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SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第6回 「ドイツVS日本」とワールドカップ

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

史上初のドイツ対日本

ドイツ対日本戦、試合風景
04年12月

 2004年12月16日木曜日、横浜国際総合競技場で「ドイツ対日本」の記念すべき初対決が行われた。「えっ、初めての対戦? 」・・・確かに、これまでのサッカー界におけるドイツと日本の親密な関係から考えれば、意外な感じがする。
 ドイツとの縁は、1936年のベルリン・オリンピックにまで遡る。この大会の1回戦で、日本は優勝候補のスウェーデンを破る殊勲を挙げ、脚光を浴びた。その後の第2次世界大戦により、各国との交流も中断を余儀なくされたが、戦後の1953年、いちはやく来日した外国チームのひとつが、ドイツのオッフェンバッハ・キッカーズであった。また、同じ年にルール工業地帯の中心地ドルトムントで開催された「国際学生スポーツ週間(ユニヴァーシアード大会の前身)」には、選手17名からなる学生選抜チームを派遣した。後に日本代表監督や日本サッカー協会会長を務めた長沼健、岡野俊一郎もこの時の選手であった。この大会で受けた深い感銘をつづった「17人の感動が、世界中の感動に変わる日」という手記が、後に、2002年のワールドカップ(W杯)招致に際して、「開催提案書」の一節を飾ることになる。
 1960年代には、日本代表(と日本サッカー界そのもの)を指導してくれたドイツ人コーチ、デトマール・クラマーの影響もあって、ドイツサッカーはさらになじみ深いものとなっていった。1964年東京、1968年メキシコの両オリンピックを目指していた日本代表チームは、何度もヨーロッパ遠征を行い、その都度 Sportschule(シュポルト・シューレ/スポーツ学校)と呼ばれるドイツの合宿施設にお世話になった。現日本サッカー協会会長の川淵三郎キャプテンが、選手時代、このスポーツ学校の環境や施設に感動したのは有名なエピソードである。
 東京オリンピックでベスト8入りを果たした日本サッカーに、クラマーコーチは、ドイツ人らしく、長期的展望にたっての提言を行った。「1.コーチ制度の確立 2.コーチの育成 3.リーグ戦の導入 4.芝生のグラウンドの確保」等々。代表選手達がドイツで味わった感動や、このクラマーの提言が、1965年に開始された日本サッカーリーグを経て、現在のJリーグに脈々と受け継がれていることは言うまでもない。さらに、日本の誇るストライカー釜本も、メキシコ・オリンピックを前に、ドイツ西部ザールブリュッケン市にサッカー留学し、ユップ・デアヴァル(後の西ドイツ代表監督)の指導を受け、メキシコの本番では得点王と銅メダルに輝いた。
 しかし、その後の日本サッカーは長い低迷期が続く。わずかに、当時の西ドイツで、日本人初のプロ選手となった奥寺康彦が活躍し、あとに尾崎加寿夫、風間八宏といった選手達が続いたにすぎない。もっとも、ドイツ式のコーチングということになれば、この間ケルン体育大学のコーチ養成講座に学んだ日本人指導者も少なくはないであろう。

