../
風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 歴史
創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
07/04/15

最終回 幻の武田騎馬隊

2007年のNHK大河ドラマは「風林火山」。戦国大名武田信玄のもとで、縦横無尽に活躍する“軍師”山本勘助が描かれるが、ドラマのなかの勘助の物語は、はたしてどこまでが事実なのであろうか。新進気鋭の武田氏研究者が山本勘助の実像と虚像を紹介し、歴史事実を明らかにするとはどういうことかを考察する。

  今年の大河ドラマの主役・山本勘助を手がかりにして、戦国時代の史実と小説やドラマでえがかれる虚像とのちがいを紹介するシリーズも今回が最終回。第1回では、ドラマのなかで武田信玄の“軍師”として縦横無尽に活躍する山本勘助について、確実な史料の裏付けがとれるのは「実在した」ということだけだと紹介した。勘助については『甲陽軍鑑』という書物にその記載があるが、その内容は必ずしも信頼できるものではなかった。そこで第2回では、この『甲陽軍鑑』の内容について、信頼できる部分とそうでない部分があることについて論じてきた。
  小説やドラマでは脚色された人物像や事がらがえがかれていることはしばしばある。脚色があって当たり前という考え方もあるかもしれない。ところが、高校の「日本史」の教科書にも書かれているような“通説”にも、研究が進捗したために史実とは違っていたと、新たに判明することもある。例えば、武田信玄や武田軍を象徴する「騎馬隊」。その騎馬隊が、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に敗れたという話は有名だが、これは史実とは違っているということが、研究者の間では有力になってきている。

戦国時代に「騎馬隊」はいなかった?!

 小説やドラマで「武田騎馬隊」は、次のようにえがかれることが多い。
  信玄によって、“戦国時代最強の部隊”に育て上げられた騎馬隊。ほとんどの武士が馬に乗って、まさに「疾如風(はやきことかぜのごとく)」戦場を駆け抜ける騎馬隊を、武田信玄や山本勘助が指揮して、戦いを勝利に導き天下統一に邁進する。しかし二人の死後、長篠の戦いにおいて、当時の新兵器である鉄砲を三段構えにして撃ち続けるという新戦術を編みだした織田信長によって、完膚無きまでに叩きのめされた…。
  高校の「日本史」の教科書にも、やはり「武田の騎馬部隊」という言葉が使われている。「武田騎馬隊」が「織田鉄砲隊」に敗れたのが長篠の戦いであると。しかし、騎兵だけで編成された「武田騎馬隊」は、現実には存在しなかった。武田家に限ったことではなく、戦国時代には騎馬隊などという部隊編成は存在しなかったということが明らかになってきている。
  研究者たちが「武田騎馬隊」の存在を疑問視するようになったのは、長篠の戦いや武田軍の部隊編成についての分析がすすみ実態が明らかになったためだ。

  長篠の戦いについて記した史料の中で、比較的信頼性が高いものとしては、織田信長の家臣太田牛一が晩年に編纂した『信長公記』(1600年前後成立)がある。『信長公記』にはまず、戦いの準備過程で、織田信長が「馬防の為に柵」を構築させたという記述がある。したがって、織田信長が武田軍の馬を警戒していたことは事実であるらしい。
  肝心の武田軍の攻撃自体は、どのように描かれているのか。

〈一番目に山県三郎兵衛が、推太鼓を打ちながら攻め懸けてきた。(山県隊を)鉄砲を使って散々に打ち倒した。(中略)三番目に西上野の小幡一党が、赤い武者姿で入れ替わって攻め懸けてきた。彼らは「馬上の巧者」であり、やはり「馬入る」という戦法をとろうと、推太鼓を打って攻め懸けて来た。(織田方は)軍勢に準備していた「身がくし」をさせ、鉄砲を構えて待ち受け、(鉄砲を)打ちかけたために、(小幡勢は)過半数が打ち倒され、無人(壊滅状態)になって退却した。(後略)〉

長篠の戦い跡に作られた馬防柵

『信長公記』では、武田軍のなかの「小幡一党」の攻撃を「馬入る」と表現している。「馬防の柵」とあわせると、彼らが馬を利用した戦法を用いたのは確かだろうが、それ以上の記述は見当たらない。つまり、武田軍全体が騎馬隊だったとは言えないのである。信長の家臣が「馬上の巧者」として感心したのは、上野国(群馬県)の有力国人(豪族)で、武田家にとっては新参者である小幡勢でしかなかった。

戦場では馬から降りて闘った?!

  また史料としての価値は『信長公記』よりもやや劣るものの、『甲陽軍鑑』には長篠の戦いについて大変興味深い記述をしている。

〈どの備え(大部隊)においても、大将(指揮官)と役者(役目を帯びた者)の7~8人だけが馬に乗っていた。残る人間は皆、馬を(後方にいる非戦闘員に)曳かせて、馬から下りて鑓を持って、備えごとに(敵陣に)攻め懸けた。〉

  戦闘が始まった後、馬に乗っていたのは各備え(大部隊)の指揮官ほか数名だけで、他の乗馬者は馬から下りて戦ったとある。これは、一般に語られる長篠の戦いの様子とは全く異なる。
  この記述は、従来、研究者からあまり注目されていなかったように思うが、私は「馬から下りて戦った」という話は、武田信玄、勝頼が出した文書によって裏付けることが出来ると考えている。その文書のなかに、戦闘が始まったら物主(指揮官)と老人、病人以外は、乗馬してはならないという規定があるからだ。武田軍においては、指揮官以外の乗馬は、基本的に禁止されていたと考えるべきであろう。
  そもそも「騎馬隊」という部隊編成はあったのだろうか。ここでは長篠の戦いの4年前に、武田信玄が弟の武田信実に与えた軍役規定(軍事の際に動員するべき人数や武備などを規定したもの)をみてみることにしよう。この武田信実隊の編成は、武田家においては標準的なものである。

       定
    一、乗馬     三騎
      付、甲・手蓋・咽輪・宮具足・
        脛楯・指物・持鑓、可為如法、
    一、鉄砲     五挺
    一、持鑓長刀共ニ 五本
    一、長柄     拾本
    一、弓      弐帳
    一、持小旗    三本
       此内一本者、積之外也、
      右、具在前、
   元亀二年辛未    跡部美作守奉之
    三月廿三日(朱印)
       兵庫助殿

(陽雲寺文書 *注

騎馬隊は本当はいなかった?!
(2005年山梨県甲府市で行われた
信玄公祭りより)

  この史料から、戦争が起こったとき、武田信実が動員するのは28人で、指示された武装は多様なものであったことがわかる。そのなかで乗馬を義務づけられた人間はわずか3人に過ぎない。これは馬に乗るのが部隊の指揮官クラスに限られていたことを示唆していよう。主力武器は明らかに鑓(槍)であり、「持鑓」と「長柄」を合わせて15本にものぼる。意外なのは鉄砲で、信実隊においては、鉄砲の数が馬の数よりも多い。
  つまり実際の武田軍は、乗馬した指揮官に率いられ槍や鉄砲をもった歩兵の部隊が、複数集まることで構成されていた。また武田氏の軍役規定を網羅的に集めた研究によれば(平山優『武田信玄』吉川弘文館、2006年など)、武田軍の騎馬構成率は約10%で他大名よりも割合が低いという、極めて意外な結果が示されている。
  このように「武田騎馬隊」の存在は、史料的に根拠がないのだ。さらに、武田氏の本拠地・躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から発掘された馬は、骨格こそがっちりしているものの、体高は約120センチ程度にすぎないものであった。戦国時代の馬は、現在われわれが目にする競走馬(体高170センチ前後)とは、まったく体格が異なるのである。この程度の体格の馬に、重い鎧を身につけた武士が乗るのだから、大してスピードが出ないであろうことは、想像に難くない。敵陣に高速で突撃するような騎馬隊は、実際の馬から見ても実現が困難なのである。

「長篠の戦い」は“小説家”の創作だった!

  それでは、「武田騎馬隊」の話はどこから生まれたのであろうか。このことを本格的に検討したのが太向義明氏である。彼の著した「武田“騎馬隊”像の形成史を遡る」(『武田氏研究』21号、1999年)によれば、「武田騎馬隊」像の起点は、小瀬甫庵が書いた『信長記』であったという(題名が紛らわしいため、『甫庵信長記』と呼ばれる)。
  この『甫庵信長記』の三番手・小幡隊の攻撃シーンを現代語訳してみよう。

〈三番手として、上野の小幡一党3000余騎が轡を並べ、馬上に鑓を持ち、その多くは太刀を真っ向に振りかざして、一面に進んで攻め懸けたところ、徳川殿(家康)の先鋒の大将である大久保七郎右衛門尉・その弟の大久保次右衛門尉・内藤三左衛門尉がこれを見て、「すわ、敵が馬を入れて来たぞ。谷が深い所や溝を前にして、鉄砲を伏せ(身を隠して)、5間~10間(約9~18メートル)まで敵を引き付けて撃て」と駆け回って命令をしたところ、案の定(敵は)馬を入れてきた。間近に引き付けて、撃ったところ、三百人ほどをばたばたと打ち倒した。(小幡勢は)馬の駆け引きが自由にならず、最後には1000騎ほどまでに撃ち減らされ、まばらになって退却した。〉

『甫庵信長記』は、武田軍小幡隊3000騎が馬を並べて攻めてきたと記している。武田軍が騎兵だけで編成されているかのような記述だが、果たして信頼してもよいのだろうか。
『甫庵信長記』は、太田牛一の『信長公記』に増補してまとめたものと、序文で明記している書物なのである。増補された部分のほとんどは、“空想”に近い内容で、小説としておもしろく読んでもらえるように書かれている。これは、小幡隊の突撃場面を、前述した『信長公記』の同じシーンの文章と比較してもらえれば一目瞭然だろう。大幅に記述が増えているばかりか、出所不明の誇大な数字や、講談調の会話文が挿入されている。『信長公記』では単に、馬をあつかうのが得意な部隊があるとだけ書かれているのに、大勢の騎兵が突進してきたかのような記述になってしまっている。
『甫庵信長記』を書いた小瀬甫庵は、長篠の戦いに関してもうひとつ大きな創作をしたことが、藤本正行氏によって指摘された(『信長の戦争―「信長公記」に見る戦国軍事学―』講談社、2003年)。それが、織田信長が「3000挺の鉄砲による三段打ち」戦法を採用したという話だ。
  つまり「武田騎馬隊」を「鉄砲三段打ち」で討ち破ったというストーリーはすべて、江戸初期の“小説家”小瀬甫庵の手で生み出された虚構であることが明らかにされたのである。
『甫庵信長記』は広く刊行され、同書を下敷きとした書物も多く書かれた。この江戸時代初期に書かれた“小説”の内容が、そのまま近代以降も受け継がれ、教科書に書かれるまでの“通説”として定着してしまった。それはどうしてか。

大日本帝国陸軍が「空想」を「史実」にした!

  太向氏は、その理由は1903年(明治36年)に刊行された、日本陸軍の軍令機関である参謀本部が編集した『日本戦史 長篠役』にあったと指摘する。同書の記述は、明らかに『甫庵信長記』とその後続書が下敷きになっており、「騎戦に長ずる武田軍を、織田信長が鉄砲三段打ちで破った」とある。戦争の“プロ”である軍隊が編集し、その後、軍部で教科書として使われたぐらいの「戦争史」なのだから、その後この内容が、“公式見解”的に扱われてしまったとおもわれる。
  さらに1937年(昭和13年)に陸軍が、東京大学史料編纂所(日本史の研究機関)の所長だった著名な歴史学者・辻善之助氏に監修させ、国威発揚のために一般向けに編纂させた『大日本戦史』では、「長篠の戦」を担当した歴史学者が、1903年の『日本戦史』をもとに執筆したうえに「武田方の多くは騎馬」だったとさらに誇張した表現を使ってしまった。この『大日本戦史』でえがかれている様子が、その後一般に広まった“定説”のもとになってしまった。
  問題は、この「武田方の多くが騎馬」だったという話が、なぜ戦後になっても見直されなかったかということである。私はその理由として、戦後、軍事史研究を敬遠する風潮があったことが挙げられると思っている。軍事史に対する関心が薄かったために、長篠の戦いについて記述する際には、参謀本部編『日本戦史』や辻善之助監修の『大日本戦史』の内容が、ほとんど検証されることなく踏襲され続けてしまったのである。

  このように、“通説”として語られていた「武田騎馬隊」は、実像とはあまりにかけ離れたものである。実際の武田軍においては、馬に乗るのはそれなりの身分を有した人間だけであり、ほとんど騎兵だけで編成された「武田騎馬隊」というのはまったくの虚構に過ぎない。このような「武田騎馬隊」像は、江戸初期の”小説家”の創作に端を発し、それが明治の軍人によって陸軍公式見解に持ち上げられて生み出されたものである。それを歴史学者が踏襲し続けたことで、通説化への道が開かれることになった。
  私がみたところ、戦後において、「武田騎馬隊」は研究者から何の疑問も持たれて来なかったわけではない。しかし軍事史に対して関心を持つ者は少なく、漫然とやり過ごされてきたというのが実情に近いように思う。誰も否定しなければ、旧来の説が最新の成果として生き続ける。結果として、特に一般向けに概説を行う際に、「武田騎馬隊」が不用意に呈示されることになったのである。そうした発言の参照や引用が重ねられるにつれて、「武田騎馬隊」は、広く“通説”としての地位を固めてしまった。
  しかしそう遠くない将来、「騎馬隊」はいなかったということが“通説”になるだろう。ドラマや小説でも、戦いのたびに馬から下りて、走って突撃するシーンが、当たり前になるかもしれない。

(敬称略、おわり)

*注 埼玉県上里町にある武田信実の子孫の菩提寺に伝わる史料

BACK NUMBER
PROFILE

丸島 和洋

1977年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部非常勤講師。専門は、戦国大名論および史料論。甲斐の武田氏を主な題材に、戦国大名同士の外交や、戦国大名「国家」のあり方について追究をする日々を送っている。
主な著作:
『武田信虎のすべて』(分担執筆、新人物往来社)、『武田勝頼のすべて』(分
担執筆、新人物往来社)、『戦国遺文武田氏編』第六巻(共編著、東京堂出
版)、『戦国人名辞典』(分担執筆、吉川弘文館)

新書マップ参考テーマ

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて