風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
11/03/31

第19回 震災発生から現場へ

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

「東京周辺で大きな地震、成田空港は閉鎖」

 一報は、成田到着予定のおよそ1時間前だった。アメリカを半月かけてあちこち回り、ようやく日本に着くと思った矢先のことだった。ロサンゼルス発東京・成田行きのデルタ航空の機長が英語でアナウンスする。「Tokyo, Earthquake, Narita, Close, Sapporo・・・」といった言葉が耳に入る。「東京周辺で大きな地震があり、成田空港は閉鎖、そのため本機は札幌に着陸する」といっているようだ。その後日本語のアナウンスでそれが確かだとわかった。
 おい、ほんとかよ。いったいどうしたんだ。たいていの人は着陸を間近に控えて目覚めているようだが、それほど大きな声は上がらない。わが家は神奈川県の相模湾に面したまちにある。海はほとんど目の前だ。東京周辺で地震。かつて成田空港が地震で閉鎖されたことなどなかったのではないか。いったい震源地はどこでどんなことが起きたのか。
 場所によっては、津波が起きてわが家は呑み込まれているかもしれない。唯一の救いは、羽田は閉鎖されていないということだった。この差が何を意味するのかはわからなかったが。
 客室乗務員にきいてもこれ以上はわからないと困惑している。あとで考えればもっと情報は入っていたようだが、乗客には知らされなかった。しばらくして札幌、千歳空港に着陸。外を見ればアメリカン航空の機体がすでにとまっている。その向こうにはデルタ航空の別の機体が。どうやら千歳に緊急着陸した飛行機は、かなりの数に上るようだ。
 それもそうだ、世界各地から成田に地震発生後に降りる予定だった飛行機はかなりの数になるはずだ。それが日本や近隣諸国の空港に降りなければならなかった。そのまましばらく待機する、というアナウンス以外に情報はない。
 携帯電話で連絡をとろうとしたが、私は自分の携帯をスーツケースのなかに入れて預けてしまったのを思い出した。こんな時に限って! 万一ハイジャックされたときのことも予想すれば携帯は手元においておくべきだった。
 日本人女性の客室乗務員が親切にも彼女の個人的なiPhoneを貸してくれた。自宅と家族の携帯にかけるがつながらない。少し考えてから地方だったらつながるかもしれないと思い、富山の親戚の家にかけるとつながった。地震についての基本的な情報を得られると同時に家族と家の無事がわかった。
 乗客のなかで日本人の会社員が携帯のワンセグでテレビニュースを映し出した。震源は宮城県沖、津波が発生し死者が十数人出ているという。この時点ですらとんでもないことになっていると感じていた。
 乗務員は詳しい情報が入ってこないと言うばかり。もしかしたら乗客のなかには被災地の出身者もいるかもしれないという配慮は機長や航空会社にはなさそうで、ワンセグなどニュースで得られた情報すら機内に流すつもりはないようだ。アメリカ人の乗務員は乗客並みにうんざりした顔をしている。
 6、7時間経ったころか、この飛行機は関西国際空港へ向けて飛ぶといい、羽田から整備士がやってきて、給油も行った。ところが、機長によれば関空から拒否されたということで再び待機。その2時間後くらいだったか、ようやく空港内に移動することになった。成田を中継して別の国に向かう外国人もここでいったん異例の措置をとって入国手続きをさせて空港内へ。
 ここからがさらに大混乱で、デルタ航空の関係者は空港内には現れず、すべてJAL関連会社におまかせ。彼らもデルタから確かな指示を得ていないようで乗客、とくに外国人客は日本語もわからずあたふたしていた。すでに日をまたいでおり、この日、12日の午後7時以降にふたたび飛行機が成田に向かうかなどがわかる、というだけだ。
 戸惑う外国人に公衆電話のかけかたなどを教えている日本人がいる。私が英語を理解すると知ったインド系のアメリカ人ビジネスマンは、上海に行かなくていけないというので困り果てている。調べてみると千歳から上海まで国際線がある。それを教えると彼はさっそく手持ちのスマートフォンで独自にチケットを予約した。
 私は、千歳からの羽田行きの国内便を何とか得た。このときようやく出発ゲートの前のテレビで地震の被害と、それにともなう原発の事故がとんでもない方向に向かっているのを知った。そして12日、土曜日夕にようやく自宅にたどり着いた。

