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SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第3回 ベルリンでの「ドイツ対ブラジル戦」

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

ブラジル応援団

 2004年9月8日水曜日。初秋のベルリンは、いつにもましてにぎわっていた。東西ドイツが再統一を果たしてからすでに十数年、ベルリンは新生ドイツの首都として生まれ変わり、新たな歩みを始めている。一年中活気にあふれているこの大都会に、この日はまた独特の熱気が加わっていた。ドイツとブラジル、自他ともに認めるサッカー大国同士が、ここベルリンで激突するのだ。
 ドイツはいかにも地方分権の国らしく、国際試合のたびに主催都市を変えるのが恒例になっており、一国の首都とはいえ、このベルリンで代表ゲームが行われるのは久しぶりとのことであった。そのためか、夜のキックオフをまちきれないファンが、明るいうちからドイツ、ブラジルそれぞれのユニフォーム姿で繁華街を闊歩している。
 試合開始の3時間ほど前、以前ドイツ代表の宿舎となっていたホテルを訪ねてみた。残念ながら、お目当てのドイツ代表は今回他のホテルに宿泊していることが分かり、当てがはずれた形となってしまったが、ロビーで珍しい人達に会うことができた。元ブラジル代表の面々だ。Jリーグでもおなじみの元鹿島アントラーズのジョルジーニョがいる。私が茨城県鹿嶋市に近い千葉県銚子市の出身であることを告げると、ジョルジーニョは満面の笑みを浮かべ、周囲にいた御家族に「お~い、この人鹿嶋の近くに住んでいるんだって!」と声をかけた。かつてFCバイエルン・ミュンヘンでもプレーしていた彼は、ドイツ語も達者である。「鹿嶋は、僕の心だよ」とも語ってくれた。そこに、こちらも日本でおなじみのビスマルクがフラッと現れた。

元Jリーガー、ビスマルク選手と筆者

「こんにちは、ビスマルクさん。お元気ですか?」
「あれ、なんで日本の人がこんなところにいるの?僕は元気だよ。今、リオデジャネイロにいるんだ」
「今日のゲームの予想は?」
「う~ん。ブラジルは良い選手が出るから強いけど、今日はドイツの地元だから、勝つのは難しいと思う。僕の予想では1対1の引き分けだな」
 他愛のない会話をしながら、思いがけず楽しいひとときを過ごして、いよいよ駅に向かい、電車に乗り込んだ。プラットホームには、重装備の警官の姿があちこちに見られる。女性警官も多い。男性も女性もみんな立派な体格をしており、これならいざというときでも頼もしい存在だ。
 スタジアム行きのぎゅう詰めの車内では、家族連れのこんな会話が聞こえてきた。
「この混雑ぶりは、テレビで見たトーキョーの地下鉄みたいだな!」
「あれはホンコンじゃなかったか?」
「トーキョーはホンコンの首都だろう?」
 一般のドイツ人にとって、日本はいまだに遠いアジアの国なのである。とはいえ、我々日本人でも、どれだけの人が欧州各国の首都であるベルリン、ウィーン、ローマ等の位置を正確に知っているだろうか。
 途中駅に停車するたびに、わずかの人が降り、それ以上の数のサッカーファンが乗り込んでくる。彼らの多くは、ドイツ代表の白いレプリカユニフォームを着て、黒・赤・金色のドイツ国旗をもち、さらにその三色をあしらった帽子やマフラーを身につけている。もっとも染色技術の関係か、金色は黄色で表されるため、日本では黒・赤・黄をドイツ国旗の色と勘違いしている人もきっといることであろう。
 すでに乗車前から、ビールを片手にかなり出来上がっているサポーターも多く、ただでさえ息苦しい車内に、アルコールの匂いが充満してくる。ひとりが気勢をあげると、それに和して「ドイチュラント!ドイチュラント!」の大合唱になる。たまにブラジルのカナリア色のユニフォームが乗り込んでくると、周囲からからかいのブーイングが起こり、当事者はやり返すか、苦笑するしかない。国際試合では見慣れた光景だ。

