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第11回 革命のエジプトに行ってきました
10/03/28

ジャーナリスト 田嶌徳弘

エジプトのムバラク大統領が、2011年2月11日、30年に及ぶ強権政治の座から引きずり降ろされた。FacebookやTwitterなどのソーシャル・ネットワーキング・システムを介した呼びかけに、若者たちが立ちあがり、わずか18日間の反政府デモによって大統領は退陣を表明。その民衆の力に、世界は衝撃を受けた。かつてカイロ特派員を4年間務めたジャーナリスト・田嶌徳弘氏が、政権崩壊後1週間のエジプトに飛び、民主化を勝ち取った喜びにあふれる市民の様子をリポートする。

 2010年末、北アフリカの小国、チュニジアの小さな街で起きた反政府デモは全土に広がり、2011年1月14日、ベンアリ大統領は亡命、23年間続いた政権が崩壊した。エジプトでは1月25日、カイロを中心に大規模な反政府デモが始まった。15年前までの4年間、毎日新聞の特派員としてカイロに住んでいた私は、デモの拠点となったタハリール広場からの映像がテレビで流れるたび、カイロの街並を思い出していた。アフリカ大陸にはその後、何度か取材で訪れたが、エジプトだけは行く機会がなかった。

ムバラク大統領のいないエジプトへ

 1990年代、ムバラク体制は盤石だった。「民主国家」だから新聞では使わなかったけど、独裁と言ってよかった。ムバラク大統領には何度か暗殺の危機があったが、その度に強権ぶりを発揮した。今回もチュニジアのように簡単に政権を手放すことはないだろう、と思っていた。だが、ムバラク大統領が「9月の任期まで務める」とテレビ演説した直後、国民が猛反発し、全土で100万人規模のデモが起きた。演説後の2月11日、ムバラクは退陣する。「本当に辞めたのか」。何度も自問した。突然、エジプトに行きたくなった。革命というものを、この目で見てみたかった。30年間もの間、大統領として君臨した男が、テロでも暗殺でもなく、民主的なデモで倒されるなんて。エジプトってそんな国だったっけ?
 最初にやったことは、東京-カイロ間の格安航空券をネットで見つけることだった。
 カイロの元特派員がカイロに行きたいと言っても、行かせてくれる新聞社はないだろう。有給休暇を取って、その間の仕事も仕上げて、イスタンブール経由カイロ行きのトルコ航空機に乗ったのは退陣から1週間後の2月18日だった。カイロへの唯一の直行便エジプト航空は運行を中止していた。モスクワ経由のアエロフロートは5万円を切る超格安価格だったが、モスクワ-カイロ便が少なく、日程が合わなかった。トルコ航空は7万5000円。まずまずだろう。ホテル?
 これもネットだ。実に簡単に、タハリール広場から徒歩5分、温水シャワー付き、そしてこれが重要なのだが、無線LAN完備(無料)のホテルが見つかった。7泊で2万8000円。これもまずまず。予約すると、ホテルからメールが届き、空港まで迎えに行くという。追加料金はなし。到着予定が19日の午前2時だったので、これは助かった。実は夜間外出禁止令(午前0時~6時)が出ていたため、迎えがないとホテルまでたどり着けるかわからなかった、というのはカイロについてからわかった。
 到着したカイロ空港第3ターミナルは新しく、15年前のイメージとは一変していた。だが、違いは新しいということだけではなかった。何かが引っかかるのだが、そのまま入国審査、税関を抜ける。深夜でも開いている銀行で両替をしておくべきだったが、ホテルの迎えの車に乗り込む。深夜のカイロなら都心まで1時間かかることはない。しかし、幹線道路は軍が戦車や装甲車を出して封鎖し、検問を実施していた。兵士の対応はきちんとしていたが、迂回させられた。これが3度ほど繰り返された。運転手はその度に道がわからなくなり、あちこちで道を聞く。こちらは早速、iPhoneを出して、グーグルマップを示し、「しばらくまっすぐ行ってから右」と伝える。これくらいはアラビア語で言える。何でカイロに着いたばかりなのに、地元のエジプト人に道を教えなくてはならないのだ、とは思いながら、ちょっと鼻が高い。ちなみにエジプトは、ソフトバンクの使い放題プランが適用されているから、安心だ(と思う)。