 このような親しい関係にありながら、どうして日本代表とドイツ代表の対戦が、組まれなかったのであろうか。大きな理由としては、日本サッカーが、長い間、いつもオリンピックを第一の目標としてきた点が挙げられる。
 1980年代に入るまで、オリンピックそのものがアマチュアのための大会であり、プロのなかった日本サッカーにとっては、身の丈に合う目標であった。一方、ドイツは世界の強豪国として、常にオリンピックよりレベルの高いW杯を目指す戦いを続けていた。しかも、W杯とヨーロッパ選手権が2年ごとに巡ってくる本場ヨーロッパでは、その予選も含めると、ほとんど毎年のように真剣勝負が続くことになる。国の代表に選ばれるほどの一流選手が所属するクラブでは、ただでさえ国内リーグやヨーロッパ規模のチャンピオンズ・リーグ等の激しい戦いが待っているので、どうしても過密日程にならざるをえない。よって、ただの親善試合では、なかなか相手にしてもらえなかった、というのが実情であろう。
 W杯に出場すれば、抽選次第で対戦の可能性もあるわけだし、事実、お隣の韓国代表チームは、これまでに2度W杯でドイツと戦っているのだが、日本にそのチャンスは訪れなかった。日本代表対ドイツ・アマチュア選抜といったようなゲームはあっても、フル代表の対戦は実現しなかったのである。高校野球に例えれば、田舎の無名校が、強豪の甲子園常連校に申し込んでもなかなかゲームをしてもらえず、相手が2軍であることを承知で練習試合を組んでもらった、という状況に似ているだろう。
 その意味でも、今回の初対戦は、日本サッカーが世界の中で認知されつつあることの証明といえる。2002年W杯でそれなりの結果を残したことが最大の理由であろう。またドイツ側としても、2006年大会を控えた今、アジアへのアピール効果を考えての遠征であったかと推測できる。

FIFA世界ランキング、ドイツは16位、日本は17位?

ゴールを守るオリヴァー・カーン
04年12月

 日本は、サッカーに限らず、医学や法律をはじめとして、明治以来ドイツから多くのことを学んできた。ドイツ語を通して、ドイツ文化や西洋文化を学んだ日本人も多い。大学の第2外国語としてドイツ語に触れた日本人の数を考えただけでも、相当な人数になるはずだ。それに比べ、日本語や日本文化を学んだドイツ人はどのくらいいるだろうか。正確な数字は分からないが、かなりのアンバランスであることは間違いない。言ってみれば、日本人のドイツに対する気持ちのどこかに、「明治以来の片思い」の要素があるような気がしている。
 このごろは、ドイツでも日本語を学ぶ人が増えてきていると聞く。それでも、まだ一般的に日本(やアジア)への関心は低く、象徴的にいえば、「フジヤマ、ゲイシャ」の時代から、「カミカゼ、ハラキリ」を経て、ようやく「スシ、テンプラ」の時代に入ってきたという印象を受ける。
 今年の6月には、各大陸の王者が集って2年に一度行われるコンフェデレーションズ・カップがドイツで開かれ、アジア・チャンピオンの日本も出場する。1次リーグでは、ドイツと別組だが、勝ち進めば対戦の可能性もある。また10月8日には、ドイツ(場所未定)で「ドイツ代表対日本代表」のゲームが予定されている。日本にしてみれば、「横浜の仇をドイツで」といったところか。このように、今後は、双方向の行き来が、ますます盛んになるであろう。世界がますます狭くなり、地球上の出来事が瞬時にお茶の間に飛び込んでくる時代である。直接ことばを介さなくてもメッセージを交換できるスポーツや音楽は、相互理解の大きな一助になるはずだ。両国の親善のためにも、新たな世代のさらなる交流を期待したい。
 しかし、それにしても、今回の初対戦は3対0でドイツ代表の勝利に終わり、ファンの多くが、あらためて世界の強豪国の壁の厚さを感じたことだろう。その時点でのFIFA(国際サッカー連盟)による世界ランクがドイツの16位、日本の17位と、その差がたった1つであったわりには、大きな隔たりを感じさせられた。個人的には、このランキング自体、あまり意味がないと思っているが、今後、何度も対戦を繰り返すことで、どこまで世界のトップレベルに近づいていけるか・・・、日本にとって、ドイツは格好の「ものさし」ともいえるだろう。