ドイツ応援グッズ

 最寄り駅「オリンピックスタジアム(Olympia Stadion)」で降りると、そこからスタジアム入場口まで、応援グッズの露店や飲食物の売店がズラリと並び、まるで日本の田舎の夏祭りのような雰囲気である。ソーセージやビールを売るスタンド前には長い列ができ、みんな自分の番のくるのをじっと待っている。いつもながらソーセージを焼く匂いの誘惑には勝てず、私も列に加わった。
 以前のドイツでは、ソーセージにはゼンフ(Senf、カラシ)をつけて食べるのが普通であったが、食生活の変化か、最近ではケチャップをつける人も増えている。私のドイツ人の親友など、いつも「ソーセージにケチャップ?あれは邪道だ!」と怒っている。「アメリカの影響さ」と苦々しく語る人もいる。人それぞれの好みでいいと思うが、私は断然「カラシ派」である。30センチもあろうかと思えるほどの長いソーセージをパンではさみ、カラシをたっぷりつけて、熱々のところをフーフーいいながら食べる味は格別である。特に冬場など、股引き、襟巻き、毛糸の帽子、セーターに厚手のコートという完全防備のいでたちでさえ寒さが骨身にしみるような氷点下の観戦では、この味がこたえられない。
 また、「パンではさむ」とひとくちに言っても、日本で想像するような食パンやコッペパンとはまったく異なる。ドイツ人は、日本で普通に見られる食パンを苦手とするようで、かなりの日本通の人でも、「やわらかすぎて、なんだかゴムを噛んでいるようだ」という感想を述べる人が多い。ドイツのソーセージについてくる小型パンを、日本にあるパンのイメージで伝えれば、大きさや形はアンパンで、生地や食感は焼き立てのフランスパンといったところであろうか。
 腹ごしらえをして、人の流れに沿って歩くと、スタジアムはもう目の前である。

オリンピックスタジアムに刻まれた歴史

ベルリン・オリンピックスタジアム

 1936年のベルリンオリンピックのために造られたこのスタジアムは、町の中心部から西に向かった郊外にある。ドイツが東西に分かれていた時代でも、ここは西ベルリンに位置していたため、西ドイツ代表の国際試合やブンデスリーガのゲームに使用されていた。かなり老朽化が進んで問題になっていたのだが、2006年サッカーワールドカップ(W杯)開催決定を機に、このたび全面改修され、こぎれいになった。
 ヒトラーとナチスのオリンピックといわれたベルリンオリンピックは、陸上長距離の村社講平、跳躍の田島直人、原田正夫、棒高跳びの西田修平、大江季雄、水泳の前畑秀子・・・といった、今なお語り継がれている日本人選手の活躍により、我が国でもおなじみの大会である。また、朝鮮半島から参加し、マラソンで1位と3位になった孫基禎、南昇竜両選手の名も逸するわけにはいかない。胸に日の丸をつけて走った彼らの思いはいかばかりであったろう。
 女流監督レニ・リーフェンシュタールの手によるこの大会の記録映画「民族の祭典」「美の祭典」(原名:Olympia)は、戦前の日本でも大評判となった。リーフェンシュタールは、ナチスやヒトラーとの関係をめぐり、戦後、毀誉褒貶の多かった人物であるが、映画監督としての力量は、この作品で証明されているといってもよいであろう。ベルリンオリンピックは、オリンピック史のなかでもエポックメーキングな大会であり、その手の歴史に興味をもつ人には必見の映画である。
 もう26年も前になるが、学生時代に留学したボーフム市のルール大学で、この記録映画を題材にした授業があり、私も、同じ学生寮に住む体育学科の友人に誘われて見に行った記憶がある。ヒトラーが「世界中の若人を招く」と刻ませた大きな鐘が画面に登場し、その鐘がボーフム市で鋳造されたことを知って、よけいに興味をそそられたことを思い出す。つい最近まで、その鐘はスタジアム脇に飾られていたのだが、改修工事の後、どうなったであろうか。
 ちなみにベルリンオリンピックは、日本が初めてサッカーの代表を送った大会でもある。当時のサッカー競技は、一発勝負の勝ち抜きトーナメント方式であった。1回戦で優勝候補のスウェーデンとあたった日本代表は、0:2の劣勢から逆転し、3:2で勝利をおさめ世界中の注目を浴びた。はるか昔、日本サッカーの「世界デビュー戦」が、ベルリンオリンピックだったというわけだ。
 また、優勝が期待された地元ドイツは、2回戦でノルウェーに痛い敗戦を喫し、メダルの夢が消えた。このゲームを観戦したヒトラーは、落胆か憤りかは分らぬが、その後二度とサッカーを見ることはなかったといわれている。
 さまざまなエピソードを生んだベルリンオリンピックから、すでに70年近い時が流れた。レニ・リーフェンシュタールも2003年9月にこの世を去り、またひとつ時代が動いたことを実感する。戦争、分断、再統一。激動の歴史を体験してきたベルリンとそのオリンピックスタジアムは、今、2年後のW杯での戦いを静かに待っている。

