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ドイツとドイツサッカー 明石 真和
05/09/15

第12回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その6)

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

 ワールドカップの余韻

シェーンの自伝
Fußball,© 1978 by Verlag Ullstein GmbH.

 1966年ワールドカップ(W杯)は終わった。決勝で敗れたことは残念だが、ファンは、帰国した西ドイツチームを大喝采で迎えた。ドイツ連邦共和国大統領ハインリヒ・リュプケは、ボンで歓迎式を主催し、選手とスタッフが招かれた。席上、リュプケは監督のヘルムート・シェーンにこう言った。
「シェーン君。私は、はっきりと見た。あれはゴールだった! ボールがネットに入ったのをちゃんと見たんだ。うちのテレビでね」
 シェーンは、反論の言葉が口まで出かかったが、大統領への敬意からその気持ちをグッとおさえた。場の雰囲気をくずすまいと、近くにいたヘルムート・ハラーに声をかけた。
「ヘルムート、ちょっと来てくれ。大統領閣下に事実を説明してくれ。私は、ちょっと他の選手を見てくる…」
 ドイツでは、政治の実権をもつのは連邦総理大臣(首相)であり、大統領には象徴的な役割しか与えられていない。ひょっとするとリュプケは、立場上、英国に配慮して、意図的にそういう言葉を用いたのかもしれない。あるいは、本当にゴールだと信じていたのだろうか…。ハラーが大統領を納得させたかどうか、シェーンは聞きそびれた。
 とにかく、決勝戦で問題となった「第3のゴール」をめぐる議論がなおもつづき、ドイツ全土どこへ行っても、その話題でもちきりなのであった。もし、イングランドが疑いのないゴールを決めていたなら、ゲームには敗れてもシェーンは満足したであろう。すばらしかった試合が疑問符つきのゴールで決着したことを、彼は残念に思っていた。その一方、うれしいニュースもあった。大会期間中に開かれた国際サッカー連盟(FIFA)総会で、西ドイツが1974年のW杯開催国に選ばれたのだ。

W杯への立候補

 戦後の1950年、西ドイツはFIFAへの復帰を果たし、1954年には、第5回W杯スイス大会で「ベルンの奇跡」と謳われた優勝を遂げる。関係者の間には「いつか自分たちの手でW杯開催を…」という思いが強まっていった。ドイツ・サッカー連盟(DFB)では、可能性の検討を始めた。
 1956年、FIFAは、かねてから懸案となっていた事項の申し合わせを行った。今後、W杯はサッカー界の二大勢力である欧州と南米が、交互に開催するというものである。すでに1958年はスウェーデン大会と決まっていたため、この取り決めに従い、1962年は南米のチリで開催されることが決まった。となれば、西ドイツがねらえるのは最短で1966年の大会ということになる。
 ところが、ここに手ごわいライバルが現れた。「サッカーの母国」イングランドだ。スポーツとしてのサッカーの誕生は、1863年のイングランド・サッカー協会(FA)の創立をもってその嚆矢とする。実際には、1963年が「100年祭」にあたり、事実ロンドンのウェンブレイ・スタジアムでは「イングランド対世界選抜(The Rest of the World)」という記念試合も行われたのだが、母国としては、もっと盛大な記念行事を…と考えるのは当然であろう。そして「そこにW杯があった」ということになる。かくして、1966年大会は「100周年記念」のイングランドが最有力というのが大方の予想であった。
 そこに割って入ったのが、西ドイツとスペインだった。票読みでは、英連邦対ラテンアメリカを含むスペイン語圏の戦い、そこにアジア・アフリカを味方につけた西ドイツがどこまでくいさがるかがポイントと見られていた。ドイツのサッカー専門誌『キッカー』によれば、「旧友のよしみで日本が音頭取りをしてくれた」とあるが、やじ馬的興味からすれば、このへんの日独協力の具体的な事情(裏話)を詳しく知りたいところである。
 それはさておき、スペインは、突然立候補を取りやめイングランド側についた。勝ち目の薄い勝負をするより、ここで恩を売っておき、次回に賭けようという作戦だったのであろう。これでイングランドの対立候補はドイツのみとなった。不利は目に見えていたものの、結果は「32対27」の善戦であった。次回に向けてはずみがついた。
 そしてむかえた1974年大会の招致合戦では、国内事情が不安定だったスペインが再び立候補をとりさげ、すんなりとドイツ開催が決まった。時のFIFA会長スタンレイ・ラウスは、「1974年のW杯は、完璧な形で行われるであろう。何度もドイツを訪れて、ドイツの方々の徹底した運営力やファンの熱狂ぶりもよくわかっている」とコメントした。スペインは、1982年まで待つことになった。
 それにしても、1964年東京五輪、1966年イングランドW杯、1974年西ドイツW杯…という開催地を眺めると、日本、英国、ドイツといった戦争当事国が、復興して再び世界的なスポーツ大会を主催できるようになるまで20〜30年という歳月が必要だったということを思い知らされる。この間、競技者として脂の乗り切った年齢の若者達が、戦争のためにどれだけその青春を棒に振ってきたことだろう。本編の主人公ヘルムート・シェーンも、またそのひとりといえるだろう。

新体制で目指す自国開催W杯

クラマーから筆者へ届いた手紙

 1968年、DFBは自国開催となる1974年W杯組織委員会のメンバーを発表した。委員長はヘルマン・ノイベルガー。戦後の混乱の中、一時的に独立国となっていたザールラント(ザール地方)のサッカー協会会長を務め、シェーンをザールラントの代表監督として雇ってくれた人物である。シェーンにとっては、サッカーの師ゼップ・ヘルベルガーと並ぶ恩人であり、また盟友といってもよい。ノイベルガーは、ザールサッカー協会がDFBに復帰した後も精力的に活動をつづけ、「やり手」の性格を発揮して、連盟内でいよいよその発言力を強めていた。1974年大会に向け、シェーンは、強い後ろ盾をもったことになる。
 代表チームのスタッフ人事も変わった。シェーンには、1966年W杯決勝をひかえた大事な局面で「廟のレーニン」のように横たわっていた、と雑誌『シュピーゲル』に報道されたことが不本意であった。彼は、その記事が助手のデトマール・クラマーの情報によるものと察していた。もともと胃に持病のあったシェーンは、時として痛みだす十二指腸潰瘍に悩まされていた。そのため、暖かいミルクかお茶を飲んで15分ほど横になることがある。クラマーは、そんな健康状態を知っているはずなのに…。シェーンは、クラマーとの齟齬を感じた。
 その記事がたとえクラマーによるものであったにせよ、単にユーモアのつもりで他意はなかったのかもしれない。それでも、人一倍繊細なシェーンには、ひどくこたえた。
 一般的にいって、ドイツ人は個性が強く、各自が強烈に自己主張する。その一方で、ひとりひとりが勝手なことを言うだけでは、組織や社会が成り立たないこともよくわかっている。だからこそ、自分の意見を筋道たてて組み立て、それを相手に伝え、お互いのぶつかりあいの中から決めごとを作っていく。その際、相手の気持ちや立場を尊重し、互いの面子をつぶさないよう言動には気を配る。それでも往々にして行き違いや誤解や曲解が生まれてしまう。一度すれ違いが起こると、なかなか修復がむずかしい。親子関係ですら、そういう例を聞いたことがある。ましてや、もともと他人の集まりである職場では、人間関係の距離の取り方が非常に微妙になる。
 サッカーについても同様だ。チームの一員なら、裏では意見をたたかわせても、外に対しては統一見解で臨むことが肝要だ。寄せ集めの選抜チームであれば、なおさら良い雰囲気作りが重要であり、監督とコーチの間に、意見の食い違いがあるなどということは、表に出してはいけない。これは、前代表監督ゼップ・ヘルベルガー時代からの教えでもあった。
 シェーンと同様、ヘルベルガーを師と仰ぐクラマーも、その辺の呼吸は十分にのみこんでいた。クラマーは彼なりにシェーンを立て、一度決断が下れば、その意向や指示にはきちんと従った。ただ、W杯決勝戦の作戦についてはその後も心にしこりが残っていた。
 ちょうどそのころ、FIFA会長のスタンレイ・ラウスから、ある要請がクラマーのもとに届いた。FIFAコーチという肩書きで世界中を回り、サッカーの指導をしてほしいというのである。恩師ヘルベルガーの薦めもあり、クラマーはこの要請を受けた。サッカーの発展には、正しい訓練を受けた指導者の育成が重要であるという考えのもと、1974年までこの地位にとどまり、巡回した国はアジア、アフリカを中心に50〜60ヵ国にもおよんだ。
 代表助手のポストはウド・ラテックが後を継いだ。ラテックは、すでに1965年から DFBのコーチとしてクラマーとともにユースとジュニアを担当し、1966年W杯でもスタッフの一員としてベンチ入りしている。選手のことも熟知しているため適任といえた。
 こうして、新しいスタッフとともにシェーンは次の目標に向かってスタートをきった。ところが、1968年欧州選手権では、いきなり大失策をおかしてしまった。まだ新チームを模索している段階で、弱いはずのアルバニアにまさかの引き分けに持ちこまれ、予選落ちしてしまったのだ。
 1974年の自国開催W杯までには、1970年W杯、1972年欧州選手権と重要な大会がまちかまえている。失敗がつづけば、いくら連盟内の実力者ノイベルガーが友人であるとはいえ、クビになる可能性もないわけではない。成績がともなわなければ代表監督の座にとどまることはできないのだ。こうして、次の1970年W杯予選は失敗が許されない状況となり、シェーンは、より強いプレッシャーのもとに置かれることとなった。

