風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series コラム
石垣島に魅せられて ~移住者の南島ルポ 松村 由利子
11/06/30

第6回 台風の島と大津波

沖縄本島から南西に400キロ。サンゴ礁を覆うミントブルーの海、ジャングルやマングローブの濃い緑と一面のサトウキビ畑。ある人はただただ自然に魅せられ、またある人は島ならではの食や文化に入れ込みこの島で暮らす。都会の生活から避難した若者もいれば、島興しに燃える島人(しまんちゅ)の逞しい姿もある。昨年5月、都会からこの島に移り住んだ、歌人でありライターの松村由利子が、島に魅せられた人々を通して、その素顔と魅力を探る。

東日本大震災に匹敵する大津波が石垣にも

 2011年3月11日、大津波が東北地方を襲う様子をテレビで見ながら、私は「明和の大津波」のことを考えていた。東日本大震災に匹敵するような天災が、かつて石垣島を襲ったことがあるのだ。
 明和の大津波は、1771(明和8)年に、石垣島と宮古島を襲った津波である。2010年に石垣島へ移り住んだときには、「明和」にも「大津波」にもなじみがなかった私だが、古くから島に住んでいる人たちから折あるごとに聞かされるため、だんだん身近に感じるようになってきた。よく聞かされる島の3大昔話といえば、「戦争マラリア」「人頭税」、そして「明和の大津波」の3つである。これらは、石垣島の人々を苦しめたものとして、今も語り継がれている。
「戦争マラリア」は、第二次世界大戦中、疎開させられた住民の多くがマラリアにかかって苦しんだ史実を指す。地上戦がなかった八重山の場合、マラリア禍の方が大きく、3600人余りが死亡した。「人頭税」は、一定の年齢に達した人すべてから同額取り立てるという苛酷な税だが、八重山の人たちは17世紀の初めから琉球王府と薩摩藩に二重に課税され、260年もの間たいへん苦しめられた。
 そして、明和の大津波は、人頭税が課せられていた時代に起こり、津波後に病虫害や疫病が流行したことなどから、長い年月、何重にも人々を苦しめた。何だか地震と津波、原発事故の三重苦に苦しむ人たちを思わせるのだ。東日本大震災のニュースを見るたび、石垣島の人たちから「島の人口の3分の1が失われた」「津波石と呼ばれる大きな岩がいくつも島内に残る」といった話を聞いたことを思い出した。海に囲まれた日本では、いつ、どこで同じような津波に遭遇するか分からない。地球のエネルギーが本当にとてつもないものであることを、私たちは決して忘れてはならないのだと思った。
 日々伝えられる東北の惨状に気持ちが沈んでいた4月初め、福岡に住む母から電話がかかってきた。開口一番、「あなた、吉村昭の『三陸海岸大津波』、読んだ?」と訊ねる。吉村昭は敬愛する作家の一人だが、津波の話は読んだことがない。そう答えると、母は「明和の大津波っていうのが石垣島を襲ったこと、知ってた? 私ゆうべ読んでいて、もう心配で眠れなくなっちゃった」と言う。かつて大津波が襲った島に住む私を案じて、眠れなかったというのだ。いくつになっても、親というのはありがたいものである。「明和の大津波くらい知ってるよ。今さら心配しても仕方ないでしょう。それに私が住んでいるあたりは、海抜の高いところだから大丈夫だって」と話すと、母は少し安心したようだった。「あら、そう? でも、その本、読んじゃったから送るわね」

「明和の大津波」とは

 送られてきた文春文庫の『三陸海岸大津波』は、奥付を見ると今年4月1日の第8刷である。母を眠れなくさせた箇所は、たったの3行だった。
「明和八年(一七七一年)四月二十四日、地震津波が沖縄南方の石垣島に来襲、島民一七、〇〇〇名のうち八、五〇〇名を死者と化した。津波の高さは八五メートルあったといわれている」
 津波の高さが85メートル! これは、私の母でなくても驚く数字である。この数字は何を根拠にしており、何を指しているのだろうか。
「明和の大津波」は、マグニチュード7・4もしくは8クラスの海溝型巨大地震だったと考えられている。当時の被害状況については、古文書「大波之時各村形行書(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)」によると、1771年4月24日午前8時ごろ、大きな地震の起こった直後に東南の方向から押し寄せ、石垣島の東と南の海岸付近の村に甚大な被害を与えた。死者は合計9313人で、流出した家屋は2000戸以上に上った。この時の八重山の総人口は2万8992人だったから、約3分の1が亡くなったことになる。死者や住民の数がこれほど正確であるのは、当時琉球王府が八重山に人頭税を課していたためだ。この文書は、当時、八重山を治めていた琉球王府の役人が、地震と津波の被害状況を王府に伝えた公式の報告書と見られている。

「大波之時各村形行書」の一部
「大波之時各村形行書」の一部

 それによると、各村の死亡者数、海水が上がってきた高さ、家屋や田畑、井戸などの被害状況に加え、被災者が村の再建に向けてどこに新しく居を構えたか、番所が流されたため民家を借りていることなどが、細かく記載されている。この中に、最も被害がひどかった地域であった宮良、白保について、「宮良・白保地境嘉崎、潮上り戸高弐拾八丈弐尺」との表記がある。意味は、「宮良、白保の境界である嘉崎の潮上り高さは、28丈2尺」だ。「丈」は約3・03メートル、「尺」は33分の1メートルだから、計算すると85・4メートルとなる。
 津波の規模を表すデータには、「津波の高さ」と「遡上高(そじょうこう)」がある。「津波の高さ」は、津波がない場合の平常の潮位から、津波によって海面が上昇したところまでの差を指す。「遡上高」は、津波が海岸から内陸へかけ上がった高さ(標高)を指す。古文書の「潮上り」は遡上高だと思われるが、それにしても大きすぎるのではないだろうか。
 これまで日本では、明治三陸地震(1896年)の38・2メートルが遡上高の最大記録とされていた。東日本大震災の津波の場合、岩手県宮古市の重茂半島で遡上高が38・9メートルに達していたことが、東京海洋大学の岡安章夫教授の調査でわかり、記録が塗り替えられた。18世紀に起こった津波が、今回の倍以上の遡上高というのは、本当なのだろうか。

「85・4メートル」は本当なのか

牧野の労作「八重山の明和大津波」
牧野の労作「八重山の明和大津波」

「大波之時各村形行書」という古文書の存在が、一般の人に知られるようになったのは、牧野清の著作『八重山の明和大津波』(1968年刊行)によるところが大きい。
 牧野は、長く石垣市の職員として働いた人で、石垣市政10周年の記念誌を編纂するなかで、八重山の歴史や伝説などに深い関心を抱くようになった。ちょうどそのころ、1958(昭和33)年3月11日に、八重山群島全域で大きな地震が起こった。「3・11」という符合に不思議な因縁を感じてしまうが、震度5の強震を体験した牧野は、被害状況を見て回り、自然災害の恐ろしさを身にしみて思ったという。そして、一部の島民が「もしかすると、津波が来るのではないか」と不安がっているのを聞き、津波の恐ろしさを後世に語り継ぐために、明和の大津波の規模や実態について検証しようと思い立ったのだった。

現代に明和の大津波を伝えた牧野清
現代に明和の大津波を伝えた牧野清

 牧野は「大波之時各村形行書」の解読に取り組む一方で、津波によって打ち上げられた巨岩――津波石の調査にも出かけた。島の人たちは、この巨大な岩のことを「ナンヌムチケールイシ」と呼んでいた。「ナン」は「津波」、「ヌ」は主格の「の」が音便化したもの。「ムチケール」は「持ってきた」だから、「津波の持ってきた石」という意味である。牧野はそのころ市の収入役になっていたが、勤務が終わるとバイクであちこちに出かけては、岩の大きさ、形状を記録して、地図に岩の位置を1つずつ記入したという。
『八重山の明和大津波』は、447ページに及ぶ大部である。私は市内に住む知人からこの本を借りたのだが、奥付に「定価2弗50仙」と書いてあるのを見て、思わず「2ドル50セント!」と声を上げてしまった。
 口絵には、「津波によって陸上に打ち上げられた珊瑚礁の大石」としていくつもの石の写真が掲載されている。本文では、明和の大津波直前の八重山の社会状況や、明和地震の規模、津波の進入状況、津波の社会的影響、津波と伝説など、さまざまな角度から地震と津波が検証されている。
「弐拾八丈弐尺」という最大の波の高さについては、牧野自身、「八五・四米という記録は、まことにおどろくべき数字」「このようなおどろくべき記録は、はたして事実であったかどうか一応うたがってみるべきであると思い」と記しており、戦後に測定された各地域の海抜と津波の記録を突き合わせたり、文書に書かれた「嘉崎」という地名について調べたりした。その結果、白保にほど近い台地が海抜88・7メートルであり、台地の頂点と波の進入地点を結んだところに震源があることから、ほぼ正しい記載ではないかと結論している。

牧野が推定した津波の進入状況(緑の部分が進入部)
牧野が推定した津波の進入状況(緑の部分が進入部)

『八重山の明和大津波』が出版されて14年後の1982年、琉球大学の加藤祐三助教授(防災地質学)が、琉球新報の紙上で、隆起サンゴ礁の岩塊は、津波でなくても動くものであり、津波石と呼ばれる岩の中には、津波によって運ばれたものではないものも含まれている可能性を指摘。そのうえで、「85・4メートル」についても、「一桁大きく誤記されている。多分誤りである」と述べた。
 これに対し牧野は、津波石についての指摘については一部認めたものの、津波の高さに関しては「それは単なる目測や推測によるものではなく、当時の複数の蔵元役人による測量班が精密に高低測量して何丈何尺何寸と正確に記録したものである。従って二十八丈二尺(八五・四メートル)もまったく疑う余地はない」と反論した。
 このとき、1980年に発足した有志のメンバーによる研究グループ「八重山歴史研究会」は、牧野自身が史料とした「大波之時各村形行書」を丹念に読み解き、「85・4メートル」の信憑性を検討した。
 研究会が着目したのは、「85・4メートル」の津波が襲ったとされる宮良村の人たちが新たに村をつくろうと移転した先の「漢田」という土地である。その近くにある御嶽(うたき)には津波の被害が及ばなかったと記されている箇所が重要なポイントとなった。御嶽は聖域とされるところだが、その地点を測量したところ、標高72mほどであることが分かった。研究会は、「津波を恐れての村移りだから漢田に潮上りはなく、八十五米は疑問である」と結論づけた。
 それと併せ、人口1574人の村で、たった28人しか生き残らなかったという白保村についても詳しく検討した。白保の「潮上り」の高さは「十九丈八尺(=約60メートル)」と記されているが、村の移転先の標高が35メートル程度であること、村の溺死者を弔った「千人墓」が標高32メートルのところにあったことから、やはり津波の高さが60メートルもあったはずはなく、30メートル程度ではなかったかと見ている。
 それでは、どうして「二拾八丈弐尺」「十九丈八尺」などという数字が出てきたのだろう。研究会は、(1)津波で人口が激減し、役人も手不足だったため、時間をかけて測量できなかった(2)現在のような測量器具や技術がなく、正確な測量ができなかった(3)当時は苛酷な人頭税が課せられていたので、首里王府に救済措置を講じてもらうため、被害を実際よりも大きく報告した、などの可能性を考えている。
 (2)については、「戸高」は「戸板高」を意味するのではないかという見方がある。江戸時代には、戸板(雨戸)を用いて測量する方法があったことが文献に残されているが、八重山では「戸板」を「戸(トゥ)」と呼び習わしていたという。この測量方法では、測る長さが大きければ大きいほど、誤差が増幅されてしまう。
 一方、単純な写し間違いという可能性もなくはない。そもそも、この「大波之時各村形行書」には、複数の写本が存在する。同研究会のメンバーで、八重山博物館学芸員の島袋綾野さんは「もともとの原本は、蔵元にあったと考えられます。しかし、廃藩置県が進められていろいろな書類が整理される段階で、歴史に関心のある民間の人たちが写本を作り、旧家で保管されてきたとみられています」と話す。人口統計の男女の人数の合計と内訳が写本によって異なるなど多少の異同があり、 波の高さも単純な記載ミスだったことはあり得る。
 島袋さんは、「丈」という単位が、当時の中国、清朝の時代には、3・2メートルであったことも指摘する。「1丈が3・03メートルというのは日本における換算なので、清代の単位として換算すると90メートルを超え、ますます現実味のない数字になってしまう。いろいろ考え合わせると、実際の津波の高さは30メートル前後だったのではないでしょうか」と話す。