まずは自分にできることを

 テレビニュースから目が離せなくなり、現地はどうなっているのかますます気になる。33年前、学生時代の春休みに青森から岩手に入り三陸海岸を南下、仙台に入り、そこから常磐線で茨城の下妻を経由して東京に帰ってきたことを思い出した。まさに今回の被災地域をたどったことになる。
 とくに印象的だったあの三陸のリアス式海岸の断崖にたつ国民宿舎は無事だろうか、ひっそりとした三陸鉄道の小さな駅はどうなっただろうか、JR宮古の駅で見た若者たちはどうなっただろうか、などと思いをめぐらした。
 自宅のテレビで見る光景は、悲惨で、さらに悲しいのは、その惨状を見せられているこちら側は、いまのところなにもできないということだった。これは阪神淡路大震災のときと同じだ。火災が続いている、消防車が間に合わない、物資が足りない、というニュースを食事をし酒を飲みながら見るしかないもどかしさだ。
 この震災のとき、わたしは約3ヵ月後に神戸を訪れて、市内の消防署をすべてまわった。消防署員が震災直後に記した手記をまとめて出版するためだった。今回の震災でも同様だが、同じ被災者であっても警察、消防、役所、学校関係の人たちは、まずなにより市民や生徒、児童のために尽力しなければならない。それが彼らの仕事だからである。
 震災直後の現場はどうだったか、それを物語る貴重な記録を手記として消防局の広報がまとめていたのを知り出版化をもちかけたのだった。これは『阪神大震災 消防隊員死闘の記―もっと多くのいのちを救いたかった』として労働旬報社(現・旬報社)より出版された。
 阪神同様、今回も新聞も週刊誌もすぐに現地に入り報道している。知人の週刊文春編集部の菊地武顕さんに連絡し、現地に入る方法をさぐった。彼によれば現地に入るには、山形の庄内空港か青森の三沢空港からだという。しかしガソリンの入手は難しく、宿泊するところはないだろう、「いまはおすすめできません」という。
 数日後週刊文春をみると、グラビアで有名な「不肖、宮嶋氏」による被災地の写真がグラビアに載り、彼がそこで、これだけの大惨事の現場はたいてい多くのマスコミがつめかけているのに、今回はそれがないことに恐ろしさを感じる、といったようなことを書いていた。
 日を増すごとに人的被害の実態が明らかになっていく。知人でジャーナリストの飯島裕子さんから「セカンドハーベスト・ジャパン」というNPOが救援物資を被災地へ送っているときく。早速、都内浅草橋にある事務所を訪ね、少ないがカイロなど物資を届ける。
 JR総武線沿いの小さな事務所では、外国人も含めてスタッフが忙しそうに動き回り、大きなトラックに物資が積み込まれていくところだった。われわれ連想出版でもなにかできないかという申し出に、救援を呼びかける彼らのバナー広告をつくってくれないかと頼まれ、弊誌「風」のデザインを担当している吉沢ゆきさんがこれを手早く制作した。
 被災地の惨状が明らかになると同時に、原発の放射能漏れは深刻さを増していく。いまとなっては遅いが、日本全体を滅ぼしかねない原発というものを、電力会社という一民間企業の主導で行わせるべきではなかったという思いが募る。

 定期的に新書を紹介するウェブ上のコラムで『世界の放射線被曝地調査』(高田純著、講談社ブルーバックス)を紹介する。チェルノブイリやビキニ環礁の核実験で被害をうけた南太平洋の島民たちの被害実態など現場の調査をもとに放射線被曝についてまとめた本だ。著者は、「核科学技術の積極的利用分野が精力的に利用されてきたのに対し、その負の影響に関する研究の規模は、圧倒的に小さい状況にあった」と、指摘している。
 そのつけが今回明らかになっている。原発を推進する力に比べネガティブな面での研究はおろそかになっていたというのは、原発そのものについても言えることをいまわれわれは思い知ったことになる。