ドイツ側応戦席
04年12月

 今回の独日戦では、ピッチ上の両チームの激突もさることながら、場外のチケット入手合戦もまた、かなりの熱い戦いであった。
 Jリーグが創設された1993年から、W杯初出場を果たした1998年フランス大会前後にかけて、日本のサッカー人気が沸騰し、2002年日韓共同開催W杯を経て、頂点に達した感がある。日本代表がらみのチケットは、常に倍率が高く入手が難しいという噂を、以前から耳にしていた。事実、今回のドイツ戦も、友人が発売開始と同時にインターネットでの販売にチャレンジしてくれたのだが、残念ながら抽選に漏れてしまった。
「競技場での観戦は、無理なのかなあ」・・・友人達とはそんな話をしていた。それでも、「ドイツ代表ファンクラブ」に所属している私としては簡単にあきらめきれず、一縷の望みを託して、直接、ドイツサッカー連盟(DFB)に国際電話で問い合わせてみることにした。
「横浜での日本戦のチケットは、手に入りませんか? 」
 電話口で応答してくれた女性担当者の明るい声が、今も耳に残る。
「大丈夫ですよ。アウェイ(敵地)ゲームでも、必ず一定数の入場券は確保できる決まりになっています。ファクスかEメールで申し込んでください。今回に限り、1人1枚以上でも受け付けます」
 指示通りにすぐ手続きした。ところが、その後しばらくは、ナシのつぶてであった。経験から、「ドイツ人との交渉では、あせってはいけない・・・」と分かってはいるものの、やきもきする日々が続く。じっと待った。やっとチケットのヴァウチャーが届いたのは、試合日の3日前であった。

カーンと1対1に!

 ヴァウチャーには、ドイツ語で「試合当日の16時から18時の間に、横浜のIホテルでオリジナルチケットと引き換えること」と記されていた。勤務先の埼玉での仕事を終えてから移動しても、20時開始のゲームならどうにか間に合うと考えていた私にとっては、時間との競争ということになり、さらなる悩みを抱えることとなった。仕事のある平日のそんな時刻に、誰が都合よく横浜のホテルに顔を出せるというのだろう。しかも、係のドイツ人によっては、原則にうるさく融通がきかないこともありうる。そこで、念のために、試合前夜に指定先のホテルを訪ねてみることにした。ところが、フロントの返事は、「すみませんが、当方は引き換え場所を提供するだけなのです。現時点で詳細は何も伺っておりません・・・」という心もとないものであった。途方にくれた。あとは、ドイツ側のチケット担当者に直接あたるしかない。
 ちょうどそこへ、一台の大型バスが止まり、外国人の団体がロビーに入ってきた。皆、ラフな服装で、胸にIDカードを下げている。耳を澄ますとドイツ語の会話が聞こえてくる。ひょっとしたら何か情報を得られるかもしれない。思い切って話しかけてみた。
「ハロー! チームは、いつ帰ってくるの? 」
 撮影用の大きなビデオカメラをかついでいたドイツ人のひとりが、こう言った。
「チーム? ここはマスコミ関係者だけさ。選手達は隣のホテルだよ」

 広い道路をはさみ、一区画先にもうひとつ大きなホテルが見える。地上2階の部分に、道路と交差して、ふたつのホテルをつなぐ立派な連絡橋がかかっている。夜9時を回った冬のビル街は、いくら大都会の横浜とはいえ、人通りも少なく、うらさびしい。明るい連絡橋の階段に向かって歩きだすと、薄くらがりの中からこちらに向かって歩いてくる大男が目に入った。一瞬のうちに、すぐに誰であるか分かった。
「カーンだ! 」

オリヴァー・カーン
04年12月

 距離がグングン近づき、自然と互いに歩み寄る形になる。西部劇の決闘のようだ。高校時代にサッカー部でフォワードをしていた私だが、これほどの大物ゴールキーパーと1対1になるのは初めてだ。もし、これが実際の試合で、私がボールをもっていたら、どんなプレーをするだろう・・・。ドキドキしつつも、そんなことを考える余裕があった。すれ違いざまに声をかける。
「こんばんは、カーンさん! 調子はどう? 」
「Ja.(ヤー)」(ああ)
「サインをいただけますか? 」
「Ja.(ヤー)」
「私の名前も書いていただけます? 」
「Ja.(ヤー)」
 ちょうどカバンに持ち合わせていたドイツのサッカー雑誌(偶然カーンの顔が表紙になっていた)にサインをもらう。カーンは、終始ほとんど無言で、ゲーム中と同じ引き締まった表情をしていたが、写真の願いにも、快く応じてくれた。
「ありがとう。明日は良い試合を期待します! 」
「Ja! (ヤー)」

「ドイツ代表ファンクラブ」でチケットを優先予約

 その後、隣接のホテルを訪ねた。ロビーにドイツ代表のユニフォームや色紙を手にした20人くらいのファンがいる。いつも不思議に思うのだが、こういう人達は、どこでチームの宿舎の情報を聞き出すのだろう・・・。そんな中、ドイツから来たと思われるサポーターがいた。話しかけると、やはり私と同様、チケットの引き換え方法が腑におちないらしい。「誰に聞いていいか、よくわからないんだ」。ドイツ代表に帯同するほどの熱心なファンでも、勝手がわかっていないようだ。
 そこへ、元代表選手で、現在ドイツ代表ゼネラル・マネージャー(GM)を務めるオリヴァー・ビアホフが現れた。ファンがわっと取り囲む。サイン攻めにあう彼に、「チケットの引き換えで、困ってるんだ」と告げると、「ちょっと待て」と同僚を探してくれた。ドイツでは、何につけ「役割分担」というのを大事にする。逆にいえば、ピンポイントで担当者にあたらないと、あちこちタライ回しされかねない。ビアホフGMの連れてきた役員は、「私は、直接の担当者ではないのだが・・・」と前置きした上で、「あなたの言い分はよくわかる。引き換え時刻についても、余裕をもたせるよう、担当者に話しておく」と約束してくれた。ひとまずほっとした。

アシスタントコーチのレーヴと筆者
04年12月

 このあと、運よくクリンスマン監督やコーチのレーヴといった首脳陣とも話をするチャンスがあり、写真も撮らせてもらった。これで気が大きくなったせいもあって、翌日は、思い切ってIホテルに泊まることにした。宿泊客になっておけば、チケットに関しても胸をはって依頼できる、と考えたのである。「なにもそこまでしなくても・・・」と、我ながら苦笑してしまうが、念には念をいれて、という思いがある。ドイツから学んだ徹底性とでも言おうか。
 こうして、ホテルの係に関係書類を預けて、翌日は無事チケット4枚を入手し、競技場に向かった。やきもきしたり、多少のすったもんだはあったにせよ、スタンドからドイツの若手の活躍やカーンの勇姿を観戦しながら、「日独サッカー自分史」に新たなひとコマが加わったという満足感があった。

 実をいえば、今回のドイツ代表・アジア遠征では、日本戦のあと、韓国(釜山)、タイ(バンコック)と転戦することになっていたため、私もいちおうすべての試合のチケットを予約しておいた。ところが、仕事の都合で現地に飛べなくなってしまい、韓国戦はパス、タイ戦はバンコック在住の友人にプレゼントして、代わりに観戦してもらった。その友人の報告によれば、「チケットの引き換え場所が、ヴァウチャーに記載してあったホテルと違っていたため混乱がおき、ドイツ人サポーターも激怒していた」とあった。友人は、英語とタイ語ができるので、そのドイツ人サポーター達の手伝いもしてあげたという。たとえヴァウチャーを取得しても、ドイツ人との交渉事では最後まで気を抜いてはいけないという教訓である。
 なお、ドイツ代表がアジア遠征を終えて帰国した直後に、スマトラ沖大地震が起こった。DFBは、すぐに2億円相当の寄付を送り、1月下旬にはドイツ代表対ブンデスリーガ外国人選抜のチャリティ試合を組んで、収益を被災者に届ける旨を発表した。こうした組織としての対応の早さは、日本のプロスポーツ界も見習うべきであろう。

