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Series コラム
石垣島に魅せられて ~移住者の南島ルポ 松村 由利子
11/04/30

第4回 星の降り注ぐ島

石垣島から宇宙を見ると

「新しいタイプの天文台」といっても、研究が二の次になっているのでは決してない。どの程度の望遠鏡を設置するか、ということを決める際、決め手になったのが「研究に使えるものを」という条件だった。口径105cmの光学赤外線反射望遠鏡は、地球から遠くにある暗い銀河を見るためのものではなく、太陽系内の現象を観測するのに使われる。惑星の変化はもちろん、地球に接近する小惑星や突然出現する彗星、超新星など、対象となるものは多い。

M16 へび座にある散光星雲と散開星団
(石垣島天文台提供)

 実際に石垣島天文台で撮影された天体写真を見て、私は思わず声を上げてしまった。「これって、ハッブルで撮った写真みたいじゃないですか!」
 ハッブル宇宙望遠鏡は、地上約600㎞の周回軌道上に打ち上げられたもので、直径240cmの反射望遠鏡が搭載されている。天体からやってくる光は、大気にさえぎられ、すべては地表まで届かない。地上からの観測からでは解明できない宇宙の謎に迫ろうとして造られたのが、ハッブル宇宙望遠鏡である。
 ところが、石垣島天文台の105cmの望遠鏡がとらえた画像は、思いがけない美しさだった。うお座の美しい渦巻銀河は3700万光年かなたにあるものだ。おおぐま座の渦巻銀河も2500万光年離れている。それが、こんなに鮮明に撮れているなんて……。へび座の散開星団と散光星雲にある濃いガスと塵の雲の柱は、ハッブルによる写真の印象そのものだ。
 国立天文台教授の渡部潤一さんは、「石垣島の天体観測条件はとてもいいんですよ」と話す。北緯24度にある石垣島は、本土と違って上空のジェット気流の影響がほとんどなく、大気が安定している。そのため、「シーイング」と呼ばれる、天体観測する際のちらちら動く揺らぎが小さく、星の瞬きが少ないのだ。「シーイングの小ささは、すばる望遠鏡のあるハワイと同じくらいじゃないかな。市街地はそこそこ明るいが、周囲が海で暗いのも観測条件としてよかった。日本海側はイカ釣り船が出て、夜も明るいんですよ」と渡部さんは笑う。昼間の晴天率に比べ、夜の晴天率が悪いという誤算はあったものの、それを補って余りある成果が次々に得られている。
 2006年7月には、「あれい状星雲」の名で天文ファンに親しまれている、ダンベル(亜鈴)のような形をした「M27」の撮影に成功。くっきりとした画像に、国立天文台の宮地さんは「広がるガスのもやもやした細かい構造まで撮れたことには驚きました」という。2010年2月には、ケンタウルス座にある楕円銀河の鮮明な画像の撮影に成功した。本土では南中時の地平高度が10度ほどで観測が難しい。1mクラスの大きな光学望遠鏡で撮影したのは、国内初めてとされる。
 渡部さんはこうした学問的な成果に加え、「石垣島」というスポットの特性を評価する。「島自体の存在がリゾート地であり、非日常的な空間。その中で、たまたま天文台を訪れた人たちが、天体の魅力に触れることが、何よりいい。非日常空間では、人はいろいろなものを受け入れやすくなりますから」。石垣島天文台を訪れる人は、年間1万人近くに上る。島の人口が5万人に満たないことを考えると、なかなかの快挙である。科学研究の国家予算は、削られる一方だ。だからこそ、石垣島天文台のような存在は貴重であり、大きな役割を担っている、と渡部さんは主張する。「沖縄本島から、さらに飛行機でここまで来る旅行者は、気持ちの上でも余裕のある人が多いと思います。ふだんと違うものを見聞きする時間を楽しみに訪れる人たちが、宇宙に思いを馳せてくれれば……」