少しずつ見えてきた被害の実態

岩手県

 1週間ほどすると、岩手県北部なら海岸沿いの国道45号は通れることがわかった。そして震災10目の20日夕、羽田から青森の三沢空港へ飛び、八戸からレンタカーで岩手に入る計画を立てた。
 三沢行きは満席、そのなかに二人のアメリカ人兵らしき若者がいた。到着後話しかけると、グァムから来たという。所属は海軍で故郷はコロラドとバージニア。「援助に来てくれてありがとう」と言うと、「映像でしか見ていないけれどひどいもんだ。でも俺たちはいろいろなところで活動してきたから」と、頼もしい顔をする。
 この夜は八戸で知人と居酒屋へ行き地震発生時の様子などをたずねた。彼が言うには、今後、下北半島の六ヶ所村の核燃料再処理工場や原発に対する不安は大きいと心配げな顔をしていた。
 八戸も漁港などが被害を受けた。翌朝コンビニに行くと、「菓子パンは一人2個まで」という看板がでていたし、モスバーガーは閉まり、ドトールコーヒーは飲み物に限っての営業だった。しかし、国道沿いの量販店やドラッグストアなどはかなり商品が置かれていた。
 ただ、ガソリンスタンドは一部だけ開いていて、給油するには相当な時間がかかりそうだった。幸いレンタカーは満タンにしてもらっていたので、まずは岩手の北のはずれ久慈市を目指した。

波にあらわれ浮いた鉄路
(陸中八木駅近く)

 途中ドラッグストアで、被災地に届けるためのウェットティッシュなどを買い、青森の南のはずれ階上町のコンビニ・サンクスでは、ようやく探していたテレホンカードを買う。店では最後の一枚だった。これは結局使う機会がなかったが。
 岩手県に入ると車はほとんど走っていない。国道沿いに「津波注意」の看板が見える。津波には日頃から警戒していたことがわかる。以後頻繁にこうした看板は目にした。
 洋野町ではJRの鉄橋が流失したと新聞にあった。途中何度かおそるおそる国道をはずれ海外沿いに向かってみた。陸中八木という駅の付近では鉄路が浮いている。近くの津波のあとで建物が一部壊れている。被害の実態が少しずつわかってきた。人影はない。
 久慈では石油備蓄基地で屋外タンクが破損し大規模な火災も発生したという。予約していた久慈のホテルでは、21日はまだ部屋に十分暖房が入っていなかった。まだまだ東北はかなり冷える。荷物をおき現地の様子をきこうと地元紙岩手日報の久慈支局を訪ねた。
 若い支局員の方がていねいに教えてくれたところによると、すでに報道に出ているようにとなりの野田村の被害が甚大だという。

 見渡す限りの瓦礫がつづく野田村

瓦礫の波と化した海沿いの集落(野田村)

 彼の言ったとおり45号を上り下りしながら走り、野田村の集落がある海辺にさしかかったところで風景は一変した。瓦礫が道路の両端に積み上げられる、埃が舞い泥まみれの道になる。警察や消防団員の交通整理にしたがい、国道をはずれ町中へ向かう。
 避難所の一つになっているお寺の駐車場に車をとめて歩くと、歩道に車が無残な形で乗り上げている。近くを数人の外国人が重装備で歩いている。どこから来たのか尋ねると「ニューヨーク」とひと言、一人がそっけなく応えて足早に去ってしまった。応援に来たにしては様子がかわっている。いったいどういう人たちなのだろう。
 役場の前に出ると、海に向かって被害の全体を見渡すことができた。すさまじい破壊だ。消防団のコンクリートの建物など数棟を残し、見渡す限り流され堆積した瓦礫がつづく。消防車がものものしく動き回り、防災服に身を固めた職員が足早に行き交う。役場の入り口に積まれた食料を配布しているのは、北海道の様似町から支援のためにきた町の職員二人だった。野田村と協力関係をもっているという。

車が突っ込んだ図書館(野田村)

 役場から少し海側に離れて、村立の生涯学習センターという看板の白い外壁の建物がある。このなかには図書館も併設されていたようで、泥が入り込んだ内部は、書棚が倒れ埋まり本は散乱したまま。その向こうにどこから流れ込んだのか車が乗り上げている。
 村の総合対策室長の小谷地英正さんによれば、食べ物は足りているが、海近くの終末処理施設が破壊され下水処理ができないという。まだボランティアの相手もできないようだ。長引く避難所の生活で洗濯機がほしいという話も聞いた。

なぎ倒された松林と壊れた堤防(野田村)

 役場から遠く海岸沿いにたつ20~30メートルの松林が見えるが、津波はその上あたりで白いしぶきを上げたという。その松林があるところへ行ってみた。堤防は所々崩れ落ち、背の高い松林がなぎ倒されている。穏やかな海が恐ろしく見えてきた。
 夕方、すっかり片付けられた役場のちかくでタバコを吸う初老の男性に会った。わずかに散乱する茶色の瓦の破片をサンダルの先で突っつき、「これはうちの家の屋根だった」とつぶやいた。まだ建てて数年の立派な家だったようだがすべて流された。

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