風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
11/01/31

第17回 悪魔の所業の哀しさ

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 東北地方では連日の雪が、人々の生活へ重くのしかかっている様子がニュースとして東京に届けられている。一方、晴れの日がつづくその東京では、先頃秋葉原で2年7ヵ月ぶりに歩行者天国が試験的に復活したというニュースがあった。
 雪の東北と快晴の秋葉原。このふたつをつなぐまったく別のニュースが同じころ新聞の一面に衝撃的に掲載された。同じ秋葉原の歩行者天国で、2008年に起きた殺傷事件の裁判での死刑求刑である。

 新聞も大きく見出しに

 いまだ記憶に新しいこの事件は、起訴状などによれば、08年6月8日の白昼、元派遣社員の加藤智大被告(28)が、歩行者天国のなかをトラックで突っ込み、5人をはねて3人を死亡させたあと、今度はナイフで12人を刺し、そのうち4人を死亡させた。
 殺人罪などに問われた加藤被告に対する東京地裁での公判のなかで、検察は1月25日、死刑を求刑した。この論告求刑の内容が新聞紙上に掲載されたが、そのなかで目を引く言葉があった。「悪魔の所業」である。
 論告のなかで検察は、犯行の残虐性などについて言葉を尽くし、「人間性のかけらも感じられない悪魔の所業」と表現した。そして、被告には十分な反省が見られないことや弁護側の言うような精神疾患の可能性はないことなどから、命をもって罪を償わせることが正義だと断罪した。
 何の罪もない人々の命と未来を一瞬にして奪い取り、それこそもし"地獄の底"というものがあるなら、遺族をそこへ突き落とし生涯を悲嘆に暮れさせたこの極悪非道ぶりは、いかように非難されてもされすぎることはない。遺族や被害者からも極刑を望む声が大であった。死刑の是非に関する議論は別にして、世論は極刑が当然と判断したのではないか。
 私もそう判断する。しかし、それでもこの「悪魔の所業」という言葉にはなにかひっかかるものがあった。強烈かつセンセーショナルな表現であるだけに、当然、新聞のなかには「悪魔の所業」と、大きくこれを見出しに掲げた社もあった。
 この言葉の意味するところは、普通に考えれば、犯行の極悪さを訴えるための最大限の表現ということになる。究極の比喩をしたということだろう。まさか悪魔が被告にのりうつって凶行に及んだと考えたわけではない。

 加害者の家族が受ける制裁とは

 この論告求刑の翌日、青森のマスコミの記者Aさんと全国紙で元検察庁を担当した経験のある記者Bさんの二人と私の三人でたまたま飲む機会があった。話題の中で論告求刑の話がでて、「悪魔の所業というのは、かなり情緒的な表現ではないか」と、私が水を向けると、「私も悪魔の所業というところは、非常に印象に残りました」と、Aさんが言う。一方、Bさんは「検察は、一般人に訴えかけるためにもこういう言い方をあえてするものだ」と見る。
 なぜ自分が「悪魔の所業」にひっかかったのかを考えてみると、一つには犯行は被告の「所業」であるから、被告=悪魔とも感じられる点であった。この先は極めて個人的な発想と連想を記していると理解していただきたいのだが、被告人には両親ほか家族がおり、悪魔とこのつながりを考えると複雑な思いがしたのだ。
 被告の家族の置かれた立場と心情は、普通に考えれば想像を絶するものがある。公判のなかで弁護側から、犯行は母親の不適切な養育責任と関係があるともちだされたが、検察側はそれはまったくの論理の飛躍と一蹴している。被告よりも遙かに不適切な養育を受けた人間はいくらでもいるだろうことを考えるだけでもここは検察の主張する通りだろう。

