風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
11/03/31

第19回 震災発生から現場へ

33年前に泊った宿は孤立状態に

 野田村をあとにして、ふたたび国道45号を南下してしばらくすると、国民宿舎えぼし荘が高台に見えた。どうやら避難所になっているようだったが、こうした宿泊施設への避難は、学校の体育館などと比べると当然居住性という点で恵まれている。
 副支配人によると、津波の直前は、海岸近くにある烏帽子岩という三角形の岩の底が現れるくらい海面が下がり、そのあと渦になって波が、2、3度やってきたという。よその場所でも聞いたことだが、津波の前はぐっと海面が下がり潮が引く。その具合で事の重大性をこれまで判断してきた。
 さらに南へ行き、国道をはずれ、普代村にある国民宿舎くろさき荘を目指した。切り立った断崖がつづく景勝地、北山崎の近くにぽつんとたつ孤立した宿に、私は33年前のこの季節に宿泊したことがある。当時、宿泊客は少なくたまたま同宿した岩手県の職員の方二人に誘われ膳をともにして酒をごちそうになったといういい思い出があった。
 普代村の小さな漁港は被害を受けていたが、その背後にある見上げるような防波堤のおかげで、波は川を遡らず被害は最小限に食い止められたとあとで聞いた。周りを囲まれた小さな港に波が襲ってきたと思うと、車で走っていても居心地が悪い。
 電話の通じないくろさき荘を直接訪ねると、通信関係の工事関係者も宿泊していて、なんとか営業はしているという。地震発生後、電気も通信も途絶えて宿泊客がいるなかで、いっさいの情報は途絶え、いったい何が起きているのかわからないという孤立状態にあったそうだ。
 この先南に行くとおそらく宿泊するところはない。懐かしさもありこの日の宿をここと決めて、再び国道を戻り宮古の田老地区をめざした。譜代村から田野畑村へ入ると、ここは牛乳が特産らしく、田野畑牛乳ラーメンなるものを売り物にした店がある。営業しているようでこの先のことを考え、このラーメンを食べる。塩、コショウもきいていてお世辞抜きに美味しい。

10メートルの防潮堤を超えて

 すれ違う車にも自衛隊の車両が目立つ。坂を下って田老地区が見えてきた。一瞬息をのむ。国道の両脇に上から見ると粉々になったまちが広がっている。ローソンの看板だ。しかしとなりの建物はぺしゃんこになっている。ここで働いていたい人やお客はどうしただろうか。すでに両脇に瓦礫がつまれている。道路はまるで雪国の回廊のようで、まだショベルカーが動き回り、車も徐行している。
 車を止めて国道より海側へ出る。この田老地区は1933(昭和8)年の三陸大津波のときにも900人を超える行方不明者を出し、それを教訓に88年に万里の長城とも言える高さ10メートルの防潮堤を海沿いに造った。遠くに要塞の壁面のように見えるのがそれだった。

巨大な防潮堤でも波は軽々乗りこえた
(田老地区)

「世界最大なんて言っていたんですけれど、それを超えて来ました」。力なくそう言ったのは、瓦礫のなかをひとり歩いていた中年の男性だった。石川祥信さんといい、避難所にいるのだが、「やることがないし、避難所にばかりいても仕方ない」と被災現場に出てきていた。
 防潮堤のすぐ山側は、全体として、民家の屋根すらもうほとんど見えない。わずかに高くなっている砂地のわきに軽自動車が瓦礫の上に引っかかって止まっているのが目立っている。

沖で崩れた突堤(田老地区)

 男性の案内で"万里の長城"へ向かって瓦礫のなかを進んだ。防潮堤には金属製の両開きの扉が、組み込まれていたらしいが、ひとつは吹き飛んでいた。この壊れた扉から抜けて、水路をよけて海辺へ出た。消防団員が巡回している。行方不明者の捜索だ。名産の養殖ワカメも壊滅的被害をうけたという。箱に入ったままのワカメが転がっている。
 津波が入ってきたという湾の入り口に目をやると、ごろごろと海中に埋もれたコンリートが一部海面から顔を題している。沖合の突堤が砕け、海中に散乱したのだった。

子供たちと避難した校庭に水が押し寄せ……

"保育所を守った車"(田老地区)

 海を離れ車に戻ろうと道なき道を歩くと、さきほどの軽自動車の脇に来た。すると石川さんが「あれは保育所を守った車なんですよ」とひと言。吊り上げられたような形で残ったこの車は、ここにあった保育所の所長のもので、保育所は基礎を残して跡形もないが、子供たちはみな避難して無事だったという。
「でも、逃げた中学校のグラウンドには、子供たちの足下くらいまでに水が押し寄せたらしいです。でも助かった。だからこれは保育所を守った車なんです。ぜひ、紹介してください」。実際に車が子供たちを守ったわけではないが、お守りのようなものだったと石川さんはいいたかったようだ。石川さんの子供もかつてこの保育所に通っていた。
 きっと大変だったろう。乳幼児は背負ったりして、年長の子供には不安にならないようにせき立てて、先生たちが先導して必死に逃げたのだろう。その後、避難所になっている宮古北高校で支援活動をしているこの保育園の所長、満山明美さんに会った。
 満山さんによると、日頃から津波などの災害訓練をしていたことに加えて、大地震の少し前に本当の地震があって、そのとき本番さながらに逃げる練習をしていたのがよかったという。
 当時70人ほどの子供たちがいて、地震を感じてから、避難のために子供たちを着替えさせて、支度をして準備が整うと、最後に避難先を記した札を玄関にかけて、保育所をあとにした。「急がせながらも、子供たちを泣かせないように気をつけました」という。
 小さな川に架かる橋を渡り、大堤防とは別の低い堤防を超える。するとしばらくして国道に出る。近くの人たちが子供たちが横切るのを手伝ってくれた。山側にある中学校の校庭を目指した。必死で逃げるときにゴーンという津波の音が聞こえた。なんとか校庭にたどり着いたが水は押し寄せる。
 校庭で渦を巻きはじめた。これでは危ないと判断して先生と子供たちは校庭の奥につづいている山のなかに草木をかき分けて入り登っていった。そして全員難を逃れた。