 前代表監督ヘルベルガーとシェーンの時代の間には、大きな差が存在していた。ひとつは、1963年の全国リーグ「ブンデスリーガ」の創設である。
 ヘルベルガー時代には、地方でのリーグ戦が主体となっており、選手はセミプロかアマチュアであった。代表監督は、全国に目を光らせ、情報を収集し、特定の選手個々と連絡をとり、彼らのコンディションを保つために心を配らなくてはならなかった。
 プロ化されたブンデスリーガでは、そういったコンディション調整は、そもそも選手の所属しているクラブの課題である。しかも全体のレベルは急速に上がり、フランツ・ベッケンバウアーやヴォルフガング・オヴェラートといったワールドクラスの選手も出現していた。その気になれば、代表チームをふたつ作れるほど選手が豊富になってきたのである。シェーンは、「選択肢が多いゆえの悩み」を抱えることとなった。
 もうひとつの大きな違いは、選手達の気質の変化である。ヘルベルガーの時代は、選手のほとんどが戦争体験者であった。軍隊に行った者も多く、上からの指令を忠実に実行することには慣れている。年長者に対する敬意もまだ残っていた。
 それにひきかえ、シェーンの時代の選手は、その多くが戦後の生まれである。ドイツ代表チームとして求められるプレーの質はさほど変わらないにせよ、ヘルベルガー時代とはまったく性格の異なる選手達が相手となれば、また違った指導法が必要であった。ひとりひとりが一言居士の選手達をどうやってチームとして束ねていけばいいのか。シェーンはその点をうまく把握していた。前任者のヘルベルガーに比べ、シェーンは選手をあまり縛らない監督、管理しない監督と言われた。これは、彼自身の性格もあるのだろうが、持ちゴマである選手の気質の変化にうまく合わせた結果に思える。

最強チームの作り方 − シェーンの選手選考方法

ミュンヘン、グリューンヴァルト競技場
シェーンも選手選抜のために訪れた

 もし、私たちが一国のサッカー代表監督であったら、どのような方針にもとづいて、どんな選手の選抜を行うだろう。4回のW杯に(西)ドイツを率い、監督としての最多勝利記録16勝を挙げたシェーンの言葉は、大いに参考になるであろう。彼ははっきりと自覚していた。
「サッカーの理想のチームは、南米の個人技と欧州選手の冷静なプレーぶりの融合である。そして、オールスターのベスト・イレブンを並べるだけでは、良いチームはできない。中心となる選手とそれを補佐する選手の組み合わせのほうが、より良いものになる。11人のペレ、11人のベッケンバウアーではW杯は勝ち抜けない」
 選手の管理方法は異なるにせよ、このあたりのコンセプトは、1960〜70年代に日本のプロ野球で9連覇を成し遂げた川上哲治監督時代の巨人と相通ずるものがある。川上も、王貞治、長島茂雄というふたりの名選手を軸に、小技のきく柴田勲、高田繁、土井正三、黒江透修といった選手を周囲の脇役に配して、常勝チームを作っていった。
 代表監督の役割は、クラブ監督のそれとはだいぶ異なる。新しい才能を発見することよりも、いろいろなチームから、さまざまな選手をピックアップして、組み合わせることに重点が置かれる。シェーンは、アンテナを高く広く張りめぐらして情報収集を行った。テレビ、ラジオ、新聞に注目する。ブンデスリーガの監督達に、新人や中心選手の最新のコンディション状態を報告してもらう。スタッフも、手分けして各地の競技場に足を運んだ。シェーン自身、毎週土曜日には、ブンデスリーガのいずれかの試合を見に行った。特別に観察する選手を前もって決めておき、目的をもって眺めるのである。しかも、なるべくアウェイゲームの悪条件の中でどういうプレーをするかをチェックした。たとえば注目する対象選手がフォワードであれば、ブンデスリーガでも1、2を争うほど激しいマークをするディフェンス選手のいるチームと敵地でどんなプレーをするかを見に行くのである。