「1日遅かったね」

 ホテルに着いたのは午前4時ごろだった。16階建てビルの16階のワンフロアがホテルで、エレベーターは14階まで、あと2階は階段で上がるホテルだった。とはいえ、温水シャワーはあった(ちょろちょろしか出ないけど)。無線LANもあった(部屋では使えず、ロビーだけだったけど)。文句は言えない。ムバラク大統領退陣から8日後にカイロに着いたのだ。うん?
 何か、引っかかっていたことが分かった。あるはずのものがなかった。あってしかるべきものがなかった。空港からホテルまで、一度もムバラク大統領の写真、肖像を見ていない。空港の中にもなかった。その後、帰国するまで、街中で大統領の顔をみたことはなかった。

ホテルから見たカイロの街。霞んで見えるのはスモッグだけでなく、ハムシーン(砂嵐)が始まっているせい

 ニューヨークタイムズのコラムニスト、トーマス・フリードマンが、カイロ発の2月13日付けの記事で、若者たちが街中のムバラクの写真を剥がしている場面に遭遇したと書いていた。みな顔も見たくないから、と言うのだ。もう少し早くカイロに来ていれば、「消え行くムバラク大統領」の場面を見ることができただろう。フリードマンは元々中東の特派員だった。今は日本で言えば、論説委員か編集委員をしていて、もう長く中東から離れていたはずだが、早速やってきていたわけだ。朝食に間に合うように起きて、外を眺める。さすがは16階だ。ナイル川右岸にあるホテルからは、国営テレビのビルやラムセスヒルトンホテル、エジプト考古学博物館の一部やナイル川、中州のゲジラ島のカイロタワー、マリオットホテルなどが一望できる。だが、毎年春にやってくるハムシーン(砂嵐)が始まっているらしく、街は霞んで見える。
 街に出よう。その前に空港でできなかった両替をしなくては。フロントに一番近い銀行は?と聞くと、土曜日は銀行はどこもやってないと断言された。うーん、そうだったかも。カイロにいたのは15年前だったから、金曜日が休日というのは覚えていても、銀行は土曜日が休みというのは忘れていた。すると、ロビーにいた野球帽の青年が、「ATMが使えるかも」と声をかけてくれた。カードによって、できる場合もできない場合もある。しかし、エジプトでATMとは。確かに大統領が30年間変わらなくても、世の中変わりますよね。エジプトさん、失礼しました。しかも、一発でエジプトポンド札が出てきた。
 野球帽の青年はジェフといい、アメリカのテキサスから飛んできて、カイロ滞在はもう4日目になる。32歳の考古学者で、実は1年ほど前からエジプト旅行を計画していて、航空券も用意してあったけど、なかなか踏ん切りが付かなかったという。その踏ん切りを付けたのは、ムバラク退陣というニュースだった。やはり仲間はいるのだ。ジェフは前日の金曜日、タハリール広場で行われた大規模集会を見に行って、デジカメの写真を見せてくれながら、「すごい人だった」と話してくれた。「1日遅かったね」とも。広場には早く行きたいのだが、その前に毎日新聞のカイロ支局に顔を出す。なにしろ15年前まで4年間いたところなのだ。ビルも場所も変わっていない。当時のドライバーは今もドライバーだ。15歳年を取っていたが、元気だった。こちらもそれだけ年を取っている。なつかしさで涙が出そうだ。支局に行くときに乗ったタクシーはメーターが付いていた。しかも、そのメーターを作動させた。これは15年前にはなかった。

タハリール広場で売られていたカードとバッジ。バッジには「2011年1月25日」と、ムバラク大統領が退陣した日「2011年2月11日」の日付も

 タクシーは市内の近場なら5ポンド(70円)くらい。これは日本なら昭和30年代の料金だ。交通機関は総じてとても安い。地下鉄は全線1ポンド(14円)。さてさて、ようやくタハリール広場に到着した。金曜日の大規模デモは見逃したけれど、広場には大勢の人がいる。エジプトの国旗や、首から下げるカードを一つ1ポンドで売っている。カードには「若者たちの革命 2011年1月25日」とアラビア語で書かれていた。

私たちの国のためにペンキを塗ろう!

ペイントしてくれた青年たちと記念撮影

 カードを首から下げ、国旗を振っている家族連れが多い。売る方も買う方もニコニコして、みんな実にうれしそうなのだ。「ウエルカム」「来てくれてありがとう」「どこから?」すれ違うと誰もが声をかけてくる。突然、右の頬に冷たいものを感じた。動くな、とアラビア語で言われた(と思う)。その青年は赤と白と黒の絵の具を手にエジプトの三色旗を頬に描いた。もう仕方がない、次に差し出すのは左の頬と決まっている。顔にペイントなんてたぶん初めてだ。ワールドカップのときだってやらなかった。ところが、妙に気持ちいいのだ。