津波石を検証する

 牧野清の『八重山の明和大津波』は、さまざまな角度から地震と津波を検証した内容だが、中でも目を引かれるのが、津波によって陸地へ運ばれた津波石を丹念に調べた箇所である。牧野は島内各地の大石の体積や推定重量を調べ、海からそれらの石を運んだ波の高さや強さ、その進行方向などを考察している。津波被害の最もひどかった島の東海岸部の白保、宮良には、大石がきわめて少なく、牧野はその理由を「両部落を通過した津波がひじょうに規模が大きく、流速もまたはげしかったために、運ばれた石もこの地区には止まらなかったものと考えられる」と見る。
 その集計によると、石垣島には、合計310個もの大石があり、サイズによって「小型」「中型」「大型」「特大型」に分類される。125立方メートル以上、推定重量250トンを超える「特大型」のものは、島内に9個ある。
 この中で、「いちばん大きい石」として紹介されているのが、大浜の崎原公園の西北にあるものだ。長径12・8メートル、短径10・4メートル、高さは5・9メートルで、重量は約700トンと推定されている。その表面には、サンゴの一種であるミドリイシやテーブルサンゴなどが付着しており、かつては海中にあった岩であることが見てとれる。
 牧野は「この石は現在名がないので津波大石(つなみうふいし)と名づけることに筆者が提案し、大浜部落の人々にも承認してもらうようおねがいしてある」と書いている。現在、この名称はかなり定着し、岩を「明和の大津波によって打ち上げられたもの」と書いたガイドブックやサイトもたくさんある。私もすっかりそう信じていた。
 しかし、八重山歴史研究会は80年代に、この岩が明和の大津波によって運ばれたものかどうか、疑問を呈していた。というのも、古文書「大波之時各村形行書」には、いくつかの地点で大きな石が島に打ち上げられたり、遠くまで引き流されたりしたことが「奇妙変異記」と題した箇所に記されているにもかかわらず、最大の大浜の巨岩については、何も触れられていないからだ。
 同研究会は「この巨岩こそもし津波石であれば『奇妙変異記』でまずまっ先に取りあげられていたはずだ。(中略)しかし当時の『奇妙変異記』は、この巨岩について全くふれていない。また、記録にはなくてもなにか津波との関連で言い伝えでもないかと古老たちを尋ね歩いたのであるが、全くそれらしき伝えを聞くことができなかった。ある老人はこの巨岩を『津波石』と読んでいるのは、牧野氏のあの本が出たあとのことであるとささやいていた」と指摘した。

大浜にある津波石。明和の大津波の時に打ち上げられたものではない。
大浜にある津波石。明和の大津波の時に打ち上げられたものではない。

 牧野の労作『八重山の明和大津波』が出版されてから30年近くたった1994年、琉球大学の河名俊男教授(地球惑星物理学)らが、津波石に含まれるサンゴ化石の放射性炭素による年代測定法で、その疑問に終止符を打った。大浜の巨岩は、明和の大津波よりもだいぶ昔、約2000年前に打ち上げられたことが明らかになったのだ。この研究によって、八重山諸島では、明和の大津波以前にも巨大津波が繰り返し発生したことも分かってきた。
 一方、2010年4月に開催された国際津波シンポジウムに先立ち、東北大大学院助教の後藤和久さん(現・千葉工業大学惑星探査研究センター上席研究員)らが、島の北部、伊原間近くの海岸にある巨大なハマサンゴ(通称「バリ石」)について年代測定を行ったところ、最も新しいと思われる部分は1794年、最も古いと思われる部分は1272年と判明し、1771年の明和の大津波によって運ばれたものであることが確定した。この巨大なハマサンゴは、直径9メートル、高さ3・6メートル、重量220トンと推定されている。津波によって打ち上げられたハマサンゴとしては世界最大であり、このサイズに成長したハマサンゴとしても最大級という。

津波石であることが証明されたバリ石(石垣市立八重山博物館提供)
津波石であることが証明されたバリ石
(石垣市立八重山博物館提供)

 2010年に発行された八重山歴史研究会の発足30周年記念の会誌には、牧野の著書があったからこそ、さまざまな論争を経て、明和の大津波の実態が検証されてきたと記されている。私も全く同感である。地質や地震について全くの素人であった牧野が、あれほど多面的にとらえようと努めたのは、評価されなければならない。公職に就きつつ刊行を急いだために、古文書の読解が雑になったことも否めないだろうが、足で集めたデータや、島の人に聞いた言い伝えなどは、本当に貴重なものだ。何よりも、石垣島の人に「明和の大津波」という史実を強く印象づけたこと、それだけでも大きな功績だと思う。今後、新しい解析法や文献でさらに明らかになってくる部分もあるだろう。それこそ、牧野の望んだことに違いない。
 石垣市立八重山博物館では2011年4月22日から5月8日にかけて、企画展「石垣島の津波痕跡を探る」を催し、明和の大津波の影響が残る各地の写真や、古文書をパネルにしたものを展示した。同程度の大津波が襲った場合をシミュレーションし、現在の市街地の多くが呑みこまれる様子を示したパネルには、熱心に見入る人が多かったという。牧野の説のいくつかは否定されたが、その志はしっかりと受け継がれている。

大津波の慰霊祭

 牧野清は『八重山の明和大津波』の刊行後、未曾有の大災害にもかかわらず死者の霊を弔う碑がないことに心を痛めていたらしい。津波による犠牲者を再び出さないよう、島の人たちへ注意を呼びかける意味でも何らかの碑を建てたいと考え、「明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会」を発足させ、市民に募金を呼びかけた。牧野の熱意に打たれて八重山の内外から寄金が寄せられ、1983年4月、小高い台地の上に慰霊碑が建てられた。
 このときから、石垣市では毎年慰霊祭が行われるようになった。石垣島に移り住んで1年になろうかという私と相棒は、2011年4月24日、たまたま慰霊祭に参加した。新聞で慰霊祭が行われることを知った相棒から、当日の朝になって誘われたのである。東日本大震災が起こって1か月余りたち、「明和の大津波」について詳しく知りたいと思っていた時期だった。見学のつもりで出かけた私たちであったが、参加者はすべて黒ずくめの服装で、デニムの上着にジーンズ姿の私も、明るいグレーのTシャツを着た相棒も、かなり目立ってしまった。

2011年4月に行われた明和大津波遭難者慰霊祭
2011年4月に行われた明和大津波遭難者慰霊祭

 石垣市は東日本大震災後の定例市議会で、大津波を記憶することで防災意識の高揚、防災対策の充実強化を図ろうと、明和の大津波の起こった4月24日を「石垣市民防災の日」に制定したばかりである。慰霊祭のあいさつで、中山義隆市長は「初めて目にする現実の大津波被害の凄惨さは目を覆わんばかりであり、当時、明和大津波に遭われた方々の恐怖と絶望が想像を絶するものであったことが推察されます」と述べた。
 慰霊祭では明和の大津波に関する作文を地元の小学生、中学生、高校生が読みあげた後、詩吟の奉納が行われた。その「慰霊の塔に寄す」の作者は、牧野清だった。

 怒濤(どとう)激流島を蹂躙(じゅうりん)し
 忽(たちまち)化す修羅叫喚の巷(ちまた)
 生霊の波に奪わる九千餘
 哀(かなしき)かな鬼哭(きこく)啾啾(しゅうしゅう)として島に満つ
 星霜移りて茲(ここ)に二百余歳
 誰か父祖の非命を悼(いたま)ざらんや
 地を相し塔を建て幽魂を祀(まつ)り
 血涙の歴史を千載に傳(つた)えん

 誠に重い内容である。東日本大震災の死者・行方不明者の数は2万3000人を超えるが、石垣島を中心とする八重山地方だけで9000人以上が亡くなったというのも凄まじい。宮古島の犠牲者も加えると、死者は1万2000人に上った。「大波之時各村形行書」は、大津波の起こった6年後の八重山の悲惨な状況も伝えている。津波の後には台風や干ばつ、虫害が相次ぎ、八重山の人口は疫病や飢饉のためにますます減った。1854(安政元)年には1万1216人にまで減少し、八重山の人口が大津波の来る前の水準まで回復したのは、148年後の1919(大正8)年のことであったという。東日本大震災の復興はいつごろになるのだろう、と八重山の人々の苦労と重ねて考えてしまう。

「台風の島」の防災意識

 明和の大津波が起こった4月24日を、独自の「防災の日」と制定した石垣市だが、もともと防災意識は高い。沖縄は「台風銀座」と呼ばれるほど、台風の接近が多いところだからだ。気象庁は、熱帯で発生した低気圧のうち、北大西洋または南シナ海に存在し、低気圧内の最大風速が毎時17メートル以上のものを「台風」と定義しているが、石垣島にはだいたい年平均5回は台風がやってくる。
 最近島を襲った最大のものは、中心気圧919ヘクトパスカル、最大風速55メートルという勢力で石垣島付近を通過した、2006年の台風13号である。島で「13号」と言えば、この台風を指す。最大瞬間風速67メートルのとてつもない台風のため、石垣島は20時間も防風域内にあった。折損倒壊した電柱は221本に上り、全世帯の8割に相当する1万9000世帯が停電した。知人の1人は、大型トラックが風で縦になぎ倒された写真を見せてくれた。いまだに「13号のときはすごかったねえ」などと島の人との会話に出てくるので、2010年春に移り住んだ私たちも体験したような気にさせられる。
 石垣市総務課の防災担当者は、「近年、台風が巨大化する傾向があるので、警戒が必要です。島の市街地では都市化が進み、台風に大雨が伴うと排水溝から一気に雨水が流れ、道路冠水や床下浸水につながることもあります」と話す。しかし、「まあ、市民は慣れていて事前の備えをしていますし、建物の多くは鉄筋コンクリート造りなので、それほど深刻な被害は出ないですね」とも言う。13号でも重傷者4人、軽傷者51人で、死者は出ず、家屋の全壊も35棟にとどまっている。
 石垣島に引っ越してきて、近所の人や友人にいろいろ聞いたところ、台風が近づいたときの手順はほぼ決まっている。
(1) 調理の要らないパンやおにぎり、カップラーメンなどの非常食、水を買っておく。
台風が来ると飛行機や船の便が止まるので、島にはしばらく食料品が入ってこなくなる。そして、数時間から数日の停電、断水が起こることも想定しなければいけない。市街地から少し離れた地域は、停電や断水する頻度が高く、その時間も長い。
(2) 家の周辺をチェックして飛びそうなものを片づける。自分の家を守るのはもちろん、よその人や家に被害を与えない用心である。
(3) 風が本格的に強くなる前に雨戸を閉めたり、ネットを張ったりして、何か大きなものが飛んできても窓が割れないように対策しておく
――というのが基本である。
 日頃から常備すべきものは、懐中電灯やロウソク、カセットコンロ、ガスボンベ、マッチ、ライターなどである。わが家には一応すべてそろっているが、最近加わったのが圧力鍋である。ご近所さんが「短時間で調理できるから台風のときは便利よ~。ごはんが3分で炊けちゃうよ!」と勧めてくれたので、かなりガスの節約になると考えて買うことにした。台風時だけでなくても省エネになるのが魅力だ。
「防災意識」というのは大げさかもしれないが、島の人たちが台風に動じないのは事実だ。会社も学校も休みになり、農家の人も「よい骨休みだ」と家の中にこもる。防風対策をしっかり整えた後は、家でごろごろするのが島の人たちの台風時の過ごし方なのだ。私の友人である40代の女性は「停電したら、すぐ寝ちゃう。この間の台風2号(2011年5月)の停電は、6時間くらいだったからつまらなかった。台風が来ると、大手を振って寝られるのに!」と話していた。
 50代の女性の友人は、東日本大震災の後に実施された計画停電のニュースを見て、首都圏の狼狽ぶりに違和感を抱いたという。計画停電が始まった3月下旬、スーパーではパンやペットボトル入りの水が飛ぶように売れ、あちこちで商品を求める長い行列が出来た。「台風が来る前、スーパーに行ってパンや豆腐がなくなっていても、私は『あ~、出遅れたなぁ』と思うだけ。家にあるもので何とかする。暴風域に入ったとき停電したら、雨戸を閉め切った家の中でうちわであおぐしかない。直接被災したわけでもないのに、東京の人たちがあんなに停電で騒いだり買い占めに走ったりするのが不思議……」
 私の住む崎枝では、「13号」のとき3日間ほど停電したという。以前には1週間ほどの停電もあり、住民たちは停電することを前提として台風に備える。冷凍庫のみ独立したタイプだと、「3日くらいの停電なら大丈夫!」らしいが、ふつうの冷蔵庫でも、あまり頻繁に開け閉めしなければ、数時間程度の停電なら何とかなるようだ。仕事で時々留守にする私は、島に引っ越してきてからまだ大きな台風に遭遇したことがないのだが、周囲の人の落ち着いた口ぶりを聞いていると、基本さえきちんとしていれば何とかなるのだという気がしてくる。

台風と岩崎卓爾

 台風の規模や進路を観測し、警察や消防など防災機関に連絡するのは、石垣島地方気象台である。日頃はあまり意識しないが、「台風の島」において気象台の果たす役割は本当に大きい。
 石垣島地方気象台は、1896(明治29)年、中央気象台附属石垣島測候所としてスタートした。そして、この気象台は気象や地震の観測だけでなく、石垣島の文化とも密接に関わってきた存在なのである。
 1899年に測候所長として石垣島に赴任した岩崎卓爾は、測候所勤務の傍ら、八重山の自然や伝統文化について広く研究したことで知られる。例えば、明和の大津波について記した古文書「大波之時各村形行書」の存在を初めて発表したのは岩崎である。島の人が「自家備忘のため複写せしもの」として保管していたのを、岩崎が見出し、1927(昭和2)年に中央気象台の発行する雑誌「気象雑纂」7月号に、発見の経緯と古文書の内容を発表した。

石垣島を愛した岩崎卓爾(昭和6年、正木任氏撮影)
石垣島を愛した岩崎卓爾
(昭和6年、正木任氏撮影)

 現代に明和の大津波の脅威を伝えた牧野清の『八重山の明和大津波』の参考文献には、「気象雑纂」も挙げられている。牧野は気象台に度々足を運び、職員らから地震に関する話も聞いていたと言うから、岩崎の存在は小さくなかったに違いない。何より、牧野が師と仰いだ郷土研究家、喜舎場永珣(きしゃば・えいじゅん)らを育て、共に活動したのが岩崎卓爾であった。岩崎と喜舎場は、民俗学の創始者、柳田国男が八重山を訪れた際にも、案内役を務めた仲である。岩崎が所長だったころに測候所員だった瀬名波長宣(せなは・ちょうせん、後に八重山気象台長)は、八重山のことわざや伝承に関する研究でも知られ、牧野が記した津波に関する伝説の中に、瀬名波から取材したものが含まれているのは確かだと思われる。
 宮城県仙台市に生まれた岩崎卓爾は、石垣島に赴任、退官したのちも島に留まり38年間にわたって住み続け、1937年(昭和12)年に島で亡くなった。長らく気象台に勤務した石垣市在住の正木譲さんによると、岩崎と共に働いた気象台の職員たちは、どんなときも丁寧に観察することの大切さを説かれていたという。「気象観測の基本は『観天望気』。台風が来るときの雲の変化など、これほど面白いものもない。しかし、いま気象台へ行っても、職員たちは皆コンピュータに向かってばかりで、自然を見る余裕がない。これで観測できるのかな、と思います」と残念がる。
 正木さんの親の世代は、岩礁(ピー)に当たる海鳴りの方向で、経験的に「もうすぐ雨が降る」とか「大きな台風が来る」などと予測していた。岩崎の著作にも、「寅(北東から東北東)の方の海鳴(ピーナル)は海風強き兆」「辰巳(南島)の方の海鳴は雨の兆」などと紹介されている。
 正木さんは「学問は岩崎卓爾に返らないとダメではないか。最近は定量的な研究ばかり重んじられるが、自然を観察する定性的な研究も必要」と言う。「明和の大津波の実態が、古文書の検証と現地調査によって明らかになってきたが、過去の災害の経験はいつか役に立つ。自然を見つめ謙虚に学ぶことで、私たちはそれを未来に生かすことができるのだと思います」。与那国や南大東島なども含め、40年余りの年月、気象観測に携わってきた正木さんの言葉は重い。

BACK NUMBER
PROFILE

松村 由利子
(まつむら・ゆりこ)

歌人、ライター。
1960年生まれ。2006年春まで毎日新聞記者。『与謝野晶子』(中央公論新社)で平塚らいてう賞、『31文字のなかの科学』(NTT出版)で科学ジャーナリスト賞を受賞。2011年、『大女伝説』で葛原妙子賞を受賞。

『与謝野晶子』
(中央公論新社)

『31文字のなかの科学』
(NTT出版)

『歌集 大女伝説』
(短歌研究社)

 
PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて