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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
09/09/30

第5回 フィリップ・カン・ゴタンダ~人間の絆を描く劇作家

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

 日系を含めたアジア系アメリカ演劇は、日本出身の俳優、マコ・イワマツがロサンゼルスで劇団イースト・ウェスト・プレーヤーズ(EWP)を創設した1965年に始まった。8年後の1973年には、サンフランシスコでアジアンアメリカン・シアター・カンパニー(AATC)が旗揚げされ、サンフランシスコ出身の日系3世、フィリップ・ゴタンダは西海岸にできたこの2つの劇団に深く関わるようになる。

表現の場を音楽から舞台へ

フィリップ・カン・ゴタンダ
フィリップ・カン・ゴタンダ
Photo: Carol Rosegg
 ゴタンダの祖父母は広島県出身。母方の祖父は渡米して中西部の鉄道で働き、その後カリフォルニアのストックトンに落ち着いた。父方の祖父はハワイに移住し、フィリップの父、ウィルフレッド・イツタ・ゴタンダも13人兄弟と共にハワイに生まれ育ったが、本土で医学を学んだ後ストックトンで開業した。ウィルフレッドは、この地で教師をしていたキャサリン・マツモトと出会い、結婚した。新婚生活が始まったばかりの時に第2次大戦がはじまり、2人はアーカンソー州のローワー収容所に送られた。戦後、ストックトンに戻り、1951年にフィリップが生れた。
 50年代から60年代にかけて、フィリップは圧倒的に白人が多い地域で育った。日系アメリカ人の視点でものを見ることが考えられない時代であり、環境だった。物心がついた頃から彼は、自分のなかにある芸術的な部分と真面目な部分を認識していた。その2つの面の「揺れ」の中で、彼は13歳の時にギターを手にし、作曲をし、バンドをつくり、音楽に夢中になった。
 60年代後半になると、アメリカでベトナム反戦運動や黒人による公民権運動がおこる。「アジア系アメリカ人」という概念がつくられ、彼らをとりまく状況は、そういった社会情勢と相まって一変する。大学生の時にちょうどこの渦の中に巻き込まれたゴタンダは、イエローパワーや人種差別主義などの考え方に、ついていくことができなかった。学生のストライキで授業に出ることもままならなくなった。そんな時、日本への交換留学プログラムの話が持ち上がり、彼はそれに参加して日本で自分を見つめなおすことにしたのである。1970年のことだった。
 当初は日本になじめなかったが、やがて日本文化、とりわけ陶器に興味を持つにいたり、ゴタンダは栃木県の益子で陶芸を学ぶ。そして外見が同じ日本人の中で暮らすことがいかに心地よく、心理的負担がないかを実感する。だが、一方で自分がアメリカ人であることを再認識し、新たなビジョンを持ってアメリカに戻ることになる。この滞日体験は、ゴタンダに大きな影響を与え、戯曲でもその当時の体験が時々現れる。
 アメリカに戻り、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に入学した彼は、アジア系アメリカ人運動の文化的側面に関心を持ち、日系詩人のローソン・イナダ、フィリピン系詩人のジェシカ・ヘゲドン、日系で音楽活動をしていたクリス・イイジマ、ノブコ・ミヤモトやジャズバンドの「ヒロシマ」などから刺激を受ける。ハイスクールのころから音楽に親しんでいたゴタンダは、73年に大学を卒業した後もシンガー・ソング・ライターを続け、自分のアイデンティティを歌に込めてさまざまな場所でうたっていた。歌手として「ヒロシマ」のオーディションを受けたこともある。結局は「ヒロシマ」には加わらなかったが、これがきっかけで同バンドリーダーのダン・クラモトとの親交がはじまった。
 こうしたクリエイティブな活動をしながらも、ゴタンダは、もうひとつの「堅実な面」を持続していた。75年にロースクールに入学し、78年に法律の学位を取得している。小さい時からの「揺れ」がこの時まで続いていた。医師だった父親の影響もあったのかもしれない。しかし、この後、彼は敢然と芸術に向かっていく。それも、歌ではなく、舞台に表現の場を求めた。彼自身の言葉を借りれば、自分の歌をうたっているだけでは満足できなくなってしまったのだ。
「The Avocado Kid(アボカド・キッド」」という日本の桃太郎をベースとしたロック・ミュージカルを書き、ロサンゼルスのEWPで上演され、評判になった。1979年のことである。ちょうど、アジア系アメリカ人の劇団がアジア系アメリカ人の手による新しい戯曲を求めていたときで、ゴタンダの登場はそんな状況に合致していた。
 これまで、ゴタンダは20本ほど戯曲を発表しているが、現在はアジア系の小劇場のみならず、ボストンのハンチントン劇場や、ニューヨークのマーク・テイパー・フォーラムなどの大劇場、さらにはイギリスや日本でも彼の作品は上演されている。日本ではこれまで、「The Wash」「A Song for a Nisei Fisherman」「Sisters Matsumoto」の3作品が、それぞれ、「ザ・ウォッシュ」「太公望のひとりごと」「マツモト・シスターズ」のタイトルで上演されている。まずは、この3本の戯曲を紹介したい。