アーメルさんとその息子。ギプスが痛々しい

 ペイント付きだと、さらに声がかかる。女性は微笑みかけてくれ、日本語で「コニチワ」と言ってくる人も。やったぜ、と親指を突き上げる人、「ヤー、アンタ・マスリー!(もう、お前はエジプト人だ)」と言ってくる人も結構多かった。そこにまた声がかかった。「ニーハオ!」。おいおい、ちょっと待て。ニーハオ!と言われてニーハオ!と答えるわけにはいかない。中国人か?とは実によく聞かれた。15年前はそんなことはなかった。当時はフィリピン人に間違えられても、中国人には間違えられなかった。それだけ中国のプレゼンスが増しているのだろう。

ラムセス通りでペンキを塗る学生たち

 広場で腰を降ろすと、隣にいた親子連れが話しかけて来た。父親は左手にギプスをしていた。警察官に叩かれて骨折したという。もう3週間もタハリール広場に来続けているという。ギプスの男性はカイロの北東約100キロ、スエズ運河の南端にある都市、イスマイリヤから来たウッドーフ・アーメルさん(31)。毛布持参、夜は近くのモスクなどで過ごして来た。「まさか自分たちが本当に大統領を追い出せるとは思わなかった」と話す。「できるかもしれないと思ったのはいつ?」そう聞くと、「チュニジアの後。でも小さい国だから、エジプトは難しいと思っていた。けれど、チュニジアから始まった。最初の1人、そのチュニジア人は偉い。今も夢を見ている気がする。覚めたらムバラクがいたなんてね」

コルニーシュ通りでペンキを塗る学生たち

 タハリール広場からラムセス通りを歩いてホテルに戻る途中、歩道のへりで、「そこ気をつけて、塗ったばかりだから」と若い女性に声をかけられた。振り向くと笑い始めた。これはほっぺたの三色旗が原因だ。歩道の先を見ると、若いグループが歩道のへりを黒と白に塗り分けている。ペンキを塗っているのはアインシャムス大学の学生たちだった。その一人、ファトマ・ユーセフさんは「私たちはFor Your Egypt という運動を始めたばかり。まずできるところから」ということでペンキ塗りは6日前にスタートした。みな Facebookで集まったという。これがうわさの Facebook の威力か。

アレクサンドリアの駅前でペンキを塗る学生たち

 正直にいうと、エジプトの大学生はある意味特権階級で、自発的に道路を掃除するなんて、これまでは絶対と言っていいくらいなかったと思う。ファトマは「だって、自分たちの国なんだから、きれいにするのは当然でしょ」と言う。「じゃあ、なぜもっと前から始めなかったの?」と突っ込むのはやめた。誰にとっても、ムバラク政権のときは、「自分の国だ」という意識は持てなかっただろうから。学生たちのペンキ塗りはエジプトが生まれ変わったことをアピールしていた。ペンキ塗りはラムセス通りだけでなく、その後、ナイル川沿いのコルニーシュ通りでも、カイロ大学の学生たちがやっていた。
 カイロだけではなかった。その後訪ねた地中海岸のエジプト第2の都市、アレクサンドリアの駅前でも、ペンキ塗りが行われていた。エジプト南部の観光地、ルクソールに行ったあのアメリカ人青年によると、塗っている姿は見かけなかったけど、白と黒の塗り立てはあちことで見たという。ということは、エジプト全土で同時多発的にペンキ塗りが行われていると考えてもいいだろう。

120%確信、エジプトは変わった!

ナイル駅前の裁判所の前に置かれた戦車。みな記念撮影をしている

 最初の夕食を食べに行こう。にぎやかなところを歩けば、たぶん見つかるだろう。最初に地下鉄ナセル駅まで歩いた。駅の南東角には裁判所があり、その前に戦車が1輌あった。みな戦車に乗ったり、ポーズを取って、携帯電話で記念撮影している。そこで、こちらも撮り始めると、裁判所の入り口に立っていた警察官?裁判所職員?とにかく制服の男性が撮るなと言う。みな撮ってるよと指差すと、それならいい、だがこっちへ来いと手招きする。

タラアト・ハルブ広場でペイントされた女の子

 役人の手招きは、ろくなことがない。応じなければ、もっと悪い。最悪カメラのメモリーくらいは取られることを覚悟して近づくと、どこから来た、と聞くので日本から、と答えると、この状況をどう思う?と聞くので、すばらしい、と答えると、ムバラクは将軍としては偉大だったと言う。それだけだった。行っていいという。要するに、今回の革命を素直に喜べない種族なのだろう。
 ナセル駅から7月26日通りを東へ。この辺りは自動車部品の店が多い。だんだんにぎやかになってタラアト・ハルブ通りを右に折れ、真っ直ぐ行くとタハリール広場に出る。この通りは、銀座みたいなものだ。服や靴のブティックが並び、夜遅くまで人通りがある。付けたままになっている頬のペイントを見た人は誰でも笑顔を振りまいてくれる。この通りでも、ペイントサービスをやっていた。小さな女の子のペイントは、日本のおじさんより、確かにかわいい。

バーのカウンターに並んだケバブ、タヒーナとステラビール

 カイロは空気が乾いている。1日歩くとのどが乾く。何が言いたいかというと、ビールが飲め、食べることができ、料金が高くなく、英語のできる若い世代がやってきそうな店を、事前の知識なく一発で見つける方法があると思う?
 ある。それは勘だ。僕は迷うことなくドアを開けた。そこは古そうなバーレストラン。入るとカウンターとテーブル席に分かれ、左端のカウンター席に座る。地元のステラビール、ゴマペーストのタヒーナ、それにケバブ。エジプト産のステラビールもある。15年前のステラは最初から気が抜けている瓶が多々あった。今はそんなことはない。しかもおいしくなった。ウエイターも味がある。

ラドワを囲んでみんないい気分

 カウンター席でビールを飲んでいると、右隣の客がいなくなり、席が空いた。そこへ30歳前後のカップルが座った。女性の方は僕の頬のペイントを見て、早速うれしそうに話しかけてきた。ペイントをエサに釣りをしているような気がしてきた。いや、適当な店に入ったら、相手から話しかけてきたんだ、とも言えるけど。その女性はラドワといい、29歳。無論デモに参加していた。「ムバラクが退陣するかもと思えたのはいつ?」と聞いてみた。「誰も信じていなかった。そうね、1月の25日の後、たくさんの人が殺されたとき。私たちが一番不満に思っていたのは警察の腐敗。あいつら許せない。デモに参加したとき、隣の男性の姿が突然消えて、警察にぼこぼこにされた。そのとき、警察のひどさが自分のものとして理解できた。だめだ、このままじゃって。デモへの参加? ツイッターよ。みんな呼びかけていた。フェースブックはダメよ。ツイッターの方が早いし。ほら、あなたもこの人たちをフォローするといいわ。特にこの彼女が最高」と言って、ブラックベリーのツイッター画面を見せてくれた。「最初は私たちも退陣までは要求していなかった。でも、あまりに対応がひどいから、あれよあれよと言う間よ」。フェースブック派もツイッター派もいるようだ。両刀使いももちろんいる。ラドワたちはステラをラッパ飲みしていた。どうやらそれが彼らのスタイルらしかった。次の日から、毎晩のように会うことになる。

 まだ1日目が終わらない。それほど面白いことだらけなのだ。バーからホテルへと夜の街を歩いていた。タラアト・ハルブ通りは午後10時を過ぎても、車も人も絶えない。ある交差点を渡ったとき、何か違和感を感じた。カイロでは信号のない大きな交差点には必ず警察官がいて、交通整理をしている。その交差点にはもう1人いたのだ。そのもう1人というのは、エジプト三色旗のカードをぶら下げた青年だった。警察官が制止しようとしてもすり抜ける車はある。そんなとき警察官は大抵、仕方ないなという表情をして行かせてしまう。だが、その青年はホイッスルを鳴らしてすり抜けようとする車を停める。
 抗議するドライバー。だが青年は人差し指を左右に振って、ルールを守れ、と言っているように思えた(アラビア語はそこまでわかりません)。ドライバーが警察官に目をやると、本来の警察官は肩をすくめるだけだった。民間人が交通整理をすることは、これまでもあった。警察官のいない、たとえば路地などに車が集中して、にっちもさっちも行かなくなると、誰かが交通整理を始める。エジプト人の知恵だ。だが、大通りの警察官のいる交差点ではありえない。その青年は警察官を信用していない。そしてそのキビキビした動きにみな従っている。こんなことはかつてなかった。僕はその青年に駆け寄り、声をかけた。なぜ?
 エジプトは変わった、と言ったように思う。34歳の男だった。もう既に確信していたけれど、この青年はだめ押しだった。120%確信した。エジプトは変わったと。

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PROFILE

田嶌 徳弘
(たしま・のりひろ)

1954年、東京生まれ。埼玉大学数学科卒。80年、毎日新聞入社、大阪社会部、外信部を経て92年から96年までカイロ支局長。帰国後、サンデー毎日編集次長、英文毎日編集部長、図書編集部長などを歴任。10年6月の、ツイッターと連動する新しい日刊タブロイド紙「Mainichi RT」創刊時からRT編集部。著書に、中東のIT事情を中心にしたコラムをまとめた「砂漠のりんご」(ローカス)。

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