 ひとりひとりの選手を観察する基準は、はっきりと決まっていた。

1.
ボールをもった時に、何ができるか。テクニックはどうか。片方の足しか使えないのか。それとも両足効きか。
2.
体調はどうか。スピードはどうか。動きは俊敏かどうか。ジャンプ力はどうか。パワーはどうか。パワー不足で、1対1の戦いで簡単に敗れていないか。
3.
味方がボールをもった時の動きはどうか。敵にボールがわたった時の動きはどうか。(ボールをもった時にしか目立たない選手は、フィールド全体を見渡す広い視野が欠けていることが多く、ひとりよがりのプレーをする人が多い。)

 以上が、シェーンなりの代表選手観察基準であった。当たり前といえば当たり前で、今でも、どこの国でも、そしてどんなチームでも通用する基本中の基本であろう。将来、Jリーガーや日本代表選手を目指す子供達、あるいはそれを指導する人達にも参考になると思う。
 ただひとつシェーンが参考にしなかったことがある。それは、サッカー雑誌や新聞等に載る「選手の出来をチェックした採点表」であった。地方色の強いドイツでは、シェーンが監督をしていた当時、地元記者の我田引水もまた強烈だったらしく、ついつい地元選手にたいして甘くなる傾向があったようだ。そういえば、今も「今週のベストイレブン」などという企画がある。お遊びとしてはおもしろいものの、「チーム作りはまた別」というのがシェーンの考え方であった。

「爆撃機ミュラー」登場

ゲルト・ミュラー、1975年、東京にて

 シェーンは、次世代の中核となるべき若い選手の発掘にかかった。1966年W杯以降、何人もの候補を試してはみたものの、彼らには代表選手に必要な独特の個性が欠けているように思われた。
 そんなある日のこと。シェーンのもとにミュンヘンから電話が入った。「FCバイエルンにちょっとした選手がいるので、一度見てほしい」というのだ。連絡を受けてミュンヘンに飛んだシェーンは、当時FCバイエルンが本拠地にしていたグリューンヴァルト通りの競技場で、唖然とするばかりの光景を目にした。ドイツ人にはめずらしい真っ黒な短髪、サッカー選手とは思えないほど小柄でズングリムックリとした体躯、そのうえとてつもなく太い大腿部をもったセンターフォワードが、フィールドを走り回っていた。名をゲルト・ミュラーといった。
 シェーンは、一目でミュラーの才能を認めたわけではなかった。なにしろ、西ドイツ代表のセンターフォワードには、チームのキャプテンで国民的英雄ともいえるウーヴェ・ゼーラーがいるのである。それにミュラーは、同じFCバイエルンのチームメートであるフランツ・ベッケンバウアーのように美しくボールを扱えるテクニックをもっているわけでもない。ただ、シェーンには、気になる選手のひとりとして印象に残った。
 当時のミュラーは、専門家の間でも評価がわかれていた。「あいつはすごい」という意見もあれば、「あれはものにならないよ」と酷評する者もいた。スランプで何試合か無得点がつづくと、口さがない評論家は「それ見ろ!」ということになる。ところが次の試合で、ミュラーはボンッ、ボンッ、ボンッと爆発し、一気に3点、4点をあげる活躍をみせる。となれば、うるさい評論家も一時黙らざるをえない。その繰り返しであった。
 シェーンは、FCバイエルンが強い守備陣をもつチームとアウェイで当たるときのミュラーに注目するようになり、だんだんと彼の持ち味に気づいていった。ミュラーは、ペナルティ・エリアやゴール・エリアの中で異彩を放つゴールゲッターだった。味方のシュートの跳ね返りであろうが、敵のクリアボールであろうが、ゴール前の混戦からボールがこぼれると、不思議とミュラーが「そこにいる」のである。得点を嗅ぎつける独特の臭覚を、本能的にもっているというしかない。
 彼の得点は、オーバーヘッドキックや地面すれすれのダイビング・ヘッドでダイナミックなゴールを決めるゼーラーとは、スタイルの点でおおいに異なっていた。ミュラーは、とにかく相手より早くボールに到達して、ころがしこんだり、チョコンと蹴りこんだり、すべりこんだり、足や頭やスネに当てて押し込んだり、ヒョロヒョロと流し込んだり…と、どんな体勢からでも点を入れるのだった。