 ところで、「どうして、そんなに簡単にドイツのチケットが手に入るんですか? 」と聞かれることがあるので、ここで「ドイツ代表ファンクラブ」について触れておきたい。
 ドイツ代表ファンクラブというのは、2006年W杯の気運を盛り上げようと、DFBがコカ・コーラをスポンサーにして、2003年3月から始めた企画である。年会費は、およそ3000円ほどで、約2年が過ぎた今、1万2000人を越える会員がいる。メールによる会員向けの情報提供や、懸賞による「ドイツ代表応援ツアーへの招待」等のサービスを実施しているのだが、私個人に限っていえば、ドイツ代表ゲームのチケットを優先予約できるというのが、一番の魅力である。
 DFB関係者によれば、「2006年W杯のチケットも大丈夫」とのことだが、たとえチケットが手に入るとしても、実際に仕事を休んでドイツまで行けるだろうか? 試合か・・・、仕事か・・・、それが問題だ! しかも、入手できるのはドイツ戦に限られる。それでも興味があるという方は、ホームページで情報を得られるので、試みていただきたい。

1974年W杯、開催国の西ドイツが優勝

 ドイツは、自国開催の2006年W杯には自動的に出場が決まっている。見方を変えれば、本大会に向けての準備プロセスにおいて真剣勝負の機会がほとんどないため、予選免除を否定的にとらえる関係者もいると聞く。しかしながら、2004年8月に就任したばかりのクリンスマン監督や首脳陣は、まったく意に介していないようだ。
 今回のアジア遠征でもそうだったが、ちょうどチームの新旧交代時期にあたり、メンバーを固定できないマイナス面を逆手にとって、次から次へと有望な若手を試している。選手達も、本番でのレギュラー取り目指して、気合の入ったプレーを見せてくれており、ファンもそんな代表チームを肯定的にとらえている。かくして一年半後に迫った本大会に向け、期待は高まるばかりである。

 2006年の大会は、ドイツが開催する2度目のW杯になる。最初の開催は1974年であるから、すでに30年以上の月日が流れた。アメリカとソ連を中心とする政治的な冷戦の真っ只中にあった1970年代は、ドイツそのものが東西2つに分裂しており、大会をとりまく状況も今日とはまったく異なっていた。
 現在のW杯では、32ヵ国が最終ラウンドである本大会に進むことができるようになったが、1974年当時の出場国はわずか16ヵ国であった。16ヵ国のうち、開催国の西ドイツと前回優勝国のブラジルは予選免除であったため、残りの枠は14ということになる。この当時、予選を勝ち抜いてW杯に出場することがいかに困難であったか、この数字を見ただけでもおわかりいただけることだろう。
 1974年大会の出場国を眺めると、西欧からは、西ドイツ、オランダ、イタリア、スウェーデン、スコットランドの5ヵ国。東欧からは、東ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ユーゴスラヴィアの4ヵ国。南米からは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリの4ヵ国。その他は、アフリカのザイール、北米/中米のハイチ、アジア/オセアニアのオーストラリアだ。
 ヨーロッパ予選は、現在とほぼ同じ方式で行われ、東欧諸国も西欧諸国も混在してのグループ割りが成された。上述のような大会出場国の分布を見ると、結果として、東西冷戦下のサッカー勢力図における、ある意味でのバランスが感じられる。それにしても、イングランドやフランスといった、現在強国として知られるチームでさえも敗退していることに気づくであろう。ましてや、アジアやアフリカは、全くといっていいほど重きをおかれていない時代であった。その後、大会出場国は、1978年のアルゼンチン大会まで16ヵ国のままであったが、1982年のスペイン大会から24ヵ国にまで枠が増やされ、1998年フランス大会から現行のように32ヵ国となった。

一大旋風、オランダの「トータルフットボール」

74年W杯当時キャプテンを務めた
ベッケンバウアー、03年12月

 1974年W杯における大会形式の一番の特徴は、それまでの方式を変更して、1次リーグと2次リーグが組まれたことである。出場16ヵ国を、4チームずつ1~4組に分けて1次リーグを戦い、それぞれの上位2チーム(計8チーム)が、再度4チームずつ2次リーグ(A組、B組)に割り振られた。A組とB組の1位同士が決勝戦を戦い、2位同士が3位決定戦を戦うという仕組みであった。この結果、決勝戦は西ドイツ対オランダ、3位決定戦はポーランド対ブラジルという組み合わせとなった。
 その前の1970年メキシコ大会までは、1次リーグのあと、すぐベスト8による準々決勝に突入していた。確かに、トーナメント戦なら、緊迫した一発勝負の醍醐味を味わうことができるが、真の実力を試すには、総当たりのリーグ戦のほうがしっくりする。どちらの方式にも一長一短あるものの、その後、何度かの大会での経験を踏まえ、現在では1次リーグ以降、再びトーナメント式の戦いになっているのは周知の通りである。
 現在のように32チームが出場する大規模な大会では、リーグ方式にすると、2次どころか3次リーグまで設けなくてはならず、試合数も激増するので、選手の健康管理も問題になってくるだろう。大会そのものの緊張感を保つためにも、現在の方法はそれなりに意味があると思う。

 また、1974年W杯は、プレーの上からもサッカー史上画期的な大会であった。彗星のように現れたオランダ・チームが、名手ヨハン・クライフを中心に、「トータルフットボール」と呼ばれる全員攻撃全員守備の大胆な戦法で、一大旋風を巻き起こしたのである。オランダは、アルゼンチン、ブラジルを撃破し、快調に決勝まで駒を進めたのだが、最後は、キャプテンのベッケンバウアー率いる地元西ドイツ・チームに逆転負けを喫して、念願の優勝はならなかった。それでも、当時「21世紀を先取りしたサッカー」「夢のサッカー」と呼ばれたオランダの戦法が、その後世界のサッカーに大きな影響を与えたことは特筆される。

ドイツ代表監督は、80年間で9人

 ところで、これまでに何人の人物が、歴代の(西)ドイツ代表監督を務めたのかご存じだろうか? 実は、下記の一覧表の通り、1926年に代表監督制が敷かれてから現在のクリンスマン監督に至るまで、なんとたったの9人なのである。

任期 監督名 主な戦績
1926年-1936年 オットー・ネルツ 1934W3位
1936年-1964年 ゼップ・ヘルベルガー 1954W優勝、1958W4位
1964年-1978年 ヘルムート・シェーン 1966W2位、1970W3位、1972E優勝
    1974W優勝、1976E2位
1978年-1984年 ユップ・デアヴァル 1980E優勝、1982W2位
1984年-1990年 フランツ・ベッケンバウアー 1986W2位、1990W優勝
1990年-1998年 ベルチ・フォクツ 1992E2位、1996E優勝
1998年-2000年 エーリヒ・リベック
2000年-2004年 ルディ・フェラー 2002W2位
2004年- ユルゲン・クリンスマン
(W=W杯、E=ヨーロッパ選手権)

 途中、第2次世界大戦という激動期を間にはさんでいるため、正確にいえば第2代監督ヘルベルガーの任期には短い中断があるのだが、それにしてもおよそ80年間で9人の監督というのは、サッカー界ではあまり例のないことであり、注目に値する。しかも、最初の約50年(1926-1978)を3人でまかなっているのだ。裏をかえせば、(西)ドイツ・チームが、それだけ連続して好成績をおさめていたことの証しともいえよう。日本代表監督が、ここ20年ほどで9人交代していることを思えば、その安定性がおわかりいただけよう。
 歴代ドイツ代表監督の中で、特に際立った成績を残したのが、第3代監督ヘルムート・シェーンである。1974年のW杯で、西ドイツがオランダを下して優勝を飾ったのも、シェーン監督の時であった。では、そのシェーン監督とはどんな人間だったのか。また、彼の生きてきた波乱時代のドイツサッカーとは。次回は、ドイツ黄金時代を築いたシェーン監督とその時代について筆をすすめたい。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

DFB (ドイツサッカー連盟)

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