 また、仮に不適切な養育があったとしても成人した被告の行為に親の責任を負わせるのは適当ではないと多くの人が考えるはずである。だが、それでも普通の親なら当然苦しみ、またどんな親でも世間の目から苦しめられる。
 昨年11月出版された『加害者家族』(鈴木伸元著、幻冬舎新書)では、殺人事件など犯罪を犯した加害者の家族が、事件後どのような状況に置かれるかを本人や関係者に取材をしてまとめている。まだまだ不十分とはいえ、犯罪被害者の人権の保護が注目されてきた昨今だが、本書は加害者の家族もまた、社会的な制裁を受けていることを明らかにしている。
 本書に示されているように、平成20年の1年間で殺人(1297件)、強盗(4278件)、強姦(1528件)など、警察が犯罪と認めた件数は合計253万3351件に上る。つまり少なくともこの数以上の被害者がいて、また加害者がいる。さらにもっと多くの被害者家族、そして加害者家族がいる。殺人の場合、家族間の事件も多く、被害者の家族でありかつ加害者の家族である人もかなりの数になるだろう。
 身内が犯罪者となった場合、直接犯罪にかかわりがなくても身内ということで仕事をやめ、引っ越し、子どもが転校せざるを得ない例などが紹介される。たとえば、親が罪を犯した子どもたちは、少なくとも彼らに負うべき責任などなにもなくても生活面で影響を受け心に傷を抱えたまま生きる。
 被害、加害の別を問わず一つの犯罪がどれだけ身近な人間を不幸な目に遭わせるかを考えると、犯罪予防の啓蒙の重要性と、負うべき責任や受ける不条理を軽減するべき手段を社会は福祉として講ずるべきことを痛感する。交通事故による過失といった犯罪を含めれば、だれもが被害者あるいは加害者の身内になる可能性があるといってもいいからである。
 数多くの人を殺そうが、一人を殺そうが殺された側(家族)の心情からすれば、加害者は悪魔と言っても言い過ぎではないであろう。であれば、「悪魔」の家族は殺人事件の数からして毎年千人単位で増えることとなるが、こう考えては、想像が逞しすぎるだろうか。

 殲滅するまで戦う原理主義に通じる?

 先の論告で悪魔という言葉にひっかかったもう一つの理由は、「悪魔」と"レッテルを貼る"ことが原理主義の激しさを連想させたからである。具体的には、近・現代社会史、現代社会論を専門とする桜井哲夫氏による『アメリカはなぜ嫌われるのか』(ちくま新書、2002年)のなかで、先進各国の国民が悪魔や神をどう認識しているかという調査結果を思い出したのである。
 このなかで、ある調査として、神と悪魔の存在を信じるかどうかについての国際比較が紹介されている。それによると、神の存在を信じているのが、アメリカ人では94%、旧西ドイツ人が67%、イギリス人が70%となっている。また別の調査によると、悪魔の存在については、アメリカ人の69%が信じているが、イギリス人は3分の1、フランス人は5分の1、旧西ドイツ人は18%、スウェーデン人は12%に過ぎないことを紹介している。
 日本人のことは出ていないが、とにかく欧米先進国のなかでアメリカ人の神や悪魔に対する考え方の特異性には驚く。百歩譲って神への信奉は理解の範囲としても、悪魔の存在の有無など、日本人はテーマとして真剣に考えた人などほとんどいないのではないだろうか。ここで著者は、アメリカの社会・政治学者リプセットの言葉を紹介しているが、その一部には「~アメリカ人は、神と悪魔との戦いとして、また道徳劇[美徳と悪徳が擬人化されて登場する。14-16世紀のイギリスで流行]として、社会や政治のドラマを見る傾向がある。したがって、妥協はまず不可能である。~」とある。
 アメリカの原理志向が強いことが示されているが、こうした原理志向(主義)は、敵対するものを悪と規定しがちであり、いったん悪=敵と決めた相手は、殲滅するまで戦う。それが正義だからである。
 ここからわかるように、絶対悪を意味する悪魔という存在に対しては、妥協する余地はなく、悪魔は救いようもないただ滅ぼされて当然の存在なのである。
 論告求刑の日、雪国にいる被告の父親のもとへ記者が訪れコメントを求めた。記者が彼の口から何を期待したのかしれないが、父親は無言でただ雪かきをしていたという。これを聞いたとき、唐突だが、28歳の被告に子どもがいなかったのがわずかな救いだと思わずにはいられなかった。
(編集部 川井 龍介)

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