父の姿を通して日系人の一生を紡ぐ

「太公望のひとりごと」パンフレット
「太公望のひとりごと」パンフレット

「太公望のひとりごと」は、2003年10月に、劇団メイプル・リーフ・シアターによって文京区の三百人劇場(2006年閉館)で上演された。アメリカでの初演は1981年である。私は、1984年、ロサンゼルスのEWPによる公演と、この三百人劇場での日本公演を観た。
 この戯曲は、作者の父、ウィルフレッド・イツタ・ゴタンダをモデルとした作品で、主人公イツタ・マツモトの青年期から老年期に至る人生を「魚をとる」「魚を洗う」「魚を料理する」「魚を食べる」そして最後にまた「魚をとる」に戻るという、ユニークなタイトルの場に分けて描いている。
 ハワイで生まれ育った釣り好きのイツタは本土で医者になり、ミチコと結婚する。戦時中は収容所に送られ、戦後子供をもうけるが、子供たちと世代間のギャップを感じるようになる。日本人でない女性とデートをしたり、法学を捨てて作家になる子供たちが理解できず、彼らとのコミュニケーションを断ってしまう。ある日、突然妻のミチコが脳腫瘍で他界。孤独の中、最後の場でイツタは夢の中で自分の両親と妻に再会する、という物語だ。だが、描いているのはイツタのことばかりではない。
 第4場で、妻のミチコが言う。「28年間あなたの食事をつくり、服の洗濯をし、あなたの子供を産んだ。あなたは自分の人生でやりたいことがあった。夢を持っていた。その夢が遠くにいきかけたとき、あなたは嘆き、私はあなたをなぐさめた。夢が叶ったとき私はうれしかったけれど、あなたは一度も私に感謝してくれなかったよね。2人の息子もそれぞれやりたいことを持っている。夢を抱いている。でも、私の夢はどうなっているの。私がしたいことがあったらどうなの」
 このような、自立を求める2世女性像は、「ザ・ウォッシュ」に引き継がれている。

自立する妻と身勝手な夫

「ザ・ウォッシュ」パンフレット
「ザ・ウォッシュ」パンフレット
「ザ・ウォッシュ」は、1999年に日本の劇団手織座によって同劇団のスタジオで上演された。アメリカでの初演は1985年である。
 この作品は、ゴタンダの身の回りにおきた二つの実話をもとにして書かれた。一つは夫と離婚し、他の男性と新しい関係を築いたある2世の女性、もう一つは離婚後もかつての妻のところに芝を刈りにやってくるある2世の作家である。ゴタンダは後者の話に出てくる芝を洗濯に置き換えて、日系老夫婦の物語を書いた。
 日系女性のマシは、家父長的な性格を持ち、文句ばかり言っている夫ノブから離れ、一年以上、別居状態を続けている。だが、その間マシはずっと洗濯をするためにノブの家を訪れていた。やがて、マシにはサダオという新しい恋人ができ、釣りを通して愛情が深まっていく。マシは離婚を決意する。ノブは承服しないが、決意の固いマシを前にして、なすすべがない。ノブは子供とも問題を抱えている。黒人と結婚し、黒人との子供が生れた娘をなかなか許すことができない。自立心の強い女性をテーマに描いているが、自己中心的なノブもまた、ゴタンダは愛情を込めて描いている。
 この作品は、1988年にマイケル・トシユキ・ウノという日系監督によって映画化された。老夫婦の役はノブ・マッカーシーとマコ・イワマツという、今はどちらも故人となってしまったが、日系を代表する役者が演じた。私はこの映画を1988年にロサンゼルスのリトル・トーキョーで観たが、内容とは別に、役者がすべて日系アメリカ人であることと、マコとマッカーシーのベッドシーンがあることが話題になっていた。

