風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/12/31

第15回 見失ってはいけないもの

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

沼地の記憶
『沼地の記憶』
( トマス・H・クック著、村松潔訳、文春文庫)

 2010年に日本で話題になった海外ミステリーのなかで一冊くらいは読んでみようと思い、『沼地の記憶』( トマス・H・クック著、村松潔訳、文春文庫)を選んだ。ひとくちにミステリーと言っても、謎解きの面白さに主眼を置いた純粋推理ものからハードボイルまでさまざまだが、本書を選んだのは、エンタテイメント性より文学性を今回は重視したからだった。
2008年に発表されたこの作品は、アメリカ南部のまちレークランドを舞台にした、殺人者を父に持つ高校生に同情する主人公の若い教師が、結局さらなる悲劇を生んでしまったことを、年老いてから回想するという形で、時代が行き来しながら話が進む。
著者というか主人公である「私」の語り口は全体に低く沈鬱だ。物語の本筋を追うときもそうだが、そこから派生して著者自身の社会観や世界観を窺わせるようなところで沈鬱さや諦観が浮き上がってくる。印象に残ったのは主人公ジャック・ブランチの次のような述懐だ。いまのアメリカ社会を痛切に皮肉っている。

 時はすべてをかえてしまうが、過去だけは変わらない。たとえば、レークランドである。地元の人々の経営する店やレストランはいまや太古の霧の彼方に消えてしまった。そういうものがわたしの目に浮かぶのは、記憶のカーテンを透かしてでしかなく、それはまるで教会の階段に置き去りにされた孤児みたいに、見捨てられた、影のような存在になってしまっている。かつて、ここは骨の髄まで南部的な町で、郡庁舎広場は地元の製材所で製材された木材で造られた商店で取り囲まれていたが、いまでは同じ規模のほかの町とほとんど区別のつかない「アメリカ的」な町になっている。古い個人商店はチェーン店に取って代わられ、プロヴィデンスやサンディエゴと同じ品物が売られている。「地元の手工芸品」は中国製だし、住民は一日の終わりに日本車で行列し、ペーパー・ハットをかぶったティーンエイジャーに手渡される紙袋入りの夕食を受け取る。こどもたちは肥りすぎで、無教育で、ほとんど試験を受けることもない。彼らはiPodで映画を見て、ほとんどまったく本を読まない。さらに悪いのは、古い人間の意見かもしれないが、愛はなんの差別もなくあたえられなければならないと教えられていることで、その結果、彼らは恥という感覚を知らずに大人になっていく。

 もう一つご紹介しよう。主人公が"いま"の教育の現場を嘆くところだ。

 この四人はみんな最先端の設備をもつレークランドの真新しい高校の教師だったが、書物や思想を論じることもなく、人生の深みにふれるような話題もなかった。聞いているうちにあきらかになったのは、彼らが仕事を楽にするためにチーム・ティーチングを採用し、自分たちがすでに読んでいるという理由から、毎年同じ本を指定図書にしていることだった。しかも、最悪だったのはこれも四人の会話からわかったことだが、彼らが指定図書の映画版を見せ、生徒たちに映画さえ見ていればわかるような問題を出していることだった。教師のひとりが生徒の答案用紙を取り出して、さも愉快そうにその出だしの部分を読み上げた。「『グレート・ギャツビー』というのは、ロバート・レッドフォードがミア・ファーローに完全にいかれてしまって、彼女がなんとかいう名前のもうひとりの女優を轢いてしまったとき、罪をかぶってやるという話です」

 "内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ"

 軽蔑にも似た批判である。これを読んでいて私は、ハードボイルド小説の大家、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のなかで、滔々と語られる当時のアメリカ文明批判を思い出した。数年前、村上春樹の新訳で読み直したところ印象に残った言葉である。それは、作品の主人公であり、ハードボイルド小説の世界ではもっとも有名な探偵であるフィリップ・マーロウの口から出たものではなく、娘を殺された大富豪ハーラン・ポッターがマーロウとのやりとりのなかであらわす憤怒の塊だ。少々長いが以下そのまま紹介する。

