風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
11/02/15

第18回 機会と手段は増えたけれど・・・

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 就職、進学を目指す若い人たちにとって試練の時がつづいている。就職については、メディアでとりあげられるのは"就活"の厳しさである。何十社どころかなかには100社を超える企業にアプローチをして、内定を目指して必死になる。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、といっては失礼かもしれないが、学生側としては厳しい時代になったからこそ、「網は広く打っておこう」というわけである。
 これだけの数への応募を可能にするのは、エントリー方式という方法によって「御社に興味があります」といういわば意思表示を、インターネットを通じて効率的にできるからである。広い意味での応募の一環と考えられているこのエントリーをすると、企業から情報が送られてくるが、とにかくこれをしなければ実際になにも始まらない。
 かつては大学生は、就職活動がはじまるころになると、分厚い電話帳のような企業案内が、学生と企業の間にたつ就職情報サービス会社からドカーンと送られてきて、これらも参考にして、一般企業を希望する者は志望先をしぼって挑んだものだった。それが今はとにかくものすごい数のエントリー(応募の意思表示)をこなさないといけない。
 単純に考えれば、就職のチャンスが広がっているように思えるので、とにかくできるだけ多くのところに意思表示をしたくなるのは人情だ。まして、就職難の時代にあってはなおさらだろう。

 もっと地道な、アナログ的な努力を

 しかし、それを承知であえて疑問を投げかければ、対象がこれだけの数となれば、当然のことながらそれぞれがいったいどんな企業かなどくわしく理解しているわけはない。また、いくら効率的にできるといっても、本質的なところにかける時間とエネルギーが相対的に減少するのではないか。就職を控えたある理系の大学生と話したとき、「エントリーとか手続き的なことで時間をそがれてしまって」とため息を漏らしていた。
 とにかく情報は大量にそして簡単に入手できるし、その方法も多様化してきた。それはインターネットを中心にしたIT技術の進化による。となればそれをいかに使いこなすかがまずは重要になる。内容はともかく、まずはツールを操作することが第一になってくる。 当然のことながら、情報処理の技術にかける手間は多くなるし、ときには情報そもののが多すぎても内容を的確に判断する余裕がなくなってしまう。結果として数字の上では可能性が広がっていても、合格して就職する企業は一社しかないというあたりまえのことを考えれば、実質的には"ランダム攻撃"のような方法が功を奏しているのか疑問である。
 もっと地道な方法がとられてもいいのではないか。具体的に言えば、希望する企業を研究して、大学の先生や先輩やあるいは人づてにその企業の実態を知るという、いい意味での人間的なコネクションを利用してアプローチをするというアナログ的な努力が尊重されてもいいような気がする。

 自信をもって自分の言葉で語ろう

 手段、方法論に傾倒しすぎだという点について加えれば、就活に際して、自己アピールを中心とした面接の方法といった"ハウツー"を、若い人がどうも気にしすぎているような気がしてならない。
 就活問題を特集した番組では、一流大学のある男子学生が、内定をもらえないのは面接が弱いからだと反省して、就職コンサルタントのような会社に行って、あれこれ指導を受ける様子を流していた。テレビで見る限り好青年で、多少押しが弱そうかなと思ったが、それは人の個性の範囲であり、そんなところから実力は推し量れない。
 この学生が、"就職塾"のようなところへ出向き、金を払って、なにやら面接会場でのお辞儀の仕方について「もっと頭の角度を低く」などと注意されている。彼はかなり一生懸命受験勉強もしてきた努力家だと想像できるし、話し方も極めて常識的だ。その彼がまだそれほど経験もなさそうな年齢の"塾教師"に偉そうなことをいろいろ言われているのを見て、「そんなところで小手先のノウハウを学ぶより、自分がいままでやってきたことを自信をもって語ればいいではないか」と、思わず突っ込みを入れたくなった。
 受験にしろ、就職にしろ、さらには結婚にしても、いつからか何でもコンサルタントが登場して、彼らに頼るのがあたりまえになってきた。本来それらは、学校やコミュニティーや家庭が担っていたものだが、その機能が低下していくなかで、これを商売にする会社がでてきて、なんでも金で解決するようになった。言い換えれば金で解決できることが増えてきた。
 こうしたところで教えてくれるのは成功のための方法論である。就職の話に戻れば、いかに企業に受け入れられるような面接をするかという方法を伝授する。長年就職情報産業に携わってきた就活の専門家が著した『就活エリートの迷走』(豊田義博著、ちくま新書)でも、この点の危うさを指摘している。

 何のために学び、働くのか

 方法と手段の拡大ということについては、受験についても似たようなことが言える。大学受験をする親戚の子どもたちを見ていると、「機会(チャンス)と選択肢は増えたがそれが果たしていいことなのか」という疑問がわく。
 大学受験の専門家に言わせれば昨今は「大学が学生を選ぶ大学」と「学生が大学を選ぶ大学」に二極化しているそうだ。入りたくてもなかなか入れない大学と、望みさえすれば簡単に入れる大学である。大学進学率が1980年代までは20%台だったものが現在は50%台を超え(『就活エリート迷走』)、それにつれて受験者の実力の幅が広がっていることを考えれば当然である。
 かつてはそれなりの勉強をする、あるいはする覚悟がなくては大学を受験する資格はないと思われていたはずだ。少なくとも30年ぐらい前まではそうだったのではないか。しかし、いまは少子化も手伝って親は一人あたりの子供にかける教育費に余裕が出て経済的に進学させることがより可能になってきた。そして先に記したように、はっきりいって高校時代にろくな勉強などしなくても進学できる大学はたくさんでてきた。また、試験など受けなくても推薦で決まってしまう生徒の多いことには驚く。
 推薦やAO入試などといって学生獲得に困る大学が早々と生徒を囲い込むのである。受験生の側からすれば選択肢はだいぶ広がっているのだ。北欧など大学の授業料が無料の国もあるようだが、それと、簡単に入れるし、かつまだ働きたくないからまずは大学に行くという話は違うだろう。
「国公立以外だったら、うちはお金がないから大学には行けないよ」とか、「浪人するなら働きなさい」などという親たちの言葉をかつてはよく聞いたが、最近はあまり聞こえてこない。
 残念ながら進学を諦めた無念の受験者も多々いただろうが、こう言われていい意味でのプレッシャーがかかり、学びたい者が必死になるのは悪いことではなかった。限られた選択肢のなかでこそ発揮できる力もまたあるのだ。
 情報を得る方法はますます多様になり、目的より方法についてあれこれ策を練る方法論を競うことばかりが目立っている。何のために学ぶのか、何のために大学に行くのか、そして何のために働き、生きるのか。そんな根源的な問いを、社会がまじめに受け止めていた時代が懐かしい。
(編集部 川井 龍介)

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