。
 人間が家族を作るのも、一夫一妻制を堅持しているのも、他の動物と比べて異常にセックスが好きなのも、あらゆる民族に宗教があるのも、握手も育児も、みんなそれで説明がつく。残念ながら紙幅が足りず、掻い摘んででさえその論拠を紹介することはできないが、本書を読めば、ほんとかどうかはともかく、人間の行動や社会の構造について、「高尚な行動契機の探究」では教えてもらえない、目から鱗の説に出会うことができる。
 自分の鬱陶しさをもてあましている人は、すこし気持ちが楽になるかもしれない。
 それに、掛け値なく面白い。

デズモンド・モリス Desmond Morris
(1928年−)

イギリスの動物学者。バーミンガム大学を卒業後、オックスフォード大学で研究を行った。代表作『裸のサル』は、動物行動学、生態学を適用した大胆な人間論として世界的な反響を呼ぶ。動物の行動についてのフィルムやテレビ番組の制作にも関与。動物学を一般向けに説き、動物行動学的思想の普及に果たした役割は大きい。その他の作品に『マンウォッチング(上・下)』『ボディウォッチング』(以上、小学館ライブラリー)、『舞い上がったサル』(飛鳥新社)、『「裸のサル」の幸福論』(新潮新書)など。

日高 敏隆 ひだか としたか
(1930年−)

東京大学理学部卒業。専攻は動物学。京都大学教授、京都大学理学部長、滋賀県立大学学長を経て、総合地球環境学研究所所長。日本の動物行動学(エソロジー)の権威であり、1982年には日本動物行動学会を設立。ローレンツ、モリス、ドーキンスの日本への紹介者としても知られる。著書に『動物という文化』(講談社学術文庫)、『プログラムとしての老い』『ぼくにとっての学校』(以上、講談社)、訳書に『ソロモンの指輪』(コンラート・ローレンツ著、早川書房)、『裸のサル』(デズモンド・モリス著、角川文庫)、『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス著、紀伊國屋書店)など。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

裸のサル

『裸のサル』
デズモンド・モリス著
日高敏隆訳
角川文庫

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