 まとまった額になると、金は一人歩きを始める。自らの良心さえ持つようになる。金の力を制御するのは大変むずかしくなる。人は昔からいつもでも金で動かされる動物だった。人口の増加や、巨額の戦費や、日増しに重く激しくなっていく徴税-そういうもののおかげで人はますます金で左右されるようになっていった。世間の平均的な人間は疲弊し、怯えている。そして疲弊し怯えた人間には、理想を抱く余裕などない。家族のために食料を手に入れることで手一杯だ。この時代になって、社会のモラルも個人のモラルも恐ろしいばかりに地に落ちてしまった。内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ。大衆向けに生産されるものには高い品質など見あたらない。誰が長持ちするものをほしがるだろう? 人はただスタイルを交換していくだけだ。ものはどんどん流行遅れになっていくと人為的に思いこませ、新しい製品を買わせるインチキ商売が横行している。大量生産の製品についていえば、今年買ったものが古くさく感じられなかったら、来年には商品がさっぱり売れなくなってしまうのだ。我々は世界中でもっとも美しいキッチンを手にしているし、もっとも輝かしいバスルームを手にしている。しかしそのような見事に光り輝くキッチンで、平均的なアメリカの主婦たちは、まともな料理ひとつ作れやせんのだ。見事に光り輝くバスルームは腋臭止めや、下剤や、睡眠薬や、詐欺まがいの連中が作り出す化粧品という名のまがいものの置き場に成り果てている。我々は最高級の容器を作り上げたんだよ、ミスタ・マーロウ。しかしその中身はほとんどががらくただ。

 この言葉をマーロウは唖然としながら受け止める。気むずかしく批判精神に富むチャンドラーが、大富豪の口を通してこれを語りたかったのかどうか。研究者の間ではこうしたことも解釈されているのだろうが、どうもそんな気がする。同じく古典的なハードボイルド小説の有名作家、ロス・マクドナルドの作品のなかで主人公の探偵リュウ・アーチャーが語る文明批判も作者の価値観のあらわれだろう。
 大富豪の言葉に戻れば、『ロング・グッドバイ』の発表が1952年であることを考えると、この時代に生きたチャンドラーが向けた当時のアメリカ社会、アメリカ的な文明に対しての批判・嫌悪と同等のものが、その後半世紀を経て『沼地の記憶』のなかで語られていることになる。これはどう考えたらいいのか。
 時代はかわっても、「いま」は過去と比べると劣化している、社会は悪い方向に向かっているという見方をする人がそれなりにいるということにすぎないのか。「昔はよかった」と年配者がよく抱く感覚だ。また、昔から見れば劣化した現代でも、その「現代」がときがたって「昔」になったとき、新しい時代に生きる者からすれば、むしろよかったということになるのかもしれない。
 しかし、それは人間の感覚の問題であって、例えば自然環境を例にとれば明らかで、時代とともに破壊されつつあることは確かだろう。逆に言えば、じわじわと劣化していったとしても、現代に生きるものにとっては、その時点での変化への感覚しかないということである。考えてみれば恐ろしいことで、気がついたらとんでもないところへ来ているかもしれない。
 もちろん、なにをテーマにしてこう判断するかだが、ここでたまたま紹介した小説中の二人の言葉は、「ものづくり」や「教養」、「生活の質」といったものについて劣化を嘆き批判している。そして、この批判の視線の先には、内容より形や手段の重視、人間的な質感よりも機械的な効率の重視といったものがあると推測できる。

 誇りを持って生きる若き豆腐屋

 ここから先は小説から離れての議論だが、もちろん効率よく良質なものが安価にでき、また、手に入れられるに越したことはない。生産者としても消費者としても、互いに生き残るためにはこれを目指すしかないのかもしれない。となれば、結果として敗退していくもの、しわ寄せを食うものは必ず出てくるだろう。
 しかし、自由競争の社会であれば、それもまた仕方ないだろうというのが一般的な今の世の見方だ。あとは勝つか負けるか、あるいは成功するか否かということだが、考えてみると殺伐としている。

『豆腐屋の四季~ある青春の記録』
(松下竜一著、講談社)

 少々暗澹たる気持ちにもなる。が、「そんな頭で考えただけでわかったような気持ちになるな」と、教えてくれる本があり言葉がある。前回のこのコラムでも触れた作家、松下竜一氏の『豆腐屋の四季~ある青春の記録』(講談社)と、そのなかの一節だ。繰り返しになるが、豆腐屋の長男として産まれた松下氏は、体は弱く幼くして右目も失明する。
 それでも若いころから両親の仕事を手伝い、母親がなくなったあとは進学を諦めて家業に専念する。その生活の実体験を短歌にして詠みつづけ、日々の思いとともに一冊にまとめたのがこの本である。
 貧しく、辛く、しかし家族を思いながら理想と誇りをもって生き抜く若き豆腐屋の姿がそこに描かれている。そのなかにある日の夕食の献立が記されている。

 イカ(35円)とネギ(20円)のあえもの。
 京菜(5円)と豆腐を煮る。
 ジャガイモ(15円)の醤油煮。

 "お前も生産者なら、それを悲しめ"

 これは昭和36年当時のもので、父親と松下氏と2人の弟の4人家族の夕食だった。こうした生活者として弱く貧しいなかでも、彼は他者への思いやりをもちつづける。新聞の地方版に掲載されたエッセイの冒頭にこんな同氏のつぶやきがある。最愛の妻に対して珍しく向けた怒りの言葉だ。 

 妻がスーパーの目玉商品を大安値で買ってきたので、私はおこった。
 (なあ、おれたちが真夜中二時に起きて苦労して造り出した豆腐を商策のおとりにされ馬鹿値で売られたら、どんな気がする? おれたちの労働の価値が無意味にされてしまうのだ! それと同じじゃないか。お前の買ってきた卵にも、生産者のどれだけの心づかいと労働がこもっているかもしれない。それに馬鹿値をつける者は、労働する者の心を踏みにじっているのだ。お前も生産者なら、それを悲しめ)
  (中略)
 物価の中に、それを造りだし生み出した者の苦労や心づかいや愛情まで量ろうとする私の思いは、今のスーパー商戦の最中であまりにもこっけいな感傷かもしれぬ。


 時代は40年ほど前のことである。ナイーブといえばあまりにナイーブであり、本人ですらこっけいな感傷かもしれぬという。だが、これを「こっけいな感傷」と一蹴することはできない。
 汗水流して働くこと、地道にていねいにものをつくること、子供に人としての生き方を教えること……。こうした行為やそれらを価値あるものだという考えが、時とともに薄らいでいくような昨今、松下氏の言葉がずしりと心に響く。
 情報化社会と言われて久しい。情報が氾濫し、これをうまく使いこなせないと上手に生きていけないほどだ。そこで本誌のような電子メディアを含めて、情報伝達、収集の手段は多様化し、技術的な進化をつづける。だがそれによって伝えられる内容(社会実態そのものでもある)は、どうなのだろう。
 光り輝くキッチンで、必ずしもおいしい料理がつくられるわけではないように、また、映画も読書も電子端末で楽しめるようになっても、名作が届けられるとは限らない。もちろん光り輝く便利なキッチンはすばらしいし、電子端末の有用性と発展は否定しない。しかし、残念ながらその一方で捨て去られつつある重要なものがあるのではないか。
 また新しい年がやってきた。同じように年が過ぎていくように見えて微妙に変化しているなかで、真新しいものだけに目をとらわれるのでなく、価値あるもので、失ってはいけないものを見据えていきたい。
(編集部 川井 龍介)

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