対ブラジル戦3勝11敗5引き分け

 ドイツはブラジルに対して分が悪い。これまで18戦して、ドイツの3勝11敗4引き分けである。最も近い対戦は、ご存知2002年W杯決勝で、これもブラジルが2:0でドイツをくだした。マスコミは、「今回はその雪辱戦」と騒ぎ立てていたが、親善試合ということもあってか、選手達はさほど意に介してはいなかったようだ。それでも、サッカー大国同士の対決ということでチケットは完売し、7万余の大観衆のボルテージもかなり上がっていた。

ブラジル応援団

 試合前から、スタジアム周辺では、ブラジル応援団がおなじみのサンバのリズムで気勢を上げる。リオのカーニバルのような派手なコスチュームで練り歩く一団は、ハーフタイムのアトラクションに参加する人達であろう。「ブラージル!ブラージル!」の声援が響く。ドイツ側も、盛んに「ドイチュラント!ドイチュラント!」と応戦する。
 いよいよキックオフ。開始早々、ブラジルがフリーキックのチャンスを得た。キッカーはロナウジーニョ。ボールは、ドイツ選手の作るカベの上をフワリと越え、そのままゴールに飛び込んだ。さすがのゴールキーパー、カーンが、意表をつかれて一歩も動けないほどの芸術的な「技ありシュート」であった。ブラジル先制。
 地元の大声援を受けたドイツも負けてはいない。前半のうちに新生フォワード、クラニュイのゴールで同点に追いついた。クラニュイは、ブラジルで生まれたという異色選手で、再来年のW杯に向けてドイツ期待のひとりである。
 その後、試合は熱のこもった一進一退の攻防が続いた。ブラジルのスター選手ロナウドやロベルト・カルロスのスピードにのった縦への突破は、さすがに迫力十分で見ごたえがある。とはいえ、カーンとドイツ守備陣も健闘して良く防いでいる。こうしてあっという間に90分が過ぎ、けっきょく1:1で引き分けた。
「ビスマルクさんの予想が当たった!」・・・対戦成績は、ドイツの3勝11敗5引き分けとなった。

専門誌と現地新聞を駆使して

 私は、昨年度の1年間(2003年4月~2004年3月)、勤務先の駿河台大学から「在外研究」という制度により、ドイツのミュンヘンに暮らす機会を得た。現地では、ミュンヘン大学の好意で「客員研究員」という肩書をもらい、自由に授業に参加したり、施設を使わせていただいた。多くの貴重な体験をすることができ、職場とミュンヘン大学には大いに感謝している。ドイツの大学は、基本的には月曜から金曜までであり、週末はまったくの自由時間ということになるため、1年間の留学中、この週末をおおいに活用し、サッカー観戦に出かけた。ドイツ国内だけでなく、時によって西はスペインのマドリッド、北はスコットランドのグラスゴー、果てはアイスランドのレイキャビクにまで足を伸ばしたこともある。まさに欧州サッカー観戦三昧の日々であった。
 最近では、日本でも熱狂的なサッカーファンが増え、夏休みや連休を利用して本場ヨーロッパまでゲーム観戦に訪れる人もますます多くなっていると聞く。当然、ビッグゲームには日本からの観戦ツアーが組まれることも珍しくはないであろうが、個人旅行のついでにサッカーも見ておきたいという方々や、いつかヨーロッパのサッカーを生で観戦したいと考えている方々に、私なりの経験から、この場をかりて情報を提供してみたい。

ミュンヘン1860サポーター

 実際にゲームを観戦しようという場合、一番大切なことは事前の情報収集である。いつ、どこで、なんというチームがなんというチームと対戦するのか・・・この情報をキャッチしておかなくてはその先が見えてこない。さらに、もしお目当てのゲームがなんらかの事情で観戦できなくなった場合に備え、2次希望、3次希望も考慮しておくのが望ましい。
 このような情報を日本で集めるには、やはりなんといってもサッカー専門誌が一番役に立つ。特にシーズン開幕に先立って、欧州各国リーグの日程が掲載された号はとても便利で、私も大いに活用させてもらっている。ちなみに、サッカー専門雑誌が月刊であった私の高校時代など、世界サッカーの最新情報がなかなか入手できず、はがゆい思いをした記憶があり、あの頃を思うと今は隔世の感がある。さすがに英字新聞のジャパンタイムズ紙は、当時から欧州の各国リーグ戦結果を迅速に報道しており、学生時代の一時期、英語の勉強も兼ねてジャパンタイムズを読んでは(見ては?)、ひいきチームの結果に一喜一憂したものである。
 それはともかくとして、こうして得られた日本での情報は、必ず現地で確認しなくてはならない。というのも、シーズンが進むにつれ、開幕当初の日程との間にズレが出てくる場合がほとんどだからである。例えば、当初土曜日に予定されていたものが、日曜日にズレこんだり、前日の金曜日に回ったりするのは日常茶飯事である。翌日になった場合はそれなりに対処できるが、前日では取り返しがつかない。
 一番的確な確認方法は、もちろんクラブに直接問い合わせることであるが、外国では言葉の問題もあって、そうそう簡単ではない。そこで手軽なのは、やはり当地の新聞に頼ることである。私の場合、イングランド情報はThe Independent(インディペンデント紙)、イタリア情報は La Gazzetta dello Sport(ガゼッタ デッロ スポルト紙)、スペイン情報はMarca(マルカ紙)と決めて活用していた。またThe Times(タイムズ紙)の出しているシーズン開幕時の特別付録には、イングランドの上位から下位リーグまで1シーズンすべての日程が掲載されており、計画を立てる際にとても便利であった。そのほかでは、せっかく外国に行くのだから現地のサッカー専門誌にも目を通しておきたいものである。
 ドイツに限っていえば、第2次世界大戦前からの伝統を誇るスポーツ専門誌 Kicker(キッカー)が有名で、全国どこの売店でも入手できる。毎週月曜日と木曜日の発行で、ブンデスリーガ1部のチームを中心に、個々のクラブの最新ニュースが満載されており、細かな情報チェックには欠かせない。
 ドイツではこのほかに、これも週刊の Sport Bild(シュポルト・ビルト)誌が、特別インタビュー記事等を掲げて人気がある。欧州の主要リーグの情報も掲載されているので、2ヵ国以上を旅して回る際のスケジュール確認にはもってこいであろう。たとえドイツ語が読めなくても、チーム名や対戦相手、試合の場所や日時等は、容易に見当がつくものである。
 こうしておおまかな日程が決まったら、次の課題はチケットの入手だ。経験に従えば、「ダービーマッチ」と呼ばれる同じ町のチーム同士の対戦や、シーズン終盤の優勝のかかった試合、あるいはよほどのビッグゲームでないかぎり、当日でもまず切符は手に入るので、試合日に早めに現場に到着することをおすすめする。昨年4月、私はチケット手配もせずに、2日間で3試合を観戦したことがある。そのエピソードを紹介しておこう。

国境を越えて、2日で3試合を観戦!

