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ドイツとドイツサッカー 明石 真和
06/04/15

最終回 シェーン以後とヨーロッパ

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

「オレが行く」とベッケンバウアーが監督に

 西ドイツは、ヘルムート・シェーンが代表監督を退いてからも、ワールドカップ(W杯)とヨーロッパ選手権を目標の2本柱としてチーム作りを行っていった。シェーンの後任、ユップ・デアヴァルの時代には、ようやくカール・ハインツ・ルムメニゲの世代が台頭し、1980年のヨーロッパ選手権で優勝を勝ち取る。その勢いで1982年のスペインW杯でも準優勝までこぎつけた。
  エースである主将ルムメニゲのほかにも、代表に復帰したパウル・ブライトナー、新しいゴールゲッター、クラウス・フィッシャー、それに若きドリブラー、ピエール・リトバルスキといった名手もいたのだが、ベッケンバウアー、ネッツアー、ミュラー、オヴェラートの世代を知っているファンは、なにか物足りなさを感じたはずだ。
  シェーンはかつて、将来のドイツ代表監督としてフランツ・ベッケンバウアーを考えていた。それは、ちょうどゼップ・ヘルベルガーが、自らの後継者としてフリッツ・ヴァルターをイメージしていたことと似ている。ただし、慎重なシェーンは、婉曲にこう表現した。
「フランツが、必要な勉強を修めれば、デアヴァルと共同で任にあたれるだろう」
  ケルンのスポーツ大学で指導者養成コースを受け、しばらくはデアヴァルの助手として経験を積み、いつの日か・・・。シェーンの気持ちを推察すれば、このようなものであったろう。しかし、ベッケンバウアーがアメリカのプロチームに移籍したことで、その思惑が狂ってしまった。

ドイツ・ナショナルチームのマーク
 1984年のヨーロッパ選手権で、デアヴァルが率いるチームが1次リーグで敗退すると、監督交代論が世間に渦巻いた。ドイツの新聞に、ベッケンバウアーの言葉として、こんな見出しが躍った。
「オレが行く!」
  半信半疑でファンが成り行きを見守る中、1984年7月14日、ベッケンバウアーは本当に監督に就任した。ただし、指導者に必要なライセンスを持たないため、名称は「代表監督」ではない。「チームシェフ」という新しい肩書きが作られた。呼び方はともかく、実質は「西ドイツ代表監督」であり、結果として、シェーンが望んだ通りとなった。
  ベッケンバウアーの代表チームは、1986年のメキシコW杯で準優勝する。決勝の相手はアルゼンチンであった。会場は、アステカ・スタジアム。かつて1970年のW杯で、シェーンやベッケンバウアーがイタリアとの死闘をくりひろげた競技場だ。劣勢の0対2から、コーナーキック2本をうまくゴールに結びつけ、同点に追いつく。最後は天才ディエゴ・マラドーナにしてやられた形となったが、2対3で敗北したものの、試合内容は上出来ともいえた。
  つづいて、自国開催となった1988年のヨーロッパ選手権では、準決勝に進出。ハンブルクで宿敵オランダと対戦した。1974年W杯決勝の再現といわれたが、このときは1対2で敗れた。
  1990年第14回W杯はイタリアで開催された。ベッケンバウアーのもと、ドイツ国内はもちろん、イタリアをはじめとするヨーロッパ各国で活躍するスター選手が、ドイツ代表として集結した。ローター・マテウス、ユルゲン・クリンスマン、ルディ・フェラー、アンドレアス・ブレーメ、ユルゲン・コーラー、トーマス・ベルトルト、トーマス・ヘスラー、ギド・ブーフヴァルト、ピエール・リトバルスキ・・・。少年時代、ベッケンバウアーのプレーに憧れた世代である。外国で働く選手が「外人部隊」と呼ばれ、代表への召集に苦労していたシェーンの時代とは、隔世の感があった。すでに、己の技量を武器に、活躍の舞台を世界に求める正真正銘のプロ選手の時代となっていた。