 ゲルト・ミュラーは、1945年11月3日、ドイツ南部バイエルン州のネルトリンゲンに生まれた。ネルトリンゲンは、今も中世の城壁がそのまま残る小さな町で、ドイツ有数の観光ルートである「ロマンチック街道」沿いにある。運転手をしていた父親と母、兄がひとり、姉がふたりという6人家族で、ミュラーは末っ子であった。兄のハインツが、地元のTSV1861ネルトリンゲンに入っていたことから、ミュラーも自然に同チームに所属することになる。
 14歳で義務教育を終えると、そのまま市内にある紡績工場で織工見習いになった。仕事には早番(6時から14時半まで)と遅番(14時半から23時まで)があり、1週間ごとのローテーションで繰り返される。ミュラーは上司に
「いつも早番でやらせてもらえませんか?」
 と頼んだ。遅番の週になると、午後のクラブの練習に参加できないのだ。チーム内で中心選手になり、ますますサッカーがおもしろくなってきた頃である。17歳の時には、1962年から63年にかけての1シーズンで、チーム総得点204のうち180点がミュラーのゴールというすさまじさである。それでも、上司の答えは素っ気なかった。
「例外は認めない」

『ゴールを決めろ』
Tore entscheiden,
©1973 by Copress München

 ミュラーはどうしたであろう。それならと、せっかく織工としての資格試験に合格しながら、サッカーを優先して転職をはかったのである。同じネルトリンゲン市にある溶接工場で、また見習いから始めた。「もったいない」という声もあったが、ミュラーにとってそんなことは問題ではなかった。「午後の練習に出られるかどうかが肝心だった」と、彼の自伝(『ゴールを決めろ』Tore entscheiden,© 1973 by Copress München)にはある。
 そんなミュラーに同時に目をつけたのが、ネルトリンゲンから南東に100km離れた大都会ミュンヘンに本拠を置くふたつの伝統クラブ、1860ミュンヘンとFCバイエルンだった。今でこそFCバイエルンのほうが有名だが、当時はむしろ1860のほうが強かった。フォワードにはドイツでもトップクラスの選手達が並んでいた。おりしも西ドイツ全土を統括するブンデスリーガが1963年に創立され、どのチームも優秀な選手を求めている時期だった。
 ミュラーは考えた。「ブンデスリーガの1860には有名選手がそろっている。それにひきかえ、バイエルンはいまだブンデスリーガに昇格できず、地域リーグだ。これではスターを買う余裕もないだろう。レギュラーになる可能性はバイエルンのほうが高い」
 こうして、後に「国の爆撃機」「世界の得点王」と絶賛されることになる稀代のゴールゲッターは、伝統こそあれ、まだまだ地方の1チームにすぎなかった当時のFCバイエルンで、本格的なプロ選手への道を歩み出したのである。自らを活かせるチームを嗅ぎ分ける能力も優れていたということか。
 ミュラーの選んだFCバイエルンには、同い年のフランツ・ベッケンバウアーがいた。このベッケンバウアーのFCバイエルン入団にもエピソードがある。彼は、1945年9月11日に、ミュンヘンの庶民が住む一画であるギージングに生まれた。父親は郵便局勤務。男の2人兄弟で、フランツは次男である。ヴァルターという名の兄がいる。
 第二次世界大戦の空襲により瓦礫となった町で、子供の遊びといえばサッカーしかない。車の往来もまったくといっていいほどない時代である。フランツ少年は、毎日のように家の近所の路上で、仲間と草サッカーをしていたという。皮製の本物のボールは貴重品で、テニスボールで遊ぶことが多かったようだ。時には紙切れやボロを丸めて布でくるんだだけの「ボール」や空き缶を蹴っていたともいう。ひとりの時は、毎日同じレンガ塀の同じ箇所にボールをぶつけていたので、レンガにくぼみができたという逸話もあるそうだ。

ベッケンバウアーの兄、ヴァルターと筆者

 少年時代の彼の憧れのチームは1860であった。友人たちと、いずれは1860に入団することを約束しあっていた。ところが、当時ベッケンバウアーの所属していた少年チームが、1860の少年チームと対戦した時、彼は試合中に相手選手と喧嘩になり、殴られてしまった。彼は気持ちを変えた。「あんなクラブには行かない」
 かくして、「ボンバー(爆撃機)・ミュラー」と「カイザー(皇帝)・ベッケンバウアー」は、FCバイエルンで出会い、ともにドイツサッカーの黄金時代を築いていくのである。

その後のゼーラー

 一方、1966年のW杯準優勝のあと、ウーヴェ・ゼーラーは不振に陥っていた。背中のケガが彼を苦しめた。コルセットを付けて試合に出たこともある。センターフォワードは特に最前線で身体を張るポジションだ。常に相手ディフェンスの標的にされ、激しいチャージを受ける。1936年生まれのゼーラーは、すでに30を越えていた。試合中に、
「おじいちゃん、大丈夫かい」
 と、相手選手から声をかけられることもあった。所属するハンブルガーSVの調子も悪く、ブンデスリーガの中位をウロウロしていた。クラブの試合、代表ゲーム、そのための練習、さらにセミプロ時代から担当しているスポーツ用品メーカー、北部ドイツ・アディダスの代理人としての仕事が加わる。ゼーラー自身、次第にサッカーに疲れてきていた。
 妻のイルカが良き相談相手になってくれた。妻との会話を通じて心を決めたゼーラーは、ヴィースバーデンのシェーンに電話をかけ、引退の意志を伝えた。
「1968年4月27日に予定されているスイスとの親善試合を最後に代表から退きます」
 シェーンは慎重だった。一気にことを運ぶのを避け、しばし熟考の後、電話口でこう言った。
「まあ、そういうことにしておこうか。でも、私には最終的結論とは思えないな。この直感に間違いはないと思うが…」
「いえいえ」
 とゼーラーは答えた。

 代表からの引退を宣言したゼーラーは、緊張と責任から解放され、くつろいでいた。その間、西ドイツ代表チームは、1970年のメキシコW杯に向け予選を消化していった。キプロス、オーストリア、スコットランドと同じ組に配属されたこの予選では、西ドイツとスコットランドの一騎打ちになることが予想された。1969年4月にグラスゴーで行われたアウェイゲームは「1対1」の引き分けに終わり、その後、両チームとも順調に勝ち点を増やしていた。そして、いよいよドイツのホームで行われる直接対決で雌雄を決することになった。試合場はハンブルクのフォルクスパルク競技場。ハンブルガーSVの本拠地である。ゼーラーは落ち着かなくなってきた。自分の居間ともいえるスタジアムでの試合に、観客席からドイツ代表の試合を見るなんて…。
 ゼーラーの気持ちの変化の陰には、シェーンの作戦があった。引退表明をしたゼーラーに、シェーンはそれまで以上の電話攻勢に出ていたのである。代表の前監督であるゼップ・ヘルベルガーからも頻繁に連絡があった。体調や家族のこと、ペットの犬の話など、さりげない会話の中に、翻意をうながそうとする努力が感じられた。さらに驚くべきことには、ドイツ代表の試合が行われるたびにゼーラーは貴賓として招かれたのである。スタジアムに行くと、ベッケンバウアーやオヴェラートがほほえみかける。ゼーラーには彼らが「代表ゲームがないと退屈でしょう?」とでも言っているかのように思えた。それまで、必ずしも常に意見が一致していたとはいえないシェーンとヘルベルガーが、この一件に関しては、みごとに一枚岩となって、引退を撤回させようとしている…ゼーラーにはそう感じられた。
 そして結論から言えば、ゼーラーはついに気持ちを翻して、代表に復帰したのである。シェーンは大満足であった。ところが、ここに大きな問題がもちあがった。すでに代表チームのセンターフォワードとして地歩を固めつつあったゲルト・ミュラーとウーヴェ・ゼーラーのレギュラー争いだ。ゼーラーかミュラーか。ドイツのスポーツマスコミは、格好のネタとして、ここぞとばかりにふたりのライバル関係をあおった。シェーンは、新たな悩みを抱えることになった。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にて連載開始

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