 ミュンヘン滞在が始まって2週目のこと。ミュンヘン中央駅のキオスクで、偶然イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ デッロ スポルト」を見つけた。ピンク色の新聞と言えば、見覚えのある方もいるだろう。もちろん私はイタリア語などできないのだが、曜日と数字くらいは察しがつく。その週末の試合日程が載っていた。

4月27日(日)ユベントス対ブレシア(トリノ15時開始)
4月27日(日)インテル対ラツィオ (ミラノ20時開始)

 ドキッとした。トリノとミラノは、列車で1時間40~50分の距離にある。ミュンヘンからミラノ経由でトリノへ向かい、そこでデーゲームを見て、そのあとミラノに戻ってくれば、ナイトゲームに間に合うかもしれない。こうして作戦を練った。
 先ず4月26日土曜日、ミュンヘン・オリンピックスタジアムで、ミュンヘン1860対ボルシア・ドルトムントのゲーム(15時半キックオフ)を観戦した。
 1972年のミュンヘンオリンピックに際して建造されたオリンピックスタジアムは、ミュンヘン市のヘソともいえるマリーエン広場から地下鉄3番線(U3)に乗って、15~20分ほどの距離である。終点のオリンピックセンター駅(Olympiazentrum)で下車し、そこから徒歩でさらに10分ほど。スタジアムに向かう道の両側にある植え込みの木々の中に、何本かの桜が混じっている。4月上旬はまだ寒々しかったその桜も、5月が近づくにつれ、だいぶ花をつけてきている。
 試合後、市内で夕食をすませてからミュンヘン中央駅に向かい、ミラノ行きの夜行列車に乗り込んだ。ヨーロッパの寝台車には、6人一部屋の簡易寝台車から、1人部屋、2人部屋等さまざまのものがある。区間によっては、シングルの1人部屋にシャワーやトイレまで付いている豪華なものもあり、鉄道好きにはたまらない魅力であろう。
 1人部屋をとった私の隣室には、イタリア旅行にでも行くのであろうか、年配のドイツ人夫婦が乗ってきた。同じ車両の少し先にイタリア人の家族連れが見え、子供達のはしゃぐ声が聞こえる。ひとつひとつの部屋を、女性の車掌さんが回り始めた。
「切符とパスポートを預からせていただきます」
 学生時代に始めてヨーロッパの国際夜行寝台車に乗った時に、やはりいきなりこう言われて面食らった覚えがある。「知らない人にパスポートを預けてしまって大丈夫なのだろうか?」。もちろんこれは、夜中に国境を越えるため、そのつど乗客を起こさなくてもいいようにとの配慮からである。
 起床と朝食の時間を車掌さんと打ち合わせ、部屋のカギをかけると、あとはひとりきりの空間である。気がつくと、いつのまにか発車していた。
 列車は闇の中を走っていく。かつてワイマールでの生活に疲れた大文豪ゲーテが、憧れのイタリア目指して何日も馬車を走らせたヨーロッパアルプスの山間を、今は線路や高速道路が走りぬけ、短時間のうちに北と南を結んでしまう。外は真っ暗だが、田舎の小さな駅を通過するたびに、ブラインドをおろした窓の隙間から灯りがさしこむ。レールのつなぎ目からひびくコトンコトンというリズミカルな音と、心地よい列車の揺れに、いつしかまどろみ、寝入ってしまった。