3度目のW杯優勝を果たすと、ドイツ統一へ

 西ドイツは、前評判はさほど高くなかったものの、強豪国を退け、1982年W杯から3大会連続となる決勝に進出した。相手はふたたびアルゼンチン。試合内容は平凡ながら、後半フェラーが倒されて得たPKをブレーメが決め、1対0で勝った。西ドイツとしては通算3度目のW杯制覇。ベッケンバウアーは、選手時代の1974年につづき、今度は監督として優勝を祖国にもたらした。
  この年、1990年は、ドイツにとって大きな節目となった。10月3日、戦後2つの国に分裂していた東西ドイツが再統一されたのだ。この結果、サッカー界では、東と西の名選手を合わせれば最強チームができる・・・と喧伝された。しかし、ベッケンバウアーの後を継いだドイツ代表監督ベルチ・フォクツにとっては、苦難の道がつづいた。1990年のW杯優勝チームに、旧東ドイツの名手を融合させ、さらに世代交代も行わなくてはならないからだ。
  ヨーロッパ選手権では、1992年に準優勝、96年に優勝を飾ったものの、94年アメリカ、98年フランスでの2回のW杯は、選手のケガもあって、ベテランに頼らざるを得ない状況となり、なかなか新旧交代がスムーズに進まなかった。結果は、いずれもベスト8止まりであった。ドイツのサッカーファンの要求は高い。W杯ベスト8では到底、満足感は得られない。
  代表監督の座は、その後エリッヒ・リベック、ルディ・フェラーと継承された。フェラーは、2002年日本・韓国共同開催の第17回W杯で、チームを準優勝に導く成果を上げたのだが、2004年のヨーロッパ選手権では1次リーグ敗退で辞任。同年8月からはユルゲン・クリンスマンが監督に就任し、2006年のW杯に向けて態勢を整えてきた。世界の国々のレベルが上がり、かつてのような「横綱相撲」はとれなくなっているのだが、黄金時代を知る人々は、常に強いドイツの復活を望んでいる。
  1990年代に若手への切り替えに苦しんだ反省から、ドイツサッカー連盟(DFB)も代表への選手の供給源としてU21(21歳以下)やU19(19歳以下)といった下部組織を充実させた。また、ドイツ人らしい長期的展望のもと、将来のタレント発掘を目指し、ドイツ全土に網を張るスカウトシステムも導入している。これは、世界的に定評のあった旧東ドイツの育成システムを手本にしたものと思われる。
  これらの試みは、少しずつではあるが効果を現し、機能し始めている。真の意味で実を結ぶのは、案外2010年以降のW杯かもしれない。なお、ベッケンバウアーは、その後DFBのW杯招致委員会トップとして、世界中をかけめぐり、W杯の本国開催に向けて奔走した。その結果、2000年7月には、2006年第18回W杯をドイツで行うことが決定。現在、ベッケンバウアーは、大会の組織委員長として多忙な日々を送っている。2006年W杯終了後は、欧州サッカー連盟(UEFA)か国際サッカー連盟(FIFA)の会長選挙に出馬するともいわれている。しかし、周囲の強い要請とはうらはらに、本人はいたって鷹揚に構えている。サッカー界ですべてを成し遂げてきたといっても過言ではないベッケンバウアーである。会長職についても、「まあ、なるようになるさ」という心境なのであろう。

  ところで、ドイツ以外のサッカー界は、現在にいたるまでにどのような道のりをたどってきたのだろうか。ここで、ヨーロッパのほかの国々にも目を転じてみよう。

イングランド-復活の兆し

「サッカーの母国」イングランド代表のその後は、イバラの道となった。1970年W杯を最後に、中心選手のボビー・チャールトンが代表を引退した。さらに、1972年のヨーロッパ選手権で西ドイツに敗れた直後、名キーパー、ゴードン・バンクスが交通事故で右目の視力を失って代表から去っていく。ドイツのゲルト・ミュラーに「対戦した中でベストのゴールキーパー」と言わせしめたバンクスの離脱は、イングランド監督アルフ・ラムゼーにとっては、まさに想定外のアクシデントだった。
 つづく1974年W杯に向けての予選では、ポーランドに苦杯を喫し、W杯への出場も閉ざされてしまった。これを機に、ラムゼーは監督の座から退いた。シェーンとラムゼー、ふたりの「宿命の対決」は、7試合を戦い、双方とも「3勝3敗1引き分け、得点9、失点9」とまったく互角の勝負に終わった。

