風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series コラム
明日吹く風は 
11/05/19

第20回 牡鹿半島から飯舘村まで

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 仮設住宅のめどがまったくたっていないという牡鹿半島の小さな集落はどうなっているのだろう。原発周辺のまちで、きれいな波の立つ太平洋岸のまちや、家も生活手段も捨てて避難しなくてはいけない山間部の村はどうなるのか。
 そんな思いを抱えて、先日宮城県の牡鹿半島から福島県にかけて車でまわった。都心を出発してところどころ段差が地震の"後遺症"として残る東北自動車道を約5時間、宮城県の石巻市に入る。高速を下り海に近くなると、道の両側は原型をとどめている建物がまばらで、その他はがれきのままかあるいは、もうすでに片付けられ荒々しい更地になっていた。

牡鹿半島の給分浜地区

 この災害で、存続が不可能になったという学校の校舎が痛々しいコンクリートの姿をさらしている。さらに進み住宅地に入ると、震災2ヵ月目にしてようやく車が通れるくらいになっているが、家々の瓦礫はそのまま放置されている。少し幹線道路からはずれると行政もまだここまで手が回らないようだ。
 市内からさらに1時間余して牡鹿半島に入ると、手つかずの状態はさらにひどくなる。点在している小さな集落へは重機も入りにくいだろう。もちろん、仮設住宅などをまとまって建てる用地はない。しかし、漁業で生計を立てる人たちが多く、現場を離れることはできず、被災した人たちは同じ集落の人と納屋などを借りたり、自分で小屋を建てて生活をしている。私が訪れた給分浜というところでは、電気はきているが水道は復旧してなく、山の沢からの水を集めて使っている。

仮設住宅の代わりにトレーラーハウスを

 牡鹿半島では全体で少なくとも1000戸くらいは必要だというのに、建設が決まっているものが100にも満たないようだ。ここにいわゆるプレハブの仮設住宅の代わりにトレーラーハウスが設置できるかどうかの調査もあって、専門家とともにこの地に来てみた。
 結論から言えば、半島までの道路は走行上問題はなく、使われていない浄化槽を復活させれば下水処理は可能で、浄水は、沢からの水が大きなパイプでふんだんに引き込まれていてこれもなんとかなりそうだった。
 トレーラーハウスを扱っている会社がつくる「社団法人日本トレーラーハウス協会」(東京台東区)によれば、アメリカからの輸入は1ヵ月後には100台単位で可能だという。大手ゼネコンなどが仕切る既存の仮設住宅の形にこだわるがゆえに、住宅の供給が遅れるのであれば一刻も早く検討すべき課題だろう。
 トレーラーハウスは、いわば「台車のついた居住施設」で、車に牽引させて移動できるもので、アメリカでは一般的な一つの住まいの形だ。阪神大震災のときも導入すべきだという声が出たが、ほとんど利用されなかった。一つのところで役割を終えたら、別のところに移動させて利用できるという利点がある。

アメリカ製のトレーラーハウス

 通常は一定の場所にプールして臨時の宿泊施設として使って、災害時には移動させて利用できるとも考えられる。しかし、利用が進まないのは、日本では車なのか住宅なのかといった区別ができず、法的にトレーラーハウスそのものを扱い慣れていないことがなにごとも「前例のないことを嫌う」行政にアピールしないからかと推測できる。
 建築家などの間では、震災をうけて日本でトレーラーハウスを製作しようという動きもある。日本的な居住空間でトレーラーハウスのように移動でき、さらに当初の使用目的を終えたら、住宅として設置し直すことができるというアイデアだ。

原発事故のせいで海までもが……

JR東日本常磐線坂元駅

 牡鹿半島で半日過ごした後、この日は仙台に宿泊したが、ようやく市内のホテルに一室空室を探すことができたほどの混雑ぶりだった。業者関係の人たちが長期逗留していたようだが、とくに、被災した家屋や自動車の保険の支払いや解約にあたっての膨大な事務処理をこなすため、損保会社が全国から応援人員を東北地方に送っていたようだった。
 翌日、仙台市内から海へ向かい、海岸線を走る有料道路にのりそのままつづく常磐道を南下した。海に向かって広がる水田地帯はテレビで見たように、もはや耕作不能と遠くからでもわかるほど、荒れていた。こうした光景が延々とつづく。常磐道から一般国道6号に下りてさらに南下する。
 地元の人の姿はあまり見られず、コンビニは工事関係の人たちと思われる人たちと、ときおり若いカップルを見かけるだけだ。海岸近くを走る常磐線の軌道は寸断され、坂元というようやく名前だけがわかる駅では、駅舎は消えコンクリートのホームと階段が一部宙に浮くような形で残っていた。
 視察にきていたJR東日本の職員たちも、唖然とした様子だった。この線路にそって津波にあらわれた平地を少し走ると、海沿いの場所にモダンなコンクリート3階建ての小学校校舎があった。宮城県亘理郡山元町の町立中浜小学校だ。周辺を警備する消防関係者によると、津波が襲ってきたとき学校の児童たちは、建物の上に逃げ込み間一髪で助かったという。