 こうして、11時間かかってミラノ駅に到着した。人々の表情がゲルマン系からラテン系に変わっている。さっそく電話で予約しておいた駅前のホテルにまずカバンを預け、踵を返してトリノに向かった。この日はミラノに戻っての投宿となり、時間にも余裕はあったので、少しでも身軽になっておこうと思ったからだ。
 トリノのデル・アルピ競技場。当日売りの大行列に並んでいると、ダフ屋とおぼしき人物が列に割り込んできた。切符売り場の窓口に首をつっこんで何か話している、と思いきや中の係員からチケットの束を受け取っている。公認ダフ屋?・・・イタリアらしいといえばイタリアらしい光景だ。聞くところによると、列に並ぶ手間を省くため、ほんの少しだけ高くても買ってしまう人が多いという。だとすれば、薄利多売のダフ屋である。
 それはともかく、快晴の青空の下、しっかりと並んで順番を待ち、正規にチケットを入手した。それにしても暑い。4月のイタリアは藤の花が咲き、すでに初夏のムードだ。北の桜に、南の藤。アルプスを越えて南下するだけで、こんなにも気候が異なるとは。古来、ドイツ人が「南の国イタリア」に憧れる気持ちもわかるような気がする。
 いよいよメンバー発表。ユベントスにはデル・ピエロ、ブレシアにはロベルト・バッジオという当代のイタリアサッカーを代表するスターがいる。
 試合は、終了間際にデル・ピエロの通算100得点が決まり、ユベントスの勝利に終わったのだが、実は私はこのゴールは見ていない。というのもミラノへの列車の発車時刻を考慮して、後半終了10分前には移動を開始してしまったからだ。競技場の外に出たとたん大歓声が聞こえたが、後の祭りであった。
 ミラノに向かう車中には、多くの日本人サッカーファンがいた。せっかくヨーロッパにいるのだから、1試合でも多く見ておきたい。誰しも考えは同じらしい。しかし、やはりここはイタリア。案の定、列車が遅れる・・・。けっきょく、ミラノのサン・シーロスタジアムに着いた時は、キックオフ寸前であった。
 チケット売り場はすでに閑散としていた。いきなりワッと5、6人に取り囲まれる。「チケットあるよ。チケットあるよ。」・・・そりゃ、あるだろう。それが、あなたたちのご商売なのだから、と苦笑いする。しつこく群がる彼らを制して、窓口で正規に入手する。巨大なサン・シーロスタジアムの一番上方部にあたる席であったが、かえって全体が見渡せて、流れがよく分かった。主審が、2002年W杯決勝の笛を吹いたコッリーナ氏であったことも、ひとつ思い出を深めてくれた。
 このようにドイツのミュンヘンとイタリアのトリノ、ミラノをはしごして、2日間で3試合のサッカー観戦をしたわけだが、いずれもチケット予約はせず、行き当たりばったりでどうにかなってしまったというお話である。

 もうひとつ、こちらはどうにもならなかったエピソードもお伝えしておこう。
 2003年11月、ヨーロッパチャンピオンズリーグベスト16の組み合わせ抽選会が行われた。この抽選の結果、最大の注目を集めたのがFCバイエルン対レアル・マドリッドというファン垂涎のカードである。
 ミュンヘン在住の私は、当然のようにFCバイエルンのクラブハウスに駆けつけ、チケットを狙う。顔なじみの窓口のおネエさんが愛想よく応対してくれた。
「いちおう受付はしますが、希望者が多数の場合には会員優先販売となりますので、ご了承くださいね」
 期待して待つこと2カ月。届いたのは、断りの手紙であった。「希望者が多くて、御期待に添えず・・・」
 新聞報道によれば、ミュンヘン・オリンピックスタジアム5万8000席のキャパシティに対し、なんと30万件の申し込みがあったという。あまりの人気チーム、人気カードでは、前売りチケット入手も厳しいというお話である。
 さて、今年の12月16日、横浜での日本対ドイツのチケットは、果たしてどうなるであろうか・・・?

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

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