風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/07/15

第4回 箸置きと日本かぶれ

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 仲良くしているアメリカ人にルイ・ローモリエロというおじさんがいる。イタリア系の移民の2世の彼は、もう仕事は数年前に引退して、中部フロリダのオーマンドビーチに瀟洒な家を建て、ポルトガル系のアメリカ人妻と2人で優雅な暮らしをしている。
 今は3人の孫もいて、すっかりお腹の出た好々爺といったおじいちゃんだが、年の割に冗談や皮肉も好きで、ちょっときつい妻の陰で、なにかいつも気の利いたことを言っている。ときどき私に、どこで見つけたのか「世界の仰天画像」のような写真をインターネットで送ってくる。なかには、"ブロンド美人集"といったかなりエロチックなものもあったりして、「このおっさん、なに考えてんだ」と、あきれることもある(もしかして、まちがって送ってしまったのかもしれないが)。

 ルイは、長い間、アメリカ軍と契約する貨物船の船長をつとめていた。船に乗ったのは若い頃からで、世界の港を渡り歩き、妻ともリスボンに寄港した際に知り合った。船乗りというのは、こうして各地を回っているから他国のことも相対的に見ている。同じアメリカ人でも、内陸部で生まれ育ち、ろくに海外へ出たことのない人たちと比べると、比較的偏見はないし、強いドルにも恵まれて、1950年代、60年代はとくにいい思いをしたようだ。
 60年代に、彼は日本にも立ち寄ったことがあった。好奇心の強い彼は、港を出て日本人のいる居酒屋の暖簾をくぐり、言葉は通じなくても港町の日本の労働者らと楽しい思いを何度かした。このことは以前から聞いていたが、つい先日、十数年ぶりにフロリダの彼の家を訪れ思い出話に花を咲かせていたとき、昔の経験のなかでもとりわけ印象に残っている話を聞かせてくれた。

チップをさらに要求するのかと思ったら……

 それは1961(昭和36)年、彼がまだ21歳でスーパータンカー(超大型タンカー)に乗っていたときのことだった。その船はペルシャ湾と日本の間を15日間かけて行き来して、ときどきフィリピンにも寄っていた。寄港先での自由時間は24時間。その合間に初めて歩いた日本の町が長崎の佐世保だったが、そこである出来事にであった。
 以下、彼が私にしてくれた話を日本語にしてまとめてみた。
「船を降りて町に出ると、何人ものかわいらしい女性が着物を着ているではないか。私はうれしくなって町中を歩いていたが、お腹がへったのでレストランを探し、一軒の店に入った。まず、靴を脱ぐように言われて、低いテーブルに案内されて、その下に足を入れた。
 ウェイトレスを待っていると、女性が注文を取りに来たので、私はすき焼きを食べることにした。これが何ともいえないくらい美味しい。このほか、出されたものすべてが美味しく、温かい酒(熱燗)もよかった。そのうち、ふと私は、テーブルにある箸を支えている小さなもの(箸置き)に目がいった。それは、美しい曲線を描く魚の形をしたものだった。
 食事を終え支払いを済ませた私は、周りを見回してちょっと考えた。ここは立派な大きなレストランで人もいっぱい入っている。もし、この美しい"魚"を失敬したら誰かに見られるだろうかと。いや、大丈夫だろう。そう思ってその"魚"を自分のポケットに入れた。しばらくして、ウェイトレスが代金のおつりをもってきた。
 私は、彼女のサービスにとても満足したことを示そうと、お皿の下にいくらかのお金(チップ)を置いてその場を去った。そして店を出て通りを歩きはじめると、うしろからカタ、カタと音が聞こえる。振り返ると、さっきのウェイトレスではないか。私を追ってきたのか。なんてことだ、あの美しい"魚"を追ってきたのか、どうすればいいんだ。走って逃げようか。いや、通りの人たちがそうさせないだろう。
 そう思いながら彼女が近くに来るのを待ち、ポケットのなかでその魚を握っていつでも返せるように準備した。すると、目の前に来た彼女は、さきほどお店で私がお皿の下に置いたお金(チップ)を私に手渡そうとする。
 なんなのか。私はものも言えないほど驚いた。お金はわずかな額だったから、これでは少ないと、暗に要求しているのかと思った。そこで私は、もう一方のポケットを手探りして、べつにお金をあげようとした。しかし、どうもおかしい。彼女は私にお金を手渡すと、何度も何度もお辞儀をしたのだ。あー、彼女はもっとチップを欲しいと言おうとしたのではなかった。こんなにたくさんチップをもらうことはできないと、その一部を私に返しに来たのだった。おかげで私は、あの"魚"を失敬したことを謝らずに済んだ」

もっと「日本かぶれ」になってもらおう!

 若き日のルイは、この若い女性の対応にいたく感心し、そういうこともあって二十数年前に、日本人である私に初めて会ったときも非常に好意的だった。いまでもこのことは鮮明に覚えているという。
 そして彼の感動は、別の形で私にも伝わってきた。この話を聞いたとき、私は日本人として胸にじーんとくるものがあった。謙虚さと慎ましさといった、日本人がもつ美徳を改めて教えられた気がした。イソップ童話の「金の斧、銀の斧」を思い出させるような話だ。
 昔の日本人は良かった、といったら言い過ぎだろうが、おそらくチップを受け取った若い女性と同じような対応をする勤労者は当時はたくさんいただろう。それがいつしか、お金とマニュアルが、働くものを支配してしまった。とはいっても、まだまだそういう倫理観というか、美意識を持っている人はいるだろうし、日本の社会には同様の美徳は残っている。接客態度にあらわれる謙虚さや丁寧さ、物作りに見られる細やかさや完成度の高さなど誇るところがたくさんある。
 昨今、急増する中国人観光客や日本のマンションを購入する中国人のことがよくメディアで取り上げられるが、彼らの日本に対する評価を見て「ああそうか」と、改めてこのことを実感する。「日本はきれいだから」、「日本製品はしっかりしているから」、「日本人はとても親切だから」などと口々に長所をあげてほめる。
 中国人のこうした動向に眉をひそめる人がいるが、もう少し大きく構えてみたらどうだろう。中国人に限ったことではないが、海外から来る人に日本のいいところを胸を張って見てもらったらいいのではないか。もちろん、ものを売り込むのに媚びるようなことは決してせず、あくまで日本の価値観に基づいて毅然と、そして自然に対応する。そこで「ああ、日本にはこんないいところがあるのか」と思ってもらい、それぞれの国に帰ってもらったらどうだろう。日本はこれまで製品を通じて評価されてきたが、日本の文化やライフスタイルでももっと評価されてしかるべきものがある。
 かつて日本人もアメリカやヨーロッパを訪れ、町並みの美しさや自由で率直なライフスタイルに憧れそれを真似た。それが目立ちすぎると「西洋かぶれ」、「アメリカかぶれ」と皮肉ったものだったが、その裏には羨望や劣等感が潜んでいた。そんな日本人を欧米人はどう感じていただろうか。
 立場を逆にして想像してみたらおもしろい。つまり、外国人が同じ外国人に「日本かぶれ」などと言われるのを聞いたら、それが皮肉であっても第三者の日本人としては決して悪い気はしないはずだ。ルイが半世紀前に感動したような出来事を今の日本にいる外国人にも味わってもらい、どんどん「日本かぶれ」になってもらおうではないか。
(編集部 川井 龍介)

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