野田村保育所の中村所長と小野寺主任

 野田村の保育所も同じように間一髪で難を逃れたことをあとで知った。ここもまた海から近い。90人ほどの子供たちと先生たちは、地震と知って、まず机の下に避難をさせた。建っていられないほどの揺れのあと、避難の準備をはじめる。子供たちに防寒着を着させて、小さい子は背負ったり、乳母車にのせて脱出した。
「行くよ、行くよと声をかけながら急ぎ足で行きました。先頭は赤い旗をもってこれを目印にしました。まずは、避難場所として教員住宅を目指して、民家の庭や畑を通してもらい進みました。途中でドーンという音がして振り返ると、白いしぶきが見えて、車がまるでスローモーションの映像を見ているように波にのまれて行くのが見えました」と、主任保育士の小野寺すみさんが話す。その後中学校へ避難した。
 一方、所長の中村智子さんは、迎えに来るかもしれない保護者への対応などのためしばらく保育所に残り、あとから出た。しかしそのとき津波は間近に迫っていた。急遽近くの民家の2階に避難してなんとか助かった。そして状況が落ち着いた後、その家を出た。
「子供たちのところへ行かなくてはと思い、暗いなか泥だらけになって、瓦礫のなかを抜けてなんとか、子供たちや先生たちと会えました」と、よかったとばかりに話す。ここでも、避難中に泣く子は一人もいなかったという。

 漁船が残された泥だらけの商店街

仮設のお風呂の前の花に心が少しなごむ

 宮古北高の体育館には救援物資が保管され、この日も北海道からの自衛隊のトラックから物資が宮古市の職員に手渡されていた。私もわずかながらもってきた衛生用品やカイロなどをここで役立ててもらうことにした。
 日が暮れると、雪がぱらつき冷え込んでくる。物資がいろいろ運び込まれ瓦礫も徐々に片付いている。しかし、全体を覆っているのはまだ殺伐とした雰囲気だ。もし草花の明るい色合いがあったら空気も少し変わるのでは、ふとそう思った。
 同じように感じる人はいたのだろう、ブルーシートで囲まれた仮設のお風呂の前に、鉢植えの花が色を添えていた。小さいが被災地で見た鮮やかな色だ。これからつづく長い避難生活が日常になれば、瓦礫のなかに花を咲かせていく必要もあるのだろう。

 粉雪がぱらつく闇の中、くろさき荘に車を走らせた。あとでしまったと反省したのは、カーナビに従って進路をとったことだった。災害のときは閉鎖の道路もあるし、まして海岸近くは今回はどうなっているかわからない。
 それを忘れナビの指し示すままに国道をはずれ、田舎道に入り込んだら、いつしか海岸近くに出てしまったようだ。通常なら走行できるのだろうがどうも無理なようだ。このあたりはラジオもほとんど入らない。もし地震があったら、地域の同胞無線しかない。走行中に聞こえるだろか。
 ヘッドライトが照らしたのは瓦礫の山だった。たまたまだが、反対から巡回中のパトカーが走ってきた。
「すいません、くろさき荘に行きたいのですが」
「これから先はいけませんよ。案内しますからそこまでついてきてください」
 見通しの甘さを恥じた。これくらいでよかったが、ただでさえ忙しい地元警察に余計な手間をかけてしまった。

道路には船が(宮古市内)

 翌23日、今度は田老地区を越えて宮古の中心部へ向かった。田老と同じように坂を下って町中へ入る。商店街は泥だらけで、車を走らせるといきなり店先に運ばれてきた漁船の舳先と向かい合うことになったりする。
 JR三陸鉄道の宮古駅のあたりは、少し奥まっているので被害はなく、整然として駅のわきの立ち食いそば屋も営業していた。ここで天ぷら蕎麦で体を温めてから、宮古市役所へ向かった。防潮堤のすぐ内側に建つ市役所は2階まで津波におそわれ使い物にならなくなっていた。

宮古駅わきの立ち食いそば屋

 3階に対策本部がつくられ、被災者の名簿などが張り出され、「死亡届の受付」の貼り紙が目立つところにある。職員が薄暗いなかでマスクをしながらそれぞれ職務にあたっていた。福祉関係の方に保育所の件で話を聞くと同時に、なにかお手伝いできることがあったらと思い連絡先を聞いておいた。
 後日これが役に立った。先述したNPOセカンドハーベストにフランスから届けられ行き場をさがしていた湯たんぽ500個が、宮古で必要だということがわかり、届けられることになった。

 いま、私はこの原稿を別の取材で訪れた京都府の山陰、丹後半島の峰山という場所で書いている。あまり知られていないが、ここでは1927(昭和2)年のこれもまた3月に、のちに北丹後地震と呼ばれる大地震があり、家屋の倒壊と大火災を招き、峰山町(現・京丹後市の一部)では、町民の約4分の1にあたる1103人が亡くなった。
 のどかな山間のまちに、震災の傷跡を見ることは難しい。すでに84年も経っているのだからあたりかもしれない。一日もはやく今回の被災地がこうなることを今は願うだけだ。
(編集部 川井 龍介)

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