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Series 歴史
創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
07/01/15

第1回 山本勘助の史料はたったの1点!

2007年のNHK大河ドラマは「風林火山」。戦国大名武田信玄のもとで、縦横無尽に活躍する“軍師”山本勘助が描かれるが、ドラマのなかの勘助の物語は、はたしてどこまでが事実なのであろうか。新進気鋭の武田氏研究者が山本勘助の実像と虚像を紹介し、歴史事実を明らかにするとはどういうことかを考察する。

“実在した” たしかなことはそれだけ!

  山本勘助や武田信玄を主人公にした小説やドラマで描かれる勘助の人生を簡単にまとめると、次のようになる。1500年頃に三河国(愛知県)の牛久保または駿河国(静岡県)で生まれ、諸国を遍歴して武者修行をした。その後、駿河国の戦国大名今川義元を相手に仕官活動をしたがうまくいかず、甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕えた。信玄のもとで“軍師”として重用されたが、上杉謙信と戦った川中島の戦い(1562年)で戦死した、という。
  こうした勘助像の大部分は、『甲陽軍鑑』という書物に由来する。『甲陽軍鑑』は、武田家の興亡を描いたもので、大雑把にいうと合戦・戦乱を主な題材にして虚実をおりまぜた「軍記物」というジャンルに分類される史料である。この「軍記物」については、内容が荒唐無稽であり、史料としての価値は低いという厳しい評価が下された時期があった。『甲陽軍鑑』も具体例として批判を受けている。したがって『甲陽軍鑑』をもとにしてしか描くことができなかった山本勘助は、『甲陽軍鑑』の筆者が創造した架空の人物であったのではないか、という理解が広まったことすらあった。
  だが現在、武田氏を専門とする研究者に、勘助が架空の人物だったと主張する人はまずいない。というのも、戦後発見された武田信玄の書状(手紙)に、「詳しいお話は山本菅助が口頭でお伝えします」と書かれたもの(*註)がみつかったためだ。これが勘助に関する唯一の史料である。したがって、「山本菅助」という人物が、信玄の家臣にいたことは間違いないというのが専門家の間でも認められている。
「勘助」、「菅助」と、微妙に名前が違っているが、これは珍しいことではない。戦国大名ともなれば、書状はいちいち自分で書いたりはしない。「こういう風に書け」と指示して、右筆(ゆうひつ)に書かせるのである。音だけで聞くから、当て字があたり前という文化であった。だから勘助と書こうが、菅助と書こうが、読みが同じなら問題はない。
  ただ困ったことに、この書状を読んで分かるのは、このときの使者を勘助が務めたということだけである。だからそれ以上は分からない。
  もっともこの時代の使者はただの使い走りではない。書状には大筋だけを書いて、詳しい説明は使者に任せたからである。とくに駆け引きが必要な場合は――たとえば怒っている相手をなだめたり、言い逃れる相手を恫喝したり――使者の手腕がものをいった。
  だから使者を務める人間は結構幅広い。かなりの重臣の場合もあれば、勉強を兼ねて若手を派遣することもある。僧侶に頼むことも多いし、交渉事を専門とする家臣も存在する。一方で大して急ぎでも重要でもない用件の時は、旅人に書状を預けてしまうことさえあった。つまり相手の格と、話の重要度に応じて使い分けたと考えればいい。
  この書状は、北信濃(長野県)の国人(在地領主)・市川藤若に出した返事である。1557年のことである。市川の居城は上杉氏との国境にあったため、上杉謙信が近くまで攻めてきていた。ところが市川が降伏勧告を拒絶して、城の防備を固めたために、上杉勢は攻撃を諦めて撤退したという。幸いにも攻撃は免れたものの、市川が信玄に依頼した援軍は間に合わず、これが問題となった。だから信玄は、市川の功績を讃えると同時に、援軍の遅れを謝罪したのである。この謝罪は形式的なものではなく、「今後は連絡があり次第、独断で援軍を派遣するよう家臣に命じました」という改善策まで提示した、中身のあるものであった。
  市川藤若という人物は、武田氏の陣営に付いて日が浅い。その上「藤若」という呼び名からして、まだ子供であったと考えられる。おそらく敵の圧力を受けて、かなり動揺したことだろう。ここで誠実な対応を見せないと、上杉側に寝返ってしまうかもしれない。山本勘助は、不安と不満で揺れ動く市川氏をなだめる使者に選ばれたと思われる。このような使いは下っ端では務まらないであろう。それなりに地位が高く、信玄の家臣として名前が知られていて、かつ話術に長けた人物であることが望ましい。少し深読みが過ぎるかもしれないが、山本勘助とは、そういう人であったと推測できる。
  だが、山本勘助で、史料的に裏付けられ、確実にいえることは、ここまでが限界なのである。もっとも、このように史料的な裏付けがなかなかとれない武将は、めずらしくない。武田氏は、信玄の子勝頼の代に滅亡する。そのときに上級家臣の多くが処刑されてしまったため、家臣団の史料がほとんど残っていない。とくに信玄が若い頃の家臣は、かなりの重臣でも、ほとんど史料に出てこない。勘助の出てくる史料だけが少ないという訳ではないのだ。

武田氏を知る史料―『甲陽軍鑑』に潜む落とし穴

  もしこれ以上の勘助像を追い求めるならば、『甲陽軍鑑』に頼るしかない。『甲陽軍鑑』では、勘助は諸国の情勢に詳しく、築城術や戦争の作法などにも通じた足軽大将(実戦指揮官)として描かれている。
  前述したように、『甲陽軍鑑』は「軍記物」であるからという理由で史料として扱うべきではないといわれたことがあった。しかし、そこに書かれている内容がすべて歴史事実とちがっているとして史料的価値がないということではない。他の史料から内容が事実と違っていると分かる箇所があったとしても、『甲陽軍鑑』の筆者が、事実とは異なることを意図的に記載したのかもしれない。だとすれば、その意図を斟酌したうえで読み進めることで、『甲陽軍鑑』に史料的価値を見いだすことができる。
  現在では研究がすすみ、『甲陽軍鑑』が戦国時代の言葉で書かれていることが明らかになっている。これによって『甲陽軍鑑』の史料としての価値は高くなった。ただ執筆の過程で、色々な史料を集めたり、聞き込みを行ったと考えられるものの、出典が一切書かれていない。このため、事実であったと思われる内容と事実とは異なる内容とが混在してしまっている。したがって、部分部分で吟味をしていかなければならないのである。
  では山本勘助が登場するくだりは、事実なのかそうでないのか。残念なことに、それを判断することが難しい。比較対象となる史料がないからである。
  一方で、『甲陽軍鑑』の執筆意図を酌むことによって、勘助が活躍している記述について、事実とは違うのではないか、と判断できる箇所がある。同書のなかで、勘助の登場する時期の記述を読むと、彼と同じ時期に活躍していることが、他の史料から明らかであるにもかかわらず、『甲陽軍鑑』にはまったく登場しない重臣が複数存在する。その中心が、若い頃の信玄を支えた「文治派」と言える側近集団だ。
『甲陽軍鑑』という書物は、信玄から軍功を認められて出世した重臣・春日虎綱(高坂昌信)が、若い勝頼を取り巻く側近層を批判する目的で書かれた書物である。織田信長によって武田軍が壊滅的な打撃をうけたことで有名な長篠合戦で、信玄時代からの功臣がみな戦死し武田家は存亡の危機に瀕した。そうした状況で、功臣の一人である高坂が、勝頼の側近・跡部勝資らに意見する目的で書かれたのが『甲陽軍鑑』であり、その意図は、文中にしっかり記載されている。ひとことでいえば、信玄時代からの武功派による勝頼取り巻きの文治派への反撃であり、常に信玄の判断の正しさが強調された。このような論理を展開する以上、「信玄が重用した文治派の側近」の存在は都合が悪い。信玄の政策は、信玄自身の発案によるか、武功派の家臣による提案であることが望ましい。文治派の側近層が、まったく登場しないのは、明らかに意図的な操作の結果だろう。
  改めて山本勘助の活躍を読み直すと、身分の低い武功派家臣(=勘助)が優れた提案をし、信玄がそれを見事に使いこなすという文脈で貫かれている。本の書かれた目的と、あまりに一致しすぎる記述は、慎重に扱う必要があろう。『甲陽軍鑑』に記された勘助の活躍に、疑問符がつくと私が考えるのはこうした理由である。
  なかには淡々と勘助の行動だけを記し、他の登場人物と同列に扱っている部分も存在する。こうした記述に関しては、それなりに信頼をしてもよいのではないかと考えられるのである。

武田氏の居城・躑躅ヶ崎館跡。現在は、武田神社。

戦国時代に“軍師”はいなかった!?

  より問題なのは、『甲陽軍鑑』にすら載っていない話である。たとえば江戸幕府の命令で編纂された甲斐国の郷土誌『甲斐国志』のなかには、山本勘助が武田信玄から「晴幸」という実名を与えられたという話がある。当時、名前の一字を家臣に与えることで主従関係を強化するということが行われた。武田信玄は実名を「晴信」という。山本勘助は、信玄から「晴」の字をもらったというのである。
  しかしながら、これほど荒唐無稽な話はない。「晴信」の「晴」という字自体が、室町幕府将軍足利義晴から与えられた字だからだ。目上から頂いた字を、家臣に与えるということは、当時の社会通念上あり得ない。この話は、『甲陽軍鑑』には出てこない。江戸時代に入って創作されたエピソードでしかない。
  この手の話の究極形といえるのが、冒頭で述べた勘助が“軍師”であったというもので、小説やドラマではよく言われていることだ。いわゆる“軍師”とは、主君が全幅の信頼を置く軍事参謀をイメージする言葉だろう。彼等は主君にとって唯一無二の知恵袋であり、他の家臣たちにも尊敬される特別な存在として描かれる。
  確かに『甲陽軍鑑』には、勘助が様々な進言をするシーンが登場する。しかし『甲陽軍鑑』では一度も、勘助のことを“軍師”とは呼んでいない。勘助の立場は、あくまで足軽大将(実戦指揮官)であった。
  それもそのはずで、“軍師”ということば自体は、江戸時代に広まったものだからである。江戸時代、芝居や戯作で戦国時代を物語りにするときに、主人公の相談役となる人間がいたほうが物語を組み立てやすい。また一方で、平和が続いた江戸時代だからこそ、すでに廃れていた軍事知識を売り込んで生計を立てようとする人間、軍学者も出てきた。彼ら軍学者にとっては、有名武将の秘伝を受け継いだと主張した方が商売上都合がよい。そこで戦国大名のもとでとくに活躍した武将たちを、勝手に“軍師”と呼んだのだ。“軍師”と一般に呼ばれる戦国武将たちに、頭脳派というイメージ以外に共通点が存在しないのは、このためだ。
  山本勘助といえば、頭脳派“軍師”として信玄のよきブレーンだったとイメージされていることが多いが、それは後世の軍学者や作者によって作り上げられたものなのである。

  一般に知られる戦国時代のエピソードの中には、このように江戸時代になって作られた話が多く含まれている。戦国時代の確実な史料をみても、エピソードと呼べるほど詳しい記述はなかなか見つからない。だから小説やドラマでは、どうしてもこのような話を取り入れざるをえない。山本勘助の例は、その極端なものである。だから大河ドラマやTVの時代劇などを見て「今も昔も変わらないんだな」と思ったら…、それが本当にそうなのかは、疑ってみたほうがよいかもしれない。

(敬称略、つづく)

(*註)
「市川家文書」(『戦国遺文武田氏編』第一巻562号文書、東京堂出版)

注進状披見、仍って(長尾)景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地へ取り懸かるべき模様、又武略入り候と雖も、同意無く、あまつさえ備え堅固故、長尾功無くして飯山へ引き退き候哉、誠に心地能く候、何も今度其の方の擬、頼もしき迄に候、なかんずく野沢在陣の砌、中野筋後詰めの義、飛脚預かり候き、則ち倉賀野へ上原与左衛門尉を越し、又当手の事も、塩田在城の足軽、原与左衛門尉を初めとして五百余人、真田へ差し遣わし候処、既に退散の上、是非に及ばず候、全く無首尾有るべからず候、向後は兼ねて其の旨を存じ、塩田の在城衆に申し付け候間、湯本より注進次第に、当地へ申し届けるに及ばず、出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔所へ下知を成し候条、御心易く有るべく候、猶、山本菅助口上有るべく候、恐々謹言、
 六月廿三日  晴信(花押)
  市河藤若殿

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PROFILE

丸島 和洋

1977年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部非常勤講師。専門は、戦国大名論および史料論。甲斐の武田氏を主な題材に、戦国大名同士の外交や、戦国大名「国家」のあり方について追究をする日々を送っている。
主な著作:
『武田信虎のすべて』(分担執筆、新人物往来社)、『武田勝頼のすべて』(分
担執筆、新人物往来社)、『戦国遺文武田氏編』第六巻(共編著、東京堂出
版)、『戦国人名辞典』(分担執筆、吉川弘文館)

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