イングランド・ナショナルチームのマーク
 イングランドは、1978年W杯も予選で敗退。「ロビングボールを上げてヘディングで競る体力まかせのイングランドサッカーは、もう古い」と、酷評された。W杯にふたたび登場するのは、出場国の枠が16から24に増えた1982年。この大会では、1次リーグを突破するにとどまった。次の1986年大会では、準々決勝に進むも、アルゼンチンと対戦し、マラドーナの有名な「神の手」ゴールと、「5人抜き」を前に敗退した。
  1990年大会は、ポール・ガスコインなどの活躍もあって準決勝まで進み、久しぶりに復活した感があった。西ドイツとの熱戦は、1対1のまま延長でも決着せず、PK戦にもつれこむ。しかし、スチュワート・ピアスとクリス・ワドルが失敗して決勝進出はならなかった。3位決定戦でも地元イタリアに敗れ、結局4位に終わった。
  その後のW杯でも、期待されているわりには、いまひとつの感がある。デビッド・ベッカムやマイケル・オーエンといった人気選手も多いだけに、早く壁を打ち破ってほしいものである。
  一方、クラブチームのレベルでは、1970年代後半から1980年代前半にかけて大躍進がつづいた。リバプール、ノッティンガム・フォレスト、アストン・ヴィラといったチームが、代わる代わる7回のチャンピオンズ・カップを制覇した。ところが不運なことに、悪名高き「フーリガン」の出現により、各地で暴力事件が起き、イングランドのクラブは欧州の大会への参加を禁止されてしまう。禁止が解けて、イングランドのチームがふたたび欧州ナンバーワンの座につくのは、1999年のマンチェスター・ユナイテッドの優勝まで待たなくてはならなかった。2005年のチャンピオンズ・リーグでも、久しぶりにリバプールが優勝を飾り、こちらでもイングランド復活の兆しが見られる。

イタリア-高まる人気

 シェーンの率いた西ドイツは、イタリアと5回対戦した。結果は、「1勝1敗3引き分け、得点6、失点6」。対戦成績では、対イングランドと同様に、まったく互角の勝負であった。
  ふりかえれば、イタリア・サッカー興亡のカギは、外国人選手にあったといえる。シェーン時代の西ドイツ代表にも、カール・ハインツ・シュネリンガーやヘルムート・ハラーのようにイタリアで活躍するスター選手がいた。1960年代早々に、アルプスを越えて移籍していた選手たちであった。
  外国人選手を受け入れることで力をつけてくると、1964年には逆に新たな外国人選手との契約禁止に踏み切った。この措置は、国内の若手にチャンスをもたらし、1968年のヨーロッパ選手権での優勝、1970年W杯準優勝につながった。
  ところが70年代に入ると、ふたたび低迷期が訪れた。鉄壁の守備システム「カテナチオ」で一世を風靡したイタリアのクラブが、ヨーロッパの大会で勝てなくなり、オランダ、西ドイツ、イングランドのチームの後塵を拝するようになった。代表チームも、1974年W杯では1次リーグで敗退するなど沈滞ムードがつづいた。危機を感じたイタリア・サッカー界は、活性化をはかるため、1980年にふたたび外国人選手の移入を許可した。これが刺激となり、フランスのプラチニ、アルゼンチンのマラドーナ、ドイツのルムメニゲといったスター選手がこぞってイタリアのクラブに移籍していった。「セリエA」と呼ばれるイタリアのトップリーグは、1980年代になって一気に活気づいた。
  代表チームも、1978年のW杯で4位に入り、復活の兆しを見せていたが、1982年のスペインW杯では、持ち前のしたたかさがうまく作用して勝ち進み、44年ぶりの優勝を遂げた。もたついた1次リーグとはうらはらに、2次リーグでは、アルゼンチン(2対1)、ブラジル(3対2)と、たてつづけに撃破して、その底力を見せつけた。特に、ブラジルとの攻防は、W杯屈指の名勝負と位置づける人が多い。ブラジルには当時全盛のジーコがおり、中盤から前線にかけて「黄金のカルテット」と呼ばれる名手をそろえた好チームであった。
  イタリアは、その後のW杯でも、自国開催の1990年大会で3位、94年のアメリカ大会で準優勝と、好結果を残している。
  クラブレベルでも、1985年にはユベントスがチャンピオンズ・カップに優勝。イタリアのクラブとしては、16年ぶりの栄光であった。以降、ACミラン、ユベントス、インテル・ミラノといったチームを中心に、イタリア勢の躍進はつづいている。相も変わらず世界の有望選手が続々と流れ込み、リーグも活況を呈している。
「カテナチオ」は、すでに過去のものとなった。日本人選手の移籍もあってテレビ放映も増え、イタリア・サッカーの人気は日本でも高まっている。