津波への抵抗を少なくしていた中浜小学校

 あとで知ったのだが、この校舎は、リゾートホテルが"オーシャンビュー"のために海岸線に沿って細長く建物を建てるのとはちがって、津波への抵抗を考えて、海に面する部分は幅を狭くした細長い形で、窓も広くとって海水が抜けるような設計にしてあったことも幸いしたらしい。また津波の時は、校長のとっさの判断で児童は屋上に避難し建物の中で難を逃れたのだった。

 相馬市まで南下すると、住民の姿はほとんど見られなかったが、若くこざっぱりした男たちが国道沿いに立っている。どことなく私服の警察官らしい。ちょうどこのころ天皇陛下夫妻が被災地のお見舞いに来られていたのを知り納得した。

立ち入りを禁止する警戒区域との境界

 国道沿いの「道の駅 そうま」に寄って休憩し、そのままさらに進んで南相馬の「道の駅」でも車を止めたが、そこはもはや休業中だった。駐車場には自衛隊の車が止まり、放射線の防護服に着替えている隊員がいた。これからおそらく原発の20キロ圏内に向かうのだろう。
 ひとり警察官が休憩でタバコを吸っている。聞けば、徳島県警に所属しているという。彼もまた20キロ圏内外で勤務にあたっている。そのほか出会った人は、二組の喪服の人たちだった。被害に遭われた方と関係があるのかもしれない。
 小雨がぱらつくなか、一人の婦人が傘をさして柴犬をつれて歩いている。マスクをして帽子をかぶった初老の女性は、この近くに自宅があるという。
「一度は東京の避難所に行っていたんですけれど、やっぱり自宅がいいから、帰ってきました」

南相馬の砂浜と波

 さらに国道を原発から20キロ圏内となる警戒区域ぎりぎりまで進むと、国道の両側のレストランや車のディラーなど、ほとんど店は休業のようでひっそりしている。コンビニだけが2軒営業を続けていた。仕事でここへ来ている人にとってはありがたいことだ。
「立ち入り禁止」を示す電光掲示板の少し手前で車をUターンさせようとおもったところ、左手の駐車場の奥にあるモニュメントが目に入った。
「サーフィンの街 ようこそ 南相馬市」とある。このあたりの海はサーフィンの世界でいうところのいい波が立つ。津波のせいで多くの犠牲者を出したあとで「波に乗る」という遊びは全国的に憚られた。しかし、原発事故のせいで海との親しみも奪われたことを思うとしっくりこない。
 どんな波の海なのか。国道から海岸をめざし、かろうじて走行できる道をたどって進み海沿いへ出た。テトラポッドがところどころ邪魔をしているが、この日は初級者向きの腰ほどの波が、ほとんど風のないなかで静かに割れていた。もし、なにもなければきっとサーファーたちがウェットスーツに身を包んで波と戯れていたかも知れない。そう思うと、放射線に対する怒りがこみ上げてくる。