星見石の不思議

八重山博物館にある「星図」

 夜空の星を眺めていたのは、私たちの祖先も同じだった。石垣島には「星見」という習慣があり、星を生活に役立てていた。
 石垣市の中心部にある市立八重山博物館に、「星図」という18世紀の古文書が保管されている。これは、稲や粟などの種をまく時期を決めるため、星座の出る時期や方角、そのころの天候や風などを記したものだ。元石垣市立八重山博物館長で、古文書研究者として知られる黒島為一さんは「当時の農業は星を見ながらやっていました。また、スカマ(労働)星と呼ばれた金星が見えるまで労働を続けました」と説明する。
 琉球王府は1600年代の後半には既に暦をつくっていたと見られる。「琉球王府は中国と冊封関係にあったので、中国から暦を与えられていた。外交や貿易に関する文書を交わすうえで暦の存在は不可欠だった。王府は暦を沖縄本島、宮古や八重山へも渡したと考えられるが、八重山でそれが村人に開放されたかどうかは疑問だ」と黒島さん。
 自然の移り変わり、例えば渡り鳥の飛来や鳥の初鳴き、植物の開花を目安にする方法もあるが、年によって誤差が生じ、不正確になる。月の満ち欠けも閏月が頻繁に生じ、ずれを修正するのが難しい。黒島さんは「八重山は亜熱帯に位置するので、四季の移り変わりのこまやかな面まで正確にとらえられないというハンディもある。沖縄本島では同じ時期の農業関係の文書にすでに立春や雨水、秋分など二十四節気が多用され、それに合わせた農耕が行われていたことが分かっている。しかし、八重山では使われていなかった」という。
 星ごとに「十一月廿日頃から十二月十日頃の間、日の入り時分、この星が卯の方向から出て時々小雨が降る時節に粟をまくとよい」などと書かれている。こうして、少しでも正確に種まきに適正な時期を把握しようとしたのは、生産を高めるためだった。
 星図のような古文書は、石垣島のほか、久米島や多良間島でも見つかっているが、沖縄本島や九州などでは全く知られていない。黒島さんは奄美大島や鹿児島、長崎などで星図について尋ねてみたが、「そんなものは見たことない」と言われたという。九州では暦が早く使われるようになったため、星図が廃棄されてしまったという背景が考えられる。沖縄本島の場合も同じ事情が考えられるが、もしかすると太平洋戦争末期の激戦によって失われたという可能性もある。星図だけでなく、沖縄本島には残存する古文書が少ないことを、改めて残念に思った。

石垣市登野城に残る星見石

 星図が用いられていた時代、星を正確に観測するために使われたのが「星見石」である。星見石には「立石状」「方位石状」の2種類がある。立石状は柱のように細長く伸びたタイプ、方位石状は円い形で方位が刻まれたタイプだ。黒島さんに教わって石垣市内にある立石状の星見石を見に行くと、川辺に高さ150cmくらいの石が立っている。宮古島にもこれと似た石があり、人頭税石と呼ばれている。身長がこの石と同じ高さになったら一律に課税されたという説があるのだが、黒島さんはこれも星見石だったのではないかと考えている。
 星見石のある場所には、いくつかの共通点がある。川べりなど水場の近くで、東側が開けてい見晴らしのよいところなのだ。黒島さんは「農作業を共にした村人たちは、仕事が終われば農具を洗いに水場に集まったのでしょう。そこで星を見たと思われます」と話す。八重山が琉球王府に支配されていた時代、首里から役人が派遣されて農民たちを管理した。朝は太陽が昇るまでに田畑へ出なければならず、夕方は金星が出る時刻まで農耕を終えてはならない、といった決まりがあり、労働時間が厳しく定められていた。星の位置は、種まきの時期を知るだけでなく、時刻の目安としても使われたのだ。
 人々は恐らく、星見石の頂点と星の高さを比べて季節を知ったと思われる。しかし、どんな姿勢で、どういう角度で星を見たかについては、星図に記されていない。正座して見上げたのか、しゃがみ込んだのか――。今となっては、想像するしかないのが残念だ。「ともあれ、共同体の長老が、角度の測り方を指導したのだろう。星見をした丘などもあったようだ」と黒島さんはいう。
 1902(明治35)年に、本土から石垣島の測候所長として赴任し、幅広く八重山研究に取り組んだ岩崎卓爾の著書にも、星見のことは記載されている。岩崎の赴任したころまで、石垣島では星見が行われていたらしい。岩崎の見た星見は、船の櫂を地上に立て、そこから櫂の長さと同じ距離の地点にすわって両手を地面につき、星と櫂の高さを観測するというものだ。
 黒島さんが星見石のことを調べるきっかけになったのは、1960年代の初めに、石垣市で「カナパリ・ムリィの星見石」と呼ばれる石が、土地改良事業によって撤去されたことだ。「土地改良は農業生産力を高めるものだが、そのために、かつて私たちの祖先が同じ目的で作った星見石が壊されてしまうことに、怒りを感じました」と話す。そして、そのことがきっかけで星見石のことを調べ始めたのだった。
 星見という農耕に欠かせない営みはもはや必要とされないが、星を見ることによってさまざまな発見や喜びが得られるのは昔も今も変わらない。そして、星見石や星図もまた私たちを悠久の世界へ誘ってくれるものだと思う。

星の島であり続けるために

「星図」の中の1ページ。
天の川と星座が描かれている

 古文書の「星図」には、見慣れぬ星の名前がいくつも書かれている。「七ツ星」は北斗七星、「ヨヨチヤ」は「四つの星」の意で、ペガスス座の大四辺形を指す。「子(ね)ノハブシ」は北極星で、沖縄特有の呼び方だ。しかし、中には「本土系統」の呼び方のまま記された星もある。「六ツ星」というプレアデス星団、つまり、すばるの呼び方はその一つで、八重山では「むりぶし(群星)」「むるぶし」「むりかぶし」などと呼ばれていた。
 すばるは、農業と深い関わりのある星で、日本各地に農耕と結びついた言い伝えが残っている。例えば、「すばるまんどき粉八合」「六連空なか粉八合」などは、そばまきの時期を表したことわざで、すばるが南中したときが「蒔き時」で、一升の実から八合の粉がとれるという意味だ。「星図」にも、「六ツ星」の仰角によって種まきの日を定めた部分が見られる。
 八重山には「むりかぶしユンタ」という古謡がある。天上の王様が、南の七つ星や北の七つ星に「八重山を治めなさい」と言ったのに、両方とも言うことをきかず、「むりかぶし」が「私がやりましょう」と申し出たという内容だ。天の王様はひどく喜び、「おまえは天の真ん中を通りなさい」と言ったという。すばるが八重山の農民に親しまれる大切な存在だったことが分かる内容だ。
「むりかぶし」は、石垣島天文台の望遠鏡の愛称でもある。ハワイ島のマウナケア山頂にある国立天文台観測所には、口径8.2mの光学赤外線望遠鏡が備えられているが、この愛称が「すばる」。同じ星団を指す名称が、それぞれ独自に選ばれたのが面白い。
 石垣島天文台で定期的に開かれている星空観望会に参加すると、「むりかぶし」でとらえた星を見ることができる。観望会を支えているのは、NPO法人「八重山星の会」だ。石垣市の「南の島の星まつり」の主催者団体の一つであり、観光客を対象にした星空のガイドなど幅広く活動している。代表理事の通事安夫さんは、少年時代から石垣島の星空に魅せられた一人だ。天文台の直径8mのドームが開くと、頭上に漆黒の夜空が広がる。観望会では「カノープスはどれですか」「南十字星は見えますか」などと質問が相次ぐが、通事さんはレーザーポインターで夜空を指して説明しつつ、いろいろな星を望遠鏡で見せてゆく。参加者は、土星の縞模様までくっきり見えるのに驚き、「また来たいね」とささやき合っている。

天文台と天の川
(通事安夫さん撮影・提供)

 通事さんは石垣島の夜空について、「私が子どもだったころの夜空に比べたら、観測条件は悪くなりました。すばるなど、昔はぎらぎら光っていて『何だろう、あの光は』と驚くほどでした。今はよほど天気がよくないと、すばるの一つひとつの星がくっきりとは見えないですね」と残念がる。しかし、「星明り」を実感することのできる夜空は、まだまだ魅力いっぱいだ。
「南の島の星まつり」は、今や石垣島の観光の目玉の一つである。2011年は7月30日から8月7日の9日間が「星まつりウィーク」で、講演会や観望会が開催されるほか、8月6日午後8時からの1時間には、全島ライトダウンが行われる。「星の島」であることをPRするだけでなく、「星の島」であり続けるよう、島の環境を守るお手伝いができれば、と願っている。

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