オランダとフランス-攻撃的サッカー

 オランダとフランスは、多くの共通点を持っている。両国とも英国に近いことから、サッカーが渡来するのも早かった。また、ともにFIFA創設時からのメンバーでもある。特にフランスは、FIFAの中枢に人材を送り込んできた。W杯の生みの親ジュール・リメ、ヨーロッパ選手権の提唱者アンリ・ドロネーともフランス人である。
  さらに、「移民系選手の活躍」、「攻撃的サッカー」、「他国著名リーグへの選手の供給源」といった点でも共通している。海外に植民地を持っていた歴史から、さまざまな人種が移入し、多彩な文化が混じりあって、独特のサッカーを育んでいる。

●オランダ

 現在の国内リーグでは、アヤックス、フェイエノールト、それにPSVアイントホーフェンの3強が、常に優勝を争っている。
  そんなオランダの躍進は、1970年代に始まった。まずは3大クラブのひとつフェイエノールト・ロッテルダムが、オランダのクラブとして初めてチャンピオンズ・カップに優勝した。1970年のことであった。凱旋したチームを迎えたロッテルダム市民の熱狂振りは「狂った木曜日」として報道された。その後、首都アムステルダムに本拠を置くアヤックスが、チャンピオンズ・カップ3連覇(1971-73年)を成し遂げる。この頃から、オランダは世界の強豪の仲間入りをするようになった。
  1974年、リヌス・ミケルス監督のもと、当時のアヤックスとフェイエノールトの選手を主体にW杯に臨んだチームは、それまでにない斬新なサッカーを展開した。オランダの攻撃的なスタイルは、「トータルフットボール」と呼ばれ注目されたが、決勝では、シェーン率いる地元西ドイツに惜しくも敗れた。その意味で、オランダはまさにドイツ全盛期のシェーン時代に、もう一方の雄として登場してきたといえよう。
  4年後の1978年、ヨハン・クライフに代わって、ロブ・レンセンブリンクが中心となったチームは、ふたたびW杯の決勝にコマを進めた。地元アルゼンチンを相手によく戦ったものの、またもや惜敗であった。2大会つづけてW杯の決勝に進みながら、相手がいずれも開催国だったのは不運としかいいようがない。ちなみに、このときの監督はオーストリア人エルンスト・ハッペルだった。彼は、フェイエノールトが欧州制覇を成し遂げたときの監督であり、後にドイツのハンブルガーSVを指揮して、ここでもチャンピオンズ・カップ制覇を果たした。あのベッケンバウアーが絶賛する名指導者である。
  1988年のヨーロッパ選手権ではリヌス・ミケルス監督やスリナム出身のルート・フリットを中心にチームがまとまり、優勝を飾った。フリットのほかにも、フランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステンといった名選手を擁したチームは、代表レベルでの初めてのビッグタイトルをオランダにもたらした。その後チャンピオンズ・カップでも、PSVアイントホーフェン(1988年)とアヤックス(1995年)が、ヨーロッパナンバーワンの栄誉に輝いている。
  まだW杯での優勝はないが、若手の育成に定評のあるこの国のことである。いずれ、また好成績を残すにちがいない。

●フランス

 1958年のW杯でフランスは、中盤の指揮官レイモン・コパ、得点王ユスト・フォンテーヌといった名手の活躍で3位を獲得した。しかし、その後は低迷がつづいた。西ドイツがシェーン監督のもと、ヨーロッパを席巻していた時代が、ちょうどフランスの空白期にあたっている。1966年イングランドW杯の1次リーグで敗退してから、次に予選を勝ち抜いて出場したのは12年後の1978年であった。この大会も1次リーグ3試合を戦ったのみで終わったが、専門家の間では高い評価を受けた。  

フランス・ナショナルチームのマーク
 1980年代にはいり、フランスは華麗な復活を遂げる。ミッシェル・プラチニを中心に、ショートパスをつなぐ攻撃サッカーで、1984年のヨーロッパ選手権を制した。期待されたW杯では、1982年、86年と、いずれもベスト4まで進みながら西ドイツのパワーに屈した。それでも、強さとともに、どこか脆さを合わせ持ったチームに、共感を抱くファンは多かった。プラチニ引退後、しばしの中断をはさんでジダンの登場となる。自国開催の1998年W杯で、ブラジルを破ってみごと優勝を飾ったことは記憶に新しい。
  オランダ同様、フランスの選手育成プログラムには定評があるが、優秀な選手が他国のクラブに流出してしまうという悩みも抱えている。フランス代表をみても、先発メンバーの3分の2以上が他国のリーグで活躍する選手たち・・・という事態も珍しくはない。
  日本との関係では、フランスから監督としてアーセン・ヴェンゲルやフィリップ・トルシェがやってくるなど、近年は日仏サッカー交流が盛んになっている。

商業主義とボーダーレスの時代へ

 シェーンが去った後、スポーツ界にはさまざまな変革が訪れた。象徴的だったのは、1984年のアメリカ、ロサンゼルスでのオリンピック大会である。税金をまったく使わないという新しい発想でオリンピックが開催され、話題を呼んだ。これをきっかけとして、それまで少しずつ兆候として現れていたことが、一気に噴出した。スポーツにおける商業主義の加速である。クラブやスポンサーとの契約、勝利のボーナス、肖像権。シェーンが危惧していたように、すべてにビジネスがからむスポーツの商品化が始まった。
 1990年代に入り、それまで予測もされなかった状況が現れた。東西ドイツの再統一に代表されるような社会主義の崩壊である。これにより、イデオロギーから経済最優先の時代に突入した。サッカー界でも、国の枠を越えて、旧ソ連や東欧諸国の名選手たちが、こぞってイタリア、スペイン、イングランドといった国々の著名なクラブに移っていく。そうした傾向は、ブラジルやアルゼンチンといった南米の強豪国でも同じであった。サッカー界の隆盛は、世界の経済と無関係ではなくなった。今なお、名選手の多くは、ヨーロッパに活動の舞台を求めている。
  当然のことながら、プロ選手は、ひとりひとりがそれなりの報酬を要求する。一流選手になるほど、高い年俸を支払わなくてはならない。スタジアムに来る観客の入場料収入だけでは、とてもクラブを維持できない時代になった。スポンサー、テレビの放映料、グッズの販売・・・。有名選手を抱えれば抱えるほど、規模も大きくなり、あれやこれや知恵をしぼってのクラブ経営がつづくことになる。

ミュンヘン・オリンピックスタジアムと選手たち
 ドイツでも、さまざまな変化が現れている。たとえば、旧東ドイツのクラブでは、社会主義制度での牧歌的ともいえるクラブ運営から、かつて経験したことのない「プロチームの経営」へという方向転換を迫られた。マネージメント、マーケティング、スポンサー・・・、それまでなじみの薄かった英語が飛び交うようになった。
  さらに外国人選手の問題もある。EU内での選手の移籍が自由になった結果、現在のブンデスリーガの約半数、スタメンに限れば7割近いポジションが、外国籍選手で占められることとなった。チェコ、ポーランド、ハンガリーや旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ、スロヴェニア、クロアチアといった近隣諸国はいうにおよばず、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、イラン、韓国、日本と、世界中から選手が集まってくる。外国人選手の流入で、ドイツの若手選手は出場機会が減り、若い才能がなかなか芽を出せない状態にある。
  一方、少子化の進む中、ドイツは国を維持するために外国からの移民を受け入れざるをえなくなった。たとえばミュンヘン市では、4人にひとりが外国人という状況になっている。特にトルコ系の移住者が増え、ドイツで生まれた2世、3世も次々と育っている。「50年後のドイツの大統領はトルコ系」という人もいるが、あながち絵空事ではない。ドイツとトルコ両方の国籍を持つ有望な若手選手は、どちらの代表としてもプレーする可能性があるので、関係者は躍起になっている。
  サッカーは大きなビジネスになった。その影響で過密日程となった現在では、選手の所属クラブとドイツ代表チーム間の調整も難しくなってきている。選手も生身の人間である。試合が増えると、それだけ疲労も蓄積し、消耗も早くなる。所属クラブを優先するあまり、代表ゲームへの出場を拒否する選手も出てきている。
  ドイツとそのサッカー代表が、ボーダーレスの時代、そして経済第一主義の時代の中でどのような形で生き残りをかけていくのか。大きな変革の時が、訪れているような気がする。

(敬称略、おわり)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にてドイツ・サッカー物語「2006年へのキック・オフ」を連載中

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