描かれることのない戦後の日系社会を追求する

『悲劇喜劇』2004年5月号
『悲劇喜劇』2004年5月号
「マツモト・シスターズ」は、2004年6月から7月にかけて、新宿の紀伊国屋サザンシアターで劇団民藝によって上演された。私が観にいった日は、台風が日本に上陸した日で、強風で壊れそうになった傘を持って劇場に向かったことを今でもよく覚えている。
 公演に先駆けて、『悲劇喜劇』の同年5月号に、吉原豊治による翻訳台本が掲載された。上演前に台本が演劇誌に載るというのも異例だが、日系アメリカ人の翻訳台本が活字になったのは、この前にも後にも例がない。快挙といっていいだろう。
 この作品は、1945年の晩秋、アーカンソー州の日系人強制収容所からカリフォルニア州のストックトンに戻った三姉妹を描いた作品である。戯曲の冒頭に、キャサリーンへ、と但し書きがあるように、作者の母をモデルとしているが、チェーホフの『三人姉妹』と谷崎潤一郎の『細雪』にも間接的に影響を受けている。
 作品の背景は戦争の直後だが、ゴタンダはこの時代に強い関心があるという。日系人が収容所を出た後、彼らがアメリカ社会にどう再編入されていったかについて、文学ではまだ十分描かれていない。また、日系社会内部の階層構造や、日系社会と他のより大きな文化との関係に興味があり、この作品ではそれらのテーマを追求した。
 主人公は長女の2世、グレース。帝国大学出身の夫ヒデオは元大学講師で、今は新聞の発行を夢見ている。ヒデオは貧しい家庭に生まれたため、資産のあるグレースを結婚相手として選んだ。しかし、ストックトンにあるグレースの家は銀行の手に渡っていた。収容所にいるとき、彼女の父親が親しくしていた友人にだまされ、子供たちに内緒で家を売却していたのだ。資産を亡くしたグレースは、資産のない今の自分とこれからも生活を共にしていくのかと夫に迫る。戯曲の中で最も緊張感が高まった場面だった。
 三人姉妹というのは絵になる。芝居を見ながらそう感じた。だが、長女と次女の夫と、三女の恋人の3人の男たちもまた、絵になっていた。診療所を開業したいと思っている次女の夫ボーラとヒデオとの確執。ボーラは帝国大学出の義兄にいつも見下されている気がしていた。ヒデオの無口で人付き合いの悪いところも気にいらなかった。でも、資産がなく、また収容所で親米派の義父と対立していたヒデオは、生きる術として無口にならざるを得なかったのである。
 最後の幕で、姉妹の父親が銀行に売ったお金をどう活用しようかという話になる。それを取りまとめたのが、今まで無口で生きてきたヒデオだった。売りに出されていたホテルを買い取り、そこに新聞社の社屋と診療所をつくろうという計画で、皆賛同した。
 こうして、明るい希望が見えたところで幕が閉じた。収容所後の日系人の話ではあったが、グレースを演じた樫山文枝の「一番客席に届けたいのは、信頼や支えあうという感情」(朝日新聞朝刊 2004年6月19日)が戯曲全体から伝わってきた。
 ゴタンダのそれまでの作品以上に人物の感情が深く掘り下げられていると感じた。作家自身も進化、そして深化しているのだろう。
 荒天にもかかわらず、劇場の客席は7~8割うまっていた。劇団の力か、主演・樫山の力か。いずれにせよ、日系アメリカ人の地味な芝居を多くの日本人が見てくれるのは私としてはうれしいことだった。

家族関係から民族問題まで、縦横に広がる作品世界

 日系1世から3世まで描くゴタンダの戯曲の世界は、年代でいうと、1910年代から現在までをカバーしている。特に年代が特定できない作品もあるが、時代背景と戯曲との組み合わせは以下のようになる。

1910年代 Ballad of Yachiyo
1920年代 A Song for Nisei Fisherman
1940年代 Manzanar: An American Story, Sisters Matsumoto
1950年代 After the War
1960年代 The Wind Cries Mary
1970年代 Bullet Headed Birds, The Wash
1980年代 Yankee Dawg You Die, Fish Head Soup, Yohen
1990年代 Days Standing on its Head, in the dominion of night
2000年代 floating weeds, a fist of roses, Under the Rainbow
特に時代背景のない作品 The Dream of Kitamura,  
The Avocado Kid or Zen and the Art of Guacamole

『Fish Head Soup and Other Plays』
『Fish Head Soup and Other Plays』
 日本で上演された3作品はすべて日系アメリカ人の家族を描いたものだが、他にも上記の表でいくと、父方の伯母で夭折したヤチヨをモデルにした「Ballad of Yachiyo」、60年代を背景にした「The Wind Cries Mary」、 80年代を背景にした「Fish Head Soup」も同系列の戯曲だ。
「Fish Head Soup」で描かれている家族像は暗い。精神が病んだ父、白人男性と関係を持っている母、ベトナム戦争の経験が頭から離れない長男のヴィクター、自殺と見せかけてしばらく家を離れており、日系アメリカ人を描いた映画をつくりたいと思っている次男のマット。それぞれの会話がうまく噛み合わない。この作品の初演は1989年で、ゴタンダは、必ずしも明るい日系家族像を提示していない社会が受け入れる素地ができた、と語っている。ゴタンダが劇作家として79年にデビューしてちょうど10年。社会の変化に敏感に対応しているのがわかる。私には、日系アメリカ人のベトナム戦争の体験が語られているのが新鮮に感じられた。第2幕でヴィクターは弟のマットにこんな台詞を吐いている。

「ベトナムにいたときだって? ベトコンの迫撃砲に打たれたことはお前も知っているだろう。衛生兵はだれも俺のことを構やしなかった。血を流して倒れているのに、他の奴らのところばかりいって。俺は叫び続けた。『俺は日系アメリカ人だ。ベトコンじゃない』。でも誰も来てくれなかった。ただ横を通りすぎていくだけだった」

 家族を描いたドラマだが、日系アメリカ人、あるいはアジア系アメリカ人とは何か、というのもテーマとしてひっかかっている。そしてその命題が鮮明に映しだされているのが、「Day Standing on its Head(夜と昼が逆さま)」、「Yankee Dawg You Die(ヤンキー・ドーグ・ユー・ダイ)」と「Under the Rainbow(虹の下で)」の第一幕、「Natalie Wood is Dead(ナタリー・ウッドが死んだ)」である。ここでは、アジア系アメリカ人俳優をモチーフにした後者2つの戯曲を取り上げてみたい。

日系人とアメリカ人のプライドの狭間で

「ヤンキー・ドーグ・ユー・ダイ」は、若い日系男優、ブラッドレー・ヤマシタと年配の日系男優、ヴィンセント・チャンがハリウッドで俳優をやっていくことの意味を語りあう芝居である。チャンは中国名だが実は日系人で、第二次大戦後、中国名にした経緯がある。チャンはアカデミー助演男優賞にノミネートされたことがあり、スカーレット・キモノ(1959年に製作されたサミュエル・フラー監督のサスペンス映画「クリムゾン・キモノ」のことであろう)に出演したことがあると話していることから、マコ・イワマツや、日系3世のジェイムズ・シゲタをモデルにしていると思われる。
 アジア系アメリカ演劇で地道な活動をしているヤマシタは、ハリウッド映画で差別的な、お決まりの東洋人を演じてきたチャンを批判する。だが、ヤマシタも結局は、オーディションでそのような役を受け入れ、自分がやることで監督や制作者を説得して変えていくのだ、とチャンにいう。以下、戯曲の最終場面。

ブラッドレー:役を得られれば、変えられると思うんだ。制作者や作家とひざを突き合わせて状況を説明することができる。もしぼくが役をとらなかったらどうなる? 他の奴がとって、とんでもない東洋人を演じることになる。
ヴィンセント:そうだな、ううん。
ブラッドレー:腹を割って話して、説得して変えるんだよ。ぼくはそうする。少しでいい。ほんの少しでもいい。それで成功さ。もし彼らが変えないとしても、少なくとも、ぼくたちがどう考えているか、彼らはわかるだろう。次の機会がある。次の機会になるかもしれないけど。
ヴィンセント:そうだな。
ブラッドレー:うん、そういう意味で。些細なやり方だけど、それで勝ちだ。そう、それで勝利なんだ。


 このブラッドレーの主張は、おそらく作者の主張でもあるのだろう。このやりとりを読んで、私は2001年に「そして心は踊る」という日系人が書いた戯曲の演出家として来日したマコ・イワマツの言葉を思い出した。公演に合わせて行われた早稲田大学のシンポジウムで、マコは、ハリウッド映画で変な日本人の役が自分に回ってくると、監督に対して抗議をすると発言していた。台詞一行容易に変えられないハリウッド映画の世界で、抗議しても無駄なことはわかっている。でも、自分が憤怒していることは伝えるのだ、と。
 タイトルの「ヤンキー・ドーグ・ユー・ダイ」は、Yankee Dog You die(犬畜生のヤンキー、死ね)を、日本人訛りに発音したものである。バーで酒を飲みながら、ヤマシタとチャンが言葉遊びをしているうちにチャンの口をついて出てきた言葉である。
 日本人、あるいは東洋人の訛りは、この芝居の冒頭でも使われている。この芝居は、チャンがモト刑事に扮して独白する場面から始まる。モト刑事は、戦前の映画、「ミスター・モト」のシリーズに出てくる主人公で、典型的な東洋人を、ハンガリー系の白人が演じていることで知られている。強い東洋訛りでモトを演じるヴィンセントは、芝居の最後で同じ独白を、今度は訛りなしで演じる。以下。

ヴィンセント:(前略)私はUCLAを卒業しました。生まれも育ちもサンホアンキン・バレーで、カリフォルニアで人生をずっと過ごしてきました。それで、なぜ私の言っていることが聞こえない? なぜ本当の私が見えない?

 DogをDawgと発音し、小間使いやウエイターなどの役しか与えられないアジア系アメリカ人の情況を自らの手で変えていくのだ、というブラッドレーの主張と、アメリカ人である自分たちの本当の姿を受け入れて欲しいというヴィンセントの訴えが、二重奏のように響いてくる。

日系女優のキャリアを否定したい

「ナタリー・ウッドが死んだ」は、日系女優の母と娘が、「ヤンキー・ドーグ・ユー・ダイ」と同じように、自分たちが出演してきた映画について語りあっている。作者がノブ・マッカーシーへ、と作品の冒頭に書いているとおり、母親役のキヨコ・ダルホーサーはマッカーシーをモデルにしている。キヨコが、自分が若いときに出演した映画、「Geisha Boy」(邦題「底抜け慰問屋行ったり来たり」1958)や「Five Gates to Hell」(邦題「野獣部隊」1959)に言及していることから、それは明白だ。日本生まれのノブ・マッカーシーこと渥美延は、「Geisha Boy」に抜擢されたことで、アメリカで女優として活躍する足がかりをつかんだ。劇中、キヨコが、「Geisha Boy」について、こんな風に娘に自慢するくだりがある。

「ねえ、ちょっとこれを読んであげるわね。東部の大学で出版されたアジア系アメリカの雑誌に書かれたものなんだけど。えっと……『ゲイシャ・ボーイ……多くの人がこの作品は主演のジェリー・ルイスの馬鹿なコメディだと思っている。でも、私はこの映画を見たとき、この小さな少年に自分自身を見た。そして、もっとも驚いたことは、ジェリー・ルイスが誰を選んだか。彼はマリー・マクドナルドでなく、キヨコ・ダルハーサーを選ぶのだ』。つまり、私ってことね。『「クリムゾン・キモノ」でも、サミュエル・フラー監督は逆のことをしたが、あれと同じである。あの映画では、ヴィクトリア・ショーがグレン・コルベットでなく、ジェイムズ・シゲタを選ぶ。「ゲイシャ・ボーイ」では、ジェリー・ルイスがマリー・マクドナルドでなく、キヨコ・ダルホーサーが演じるミチコ・オカダを選ぶ。マダム・バタフライ症候群が逆転した勝利の瞬間である』」

 こんな輝かしい経歴がある母親に対して、娘のナタリー・ハヤシは、自らの女優人生がみすぼらしく、もう女優をやめようと思っている。芸名のナタリー・ハヤシは米国の女優ナタリー・ウッドに因んで、母親が名づけたものだ。ナタリー・ウッドは1981年に映画の撮影中に不慮の事故でなくなり、この芝居のタイトルもその事実がベースとなっているが、ナタリー・ハヤシが「ナタリー・ウッドは死んだのよ」という時、それは自分がハリウッドで女優としてやってきたことを否定したい、という意味が込められている。白人にレイプまがいのことをされる、アジア系の男を無視して白人男性に走る。映画の中でそんなことをしてきた自分に決別したいと思っている。母親のキヨコは、どんなことがあっても映画界に居続けるべきだと説得しようとするが、二人の距離は縮まらない。
 エンターテインメントの世界に存在するアジア系アメリカ人の壁。それは、一見成功してきたかに見えるジェイムズ・シゲタもマコ・イワマツもノブ・マッカーシーも、おそらくは感じてきたはずのものである。アジア系アメリカ人が抱えている人種の問題は、ともすると男だけ論じられがちだが、女にもある。「ナタリー・ウッドが死んだ」は、アジア系女性が抱えているだろう人種の問題に踏み込んだ作品といえるだろう。

『No More Cherry Blossoms』
『No More Cherry Blossoms』
 今回のコラムで私が取り上げたゴタンダの戯曲は、すべて『Fish Head Soup and Other Plays』と『No More Cherry Blossoms(桜の花はもういらない)』という2冊の戯曲集に収められている。後者には、「Sisters Masumoto」や「Natalie Wood is dead」を含めて4つの戯曲が収録されているが、どれも女性が主人公である。桜は美しさの象徴でもあるが、女性は従順であればよいという東洋の伝統世界を連想させるものでもある。それからの決別を示したタイトルにゴタンダの意図が読み取れる。
 各戯曲には、初演の配役や演出家の名前も記されており、配役を見ると、ゴタンダはどの作品でも、必ずしも日系人の役者を使わない。韓国系や中国系の役者も好んで使う。それについて、一度彼に聞いたことがある。
「今の日系4世、5世はまるっきりアメリカ人で日系の歴史に関心がない。韓国系の若者は今2世なので、彼らのほうが日系2世の経験をより的確に表現できる」
 この彼の答は大変興味深いものだった。ゴタンダが戯曲で描いている世界は日系社会だが、舞台で演じられている世界はアジア系アメリカ社会なのだ。

映画でもテーマは、人と人のつながり

 ゴタンダはこれまで、「The Kiss(1992)」「Drinking Tea(1996)」「Life Tastes Good(1999)」という3作品の監督を務めており、「The Kiss」と「Life Tastes Good」では出演もしている。もともとミュージシャンとして人前で演じることに慣れているゴタンダだから、演技も堂に入ったものだ。

「The Kiss」パンフレット
「The Kiss」ビデオ
The Kiss(ザ・キス)」は、まわりからいじめられているサラリーマン、ウィルフレッド・フナイが主人公。同僚から仕事を押し付けられ、昼食のサンドイッチには女性の下着が挟まれている。仕方なく昼食をとりにレストランに入ると、そこに一人のエイズ患者がいた。その患者が呼吸困難で倒れる。まわりが動揺し手をこまねいている中、フナイは毅然として立ち上がり、口移しで人工呼吸を行い、その男の命を救う。会社に戻ったフナイは、自分をいじめている同僚に言う。「ぼくは人の命を救った」。役者たちの台詞を極限にまで少なくした13分の短編映画で、フナイの台詞はこれのみ。何かが変わろうとしている一人の男の内面を描いた作品だ。
「Drinking Tea(お茶を飲む)」は、息子を亡くした日系アメリカ人夫婦を描いている。主人公のカン・オガワは、メアリーと50年近く寄り添っているが、息子の死の責任はメアリーあるとずっと妻を責めていた。カンには恋人がいたが、恋人の死に直面し、メアリーのもとに帰ってくる。カンも長らく病気を患っており、最後を看取ってほしいと妻に頼む。自分の死を意識してはじめてカンは人生の辛さや苦さを理解し、息子の死が妻の責任でないことを認める。タイトルのお茶は、人生の苦さの象徴として用いられている。
「Life Tastes Good」DVD
「Life Tastes Good」DVD
「Life Tastes Good(人生はいい味)」は、犯罪絡みの金を動かしていたハリー・サドという男の物語である。その金をめぐって仲間のジョーンズと揉め、ハリーは倉庫に隠れて生活している。余命いくばくもないハリーは、それまで関係を断ち切っていた子供たちとの関係を修復しようとする。また、その倉庫で、ある白人女性と親密になる。死を間近にして人生の意味に気づき、ハリーは「人生はいい味」とその女性に呟く。このあたりは、「Drinking Tea」と通ずるものがある。
「Life Tastes Good」は、ゴタンダにとって初の本格的な長編映画で、1999年にサンダンス映画祭で上映された。私が見たのは、同年3月に行われたサンフランシスコ・アジア系アメリカ映画祭においてだったが、サンダンスでの上映が終わったばかりで、ゴタンダが興奮冷めやらぬ様子で舞台挨拶をしていたことを、今でもよく覚えている。
 余談だが、今、コカコーラ社が'Life Tastes Good'という言葉を宣伝文句として使用している。ゴタンダは自身のウェブサイトでこんな風に書いている。
「全く信じられないけど、コカコーラが宣伝で大々的にこの文句を使っている。俺たちの映画のタイトルだってこと、知らないのかい? 俺たちが最初に使ったんだぜ」

「ザ・キス」や「人生はいい味」は、とくに日系アメリカ人を意識した物語ではないし、自立した力強い女性を描いているわけでもない。でも、人と人との関係、人間の絆を描いている点では他の作品と共通している。ゴタンダは戯曲でも映画でもさまざまな試みをしているが、作品を通して一番描きたいのは、まさにこの点なのではないか。人と人がどうつながっているのか、どんな絆で結ばれるべきなのか。映画ではそんな大きなテーマが扱われている。

いつか日本人とアメリカ人の物語を

 2001年にゴタンダは、30余年ぶりに訪日している。もう自分探しの旅ではない。特別なつながりを感じている国を訪れる旅だった。心の奥底で日本とつながっている、と彼はいう。2003年、2004年と彼の戯曲が日本で上演されたときにも来日し、日本語版公演を鑑賞している。アメリカでの公演では、観客にさまざまな人種がおり、反応もさまざまだが、日本では皆が同じように反応する。それは、ゴタンダにとって新鮮な発見だった。
 2006年、彼は国際交流基金日米センターと外務省が共催している「日系アメリカ人リーダーシップ・プログラム」に参加した。パネリストの一人として彼は次のように発言している。
「日本人とアメリカ人がどうしたら協力しあうことができるかを描いた物語をつくりたい」
 是非、実現させてほしいものである。
(敬称略)

※本文中に引用した詩・エッセイの翻訳はすべて筆者による。

~フィリップ・カン・ゴタンダ 作品リスト~

  【演劇関連】
  戯曲(出版されたもの)

  • The Dream of Kitamura, West Coast Plays 15/16, California Theatre Council, 1983
  • The Wash, West Coast Plays 21/22, California Theatre Council, 1987 
  • Yankee Dawg You Die, Dramatist's Play Service, 1991
  • Day Standing on Its Head, Dramatist's Play Service, 1994
  • Fish Head Soup and Other Plays, UW Press, 1995 [Fish Head Soup, Yankee Dawg You Die, The Wash, A Song for a Nisei Fishermanの4作品を収録]
  • Ballad of Yachiyo, Theatre Communications Group, 1997
  • The Wind Cries Mary, Dramatist's Play Service, 2004
  • No More Cherry Blossoms: Sisters Matsumoto and Other Plays, UW Press, 2005 [Sisters Matsumoto, The Wind Cries Mary, Ballad of Yachiyo, Under the Rainbowの4作品を収録]
  • 「マツモト・シスターズ」 吉原豊司訳 『悲劇喜劇』2004年5月号
  電子書籍(上記以外の戯曲)
  • Bullet Headed Birds. Alexander Street Press, 2009
  • American Tattoo. Alexander Street Press, 2009
  • In the Dominion of Night. Alexander Street Press 2009
  • Yohen. Gotanda, Alexander Street Press, 2009
  • Floating Weeds. Alexander Street Press, 2009
  • Jan Ken Po. With Shiomi, Rick A.,Hwang, David Henry Alexander Street Press, 2009
  初演(作品名、初演年、劇団名、上演場所)と作品の簡単な紹介
  • Avocado Kid or Zen and the Art of Guacamole, 1979, East West Players, Los Angeles
    日本の「桃太郎」をベースにした、アジア系アメリカ人初のミュージカル。
  • Bullet Headed Birds, 1981, Pan Asian Repertory Theater, New York
    政治的に革新的な立場にたつ2人の日系アメリカ人のミュージシャンが、アジア系アメリカ人のサウンドを追求する。ミュージシャンとして、日系アメリカ人とは何かを考える。
  • A song for a Nisei Fisherman, 1981, Asian American Theater Company, San Francisco
    釣り好きの主人公、イツタ・マツモトの青年期から老年期に至る人生を描く。作者の父をモデルにした作品。
  • The Dream of Kitamura, 1982, Asian American Theater Company, San Francisco
    強盗殺人が起きたある家の主人、ロサンジンが、悪魔のような幻影、キタムラに怯える。ロサンジンの家族と、ロサンジンを守る2人の武士を幻想的に描く。作者が実際に見た夢を戯曲化した。
  • The Wash, 1985, Los Angeles
    家父長的な夫から離れ、他の男性に惹かれる日系女性、マシ・マツモトの人生を描く。1988年に映画化され、その翌年、ビデオ化される。
  • Fish Head Soup, 1989, Berkeley Repertory Theater, Berkeley
    サンホワンキンバレーに住む日系家族の内なる差別意識を描く。
  • Yankee Dawg You Die, 1986, Berkeley Repertory Theater, Berkeley
    若手俳優、ブラッドレー・ヤマシタとベテラン俳優、ヴィンセント・チャンという2人のアジア系男優が、お互いのハリウッド体験を通して進むべき道をみつける。
  • Day Standing on Its Head, 1994, Manhattan Theater Club, New York
    1970年代前半、大学内で起きたアジア系アメリカ人運動への関わりを通して、法学の教授である日系3世、ハリー・キタムラが自分と向き合う。夢と現実が交錯する幻想的な作品。
  • In the Dominion of Night, 1994, East West Players, Los Angeles
    夢からさめたジョー・オズの幻想的な台詞劇。ゴタンダが主演し、自身のThe New Orientalsというジャズ・バンドがバックを務める。
  • Ballad of Yachiyo, 1995, Berkeley Repertory Theater, Berkeley
    舞台は1919年のハワイ、カウアイ島。貧しい農家に生れたヤチヨが奉公に出された先で起こる人間模様を描く。自殺した作者の伯母がモデル。
  • Sister Matsumoto, 2000, Seattle Repertory Theater, Seattle
    戦後、収容所からカリフォルニアのストックトンに戻った3人姉妹の苦難を描く。
  • The Wind Cries Mary, 2002, San Jose Repertory Theater, San Jose
    舞台は1968年のサンフランシスコ。ベトナム反戦、アジア系アジア系アメリカ人の民族意識が高まる世相のなか、白人と結婚した日系女性、エイコ・ハナビが力強く生きる様子を描く。イプセンの『ヘッダ・カプラー』の翻案劇で、タイトルはジミー・ヘンドリックスの同名の曲から。
  • A Fist of Roses, 2003, Campo Santo+Intersection for the Arts, San Francisco
    アメリカ社会における男らしさと、暴力との関係を追求した作品。家庭内暴力をなくそうというMan Aliveという団体の講習会参加者の生の声などから台本がつくられた。男性による女性への暴力を描く。
  • Floating Weeds, 2003, Campo Santo+Intersection for the Arts, San Francisco
    ハスラーのベニー、ベニーの彼女のグローリア、グローリアの兄のアールの3人が織り成す物語。根無し草、浮草のように生きる兄妹を描く。旅芸人の一座を描いた小津安二郎の「浮草」と直接の関連はないが、「浮草」という題名にひかれてこのタイトルをつけた。
  • Under the Rainbow, 2005, Asian American Theater Company, San Francisco
    第一部はNatalie Wood is Deadと題され、母と娘のハリウッド体験を描く。Yankee Dawg You Dieと対をなす作品で、映画の中のアジア系女優像を提示する。第二部のWhite Manifestoは、アジア系女性を好む白人男性の一人芝居。白人男性の心の内を描く。
  • Manzanar: An American Story, 2005, Berkeley Symphony, Santa Cruz
    日系指揮者、ケント・ナガノと合作したマンザナー収容所物語。バークレー交響楽団に日系俳優のパット・スズキ、サブ・シモノ、ニュースキャスターのウェンディ・トクダが参加。
  • Yohen, 2006, Pan Asian Repertory Theater, New York
    舞台は1986年のカリフォルニア。タイトルは漢字で「窯変」。窯変とは陶器を窯で焼くと、予期しない色合いが出ること。もと黒人兵士と一緒になった日本人妻、スミの予期しがたい結婚生活を描く。
  • After the War, 2007, American Conservatory Theater, San Francisco
    戦後のサンフランシスコの日本町。戦時中、日系人が収容所に収監されていた間に、黒人が移り住んだ。他にもロシア人、ユダヤ人、オクラホマ出身のプアホワイトらが集まっていた日本町を描く。
  日本での上演(作品名、上演年、劇団名か制作者名、上演場所)
  • ザ・ウォッシュ(The Wash)1999年10月 劇団手織座 手織座アトリエ
  • 太公望のひとりごと(A Song for a Nisei Fisherman) 2003年10月 メイプル・リーフ・シアター制作 三百人劇場
  • マツモト・シスターズ(Sisters Matsumoto) 2004年6~7月 劇団民芸 紀伊国屋サザンシアター
  【映画関連】
  • The Wash (1988) 脚本、出演(新郎役 クレジットなし)
    マイケル・トシユキ・ウノ監督が映画化。94分。
  • The Kiss (1992 ) 脚本、監督、出演(Wilfred Funai役)
    Center for Asian American Mediaがビデオ化。13分の短編。
  • Drinking Tea (1996) 脚本、監督
    Center for Asian American Mediaがビデオ化。30分。
  • Life Tastes Good (1999) 88分  脚本、監督、出演(Mr. Jones役)
    Cinema Epochが2007年にDVD化。88分。オンライン市場で入手可能。
参考資料
『イエローフェイス』 村上由見子 朝日新聞社 1993
『駆け落ち 元トップモデル渥美延の選択』 吉村俊作 東京新聞出版局 1998
Asian American Culture on Stage, Yuko Kurahashi, Garland Publishing, 1999
Identity Politics of Asian American Drama; the theoretical landscape of Philip Kan Gotanda and Velina Hasu Houston 貴志雅之 「大阪外国語大学英米研究26」 2002
『日系アメリカ人リーダシップ・シンポジウム 芸術からビジネスまで:多様な職業を通じた日系アメリカ人の貢献』 国際交流基金日米センター 2006
『アジア系アメリカ演劇』 山本秀行 世界思想社 2008

参考ウェブサイト
http://www.philipkangotanda.com/
 1999年11月に立ち上げられた本人によるウェブサイト。Floating Weeds, Joe Ozuなどのコラムがあり、ゴタンダの演劇・映画に関する活動、評論、戯曲の草稿、詩、などが精力的に書き込まれているが、この2年ほど、更新されていない。Floating Weeds(浮草)は、同名の戯曲もあり、本人の人生観を示しているように思われる。ジョー・オズは、Day Standing on its Headと、In the Dominion of Night に登場する人物で、彼のメールアドレスにもこの名前が使われている。オズは、彼が敬愛する映画監督、小津安二郎からとったもので、ジョーは、アメリカの肉体労働者の典型的な名前からとった。ジョーは、これ以上縮められない名前で、基本に戻る、という意味も付与されている。また、この名前を続けて発音すると、日本語の「上手」になるという洒落も含まれている。

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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