村を捨てさせることの無残さ

南相馬市で営業を続けるパン屋

 海を離れ、次に向かったのが飯舘村だ。途中、ほとんどの店が閉まっているなかで1軒のパン屋の明かりがついている。「頑張ろう 南相馬市」と貼り紙がしてある。一度は通り過ぎたものの、気になって戻りパンを一つ買った。するとコーヒーともう一つパンがサービスでついてくる。どこかからの支援で届けられた材料でつくられたからサービスなのである。
 店員はアルバイトの女子高校生が一人。学校は警戒区域のなかにあっていまは使えず、圏外の別の学校に間借りして、いまはそこに通っているという。
「友だちのなかには東京に引っ越してしまった人もいます」と、制服の上にエプロンを掛けて話す。
 飯舘村では、酪農家の長谷川健一さんを訪ねるのが目的だった。乳牛を飼育している長谷川さんは、村が放射能で汚染されてから毎日搾乳する牛乳を捨てるしかなかった。また、成牛の移動も禁止されているという。「こんな理不尽なことはあるか」と憤っていた姿をテレビで見て、ぜひ話を伺いたいと思っていた。
 幹線道路からはずれ、道に迷ったためたまたま出合わせた地元の商店で道を尋ねた。こころよく地図まで書いてくれた年配の婦人に、計画的避難区域に指定されたことによる避難について聞いてみた。
「もう、店を閉めなければならないですから、商品も残しておいてもしょうがないし、整理しているとこです。息子が勤めていた地元のコンビニも閉まってしまうし……。これまで子どもや孫と暮らしていたのが、先に子どもたちは避難したので、いまは二人だけ。孫とも会えなくなってしまったし、放射能があるからこちらに来ちゃだめだって言われて、ほんとうに悲しい」

飯舘村の地酒

 途方に暮れるこの婦人の話から、飯舘村の住民が農業を基盤に暮らしているのがわかった。酪農、米作、そしてトルコキキョウなど花の栽培も盛んだという。「いい地酒もあるのよ」といって、奥の商品棚に並ぶ本醸造「おこし酒」、純米大吟醸「飯舘」を見せてくれた。
 せっかくなので、1本ずつ購入し、箱に詰めてもらった。外は小雨がぱらついている。少しかすんだ夕暮れの静かな山間に、しっとりとした緑が広がっている。こうした光景も田園のなかの家々も、さらにその下で営まれてきたささやかな暮らしも、すべてが放射能によって傷つけられてしまった。
 見たところ、穏やかな暮らしは、原発事故前と何もかわりはない。だが、もうすぐ村民はすべてここを離れなくてはいけない。こうした形での地域の喪失は日本の歴史上はじめてだろう。無残であり、やはりここでも怒りがこみ上げてくる。

35年の酪農人生を一瞬にして奪われ

 この怒り、やり場のない怒りを地元の人は計り知れないほど抱えている。日も落ちたころ到着した牛舎のちかくの事務所で、酪農家の長谷川さんは現状を「出口のないトンネルのなかにいて、後ろの扉を閉められて、手探りで歩いている。明かりをつけてほしい」と、憤怒まじりに言う。
 長谷川さんによれば、飼っている乳牛のうち、育成牛(初回の妊娠までの牛)はすでに村外に移動させた。しかし、妊娠している牛を含めて成牛は、計画避難区域に指定されたので移動させられないことになった。厚労省の決定だという。

移動を禁じられやせ細った牛と長谷川さん

 しぼった牛乳については、サンプリングして検査をした結果、放射性物質は基準値より下回っているが出荷はできない。いまはただ搾乳をして捨てるだけで、エサ代を節約するなかで牛はやせ細る。結果として肉にするため処分するしかない。
 だが、長谷川さんは納得がいかない。さらにサンプリングをして放射性物質の値が基準値を下回るのなら、牛の移動を求めて厚労省に談判する覚悟だ。「妊娠牛だけでも、引き取り手があれば移動できるんだ」と声を高くする。
 長谷川さんは35年前から酪農をはじめ、徐々に牛を増やして現在50頭を飼育している。6年前には長男もそれまでの仕事をやめて酪農を手伝いはじめた。結婚し子どもをもうけ、家族一丸となって酪農に精を出してきた。これからさらに充実させていこうというさなかの悪夢といっていい。
 福島県酪農業協同組合の理事でもある長谷川さんは、4月末、村内の11の酪農家を集めて話し合い、全員で休業することを決めた。これからそれぞれ別の仕事を探さなくてはいけない。さらにこれだけの被害が出ながら、まだはっきりした補償の話はでていない。
 いったん事故がおきれば、とてつもない被害が出る。放射能とはそういうものだという、正しい恐れという認識が果たして原発推進者側にあったのか。大いなる疑問が村の実態を知るにつけ湧いてくる。
 暗いなか、最後に牛舎に案内してもらった。並んでいる牛の背中から尻尾にかけて骨が浮き出ていた。それでも乳を出す。「必死に乳を出す牛ほどやせていくんです」と教えられた。すでに3頭を肉として出した。
「大型トラックで積まれていく牛の姿を見たときは、家族みんなで泣いたよ。見てらんなかったよ」
 終始怒りに満ちていた長谷川さんの力強い声がこのときは湿り気を帯びた。

参考:
南相馬市サーフツーリズムについて
飯舘村 

BACK NUMBER
 
PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて