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Report 街・国・人
第8回 タンザニア"ポレポレ"フォトレポート
(上)住んでみましたダルエスサラーム
09/05/31

写真家 山森先人

アフリカ大陸の東側に位置するタンザニアは、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロや多くの野生動物が生息する国立公園を抱えた自然豊かな国だ。20世紀半ばまでドイツやイギリスの植民地であったこの国はいま、外国資本の参入や国際機関の援助によって発展途上国から脱却しようとしている。しかし一方で、経済格差は広がっている。現地に赴任した妻とともに、タンザニア最大の都市ダルエスサラームに住むことになった写真家・山森先人。夫として父親として、一家を支え奮闘する彼が、写真と文でこの国のいまを報告する。

毎日クタクタの「主夫」生活

ダルエスサラーム市内のランドマークの一つ・クロックタワー
 私は2008年8月上旬、タンザニアに妻の仕事の関係で渡った。3人の子供たちを含む家族5人の「主夫」として同行したのである。ここタンザニアでの主夫生活は、日本でのそれとはかなり勝手が違う。特に小学生の3人の子供たちを中心にまわる一日は、目も回るような忙しさだ。日本では、朝、学校に送り出し、学校では給食が出て、帰宅したら「外に遊びに行っておいでー」という生活だった。しかしここでは、学校へは私が車で送り迎えをしなければならない。午前中のインターナショナルスクールに持って行かせるスナックと帰宅してからの昼食を準備し、さらに午後には日本語補習校へも毎日送迎。そして夕食の準備もする。一日終わるともうクタクタだ。
 少々愚痴っぽくなってしまった。しかし、そんな嵐のような日々の生活の中でも、この国やここに暮らす人たちに関して、いろいろと感じ、考えされられた。何十年とこの地に暮らしている日本人の方々もいて、「たかだか10ヵ月くらいの生活で何が分かるのか!」と、お叱りを受けるかもしれない。ただ、「たかだか10ヵ月」だからこそ、そして「主夫」として暮らしているからこそ、感じ、考えることもある。以下、日常の生活のなかでの出来事を中心に紹介したいのだが、その前に、この国の地理的な位置を確認しておこう。

「タンザニア」=「タンガニーカ」+「ザンジバル」

今でも近海の漁に出る、紀元前から交易で活躍してきたダウ船
 アフリカ大陸の東側、インド洋に面しているタンザニアは、およそ南緯1度ー11度、東経30度ー40度を占める南半球の国である。といっても分かりづらい。地図でいうとアフリカ大陸の右下の方に大きな島があるのが思い浮かべば、あなたは相当なアフリカ通!? その島はディズニー映画の舞台にもなった「マダガスカル島」で、その少し左上の大陸に、タンザニアは基本的にはある。「基本的には」と書いたのは、もう少し細かい地図を見ると、その付近のインド洋上に小さな島々があるのがわかる。このなかに、ザンジバルと呼ばれる島があり、その中心にある古いアラブ風の街並みを中心にユネスコの「世界遺産」にも登録されている。現在のタンザニアは先に書いたマダガスカル島の少し左上の方の大陸側の「タンガニーカ」と、「ザンジバル」が合わさっている。そう、「タンガニーカ」+「ザンジバル」=「タンザニア」なのだ。
ダルエスサラーム市内中心部に残る古い建物
 私が住むのはこの国の沿岸部にあるダルエスサラームという街である。アラビア語で「平和の地」という意味を持つこの地名は耳にしたことのある人も多いと思う。19世紀後半ころから、この地域の中心都市として発展してきた。1961年タンガニーカが、1963年ザンジバルが独立。翌1964年、タンザニア連合共和国と改称した。1973年に法制上、首都は内陸部の都市、ドドマにとってかわったが、約250万人の人口を抱えるダルエスサラームは、タンザニア第一の都市である。

人懐っこい笑顔で「ジャンボ!」

ダルエスサラーム郊外、南アフリカ資本の巨大ショッピングセンター
 ダルエスサラーム市の中心街には、多くの商店や官庁が並び、ウィークデーのオフィスアワーを中心に、多くの人々が集まり活気を見せている。車の渋滞も慢性的で、信号機の整備の遅れなども合わさり、朝夕はさながら東京の交通渋滞か、あるいはそれ以上の混雑ぶりだ。この国への外国の援助機関や企業などの出先機関も、未だドドマよりもダルエスサラームに集中しており、南アフリカ系など外国資本のスーパーマーケットも多く見かける。「ここが開発途上国なの?」と疑いたくなるほど生活物資も揃っている。
 現在もいたるところでビルが建築されていて、都市として発展を続けているのがわかる。が、古くからの商店や住民が住む街の中心に足を踏み入れると、そこにはドイツの植民地時代から残っていると思われる威風堂々とした建物が建ち並び、当時の面影を未だ十分に残している。
器用に頭にモノをのせて運ぶ女性。やってみるとなかなか難しい
 中心街のもう一つの特徴に、インド人街の充実が挙げられるだろう。植民地化以前より、アラブ人とともにインド洋を渡って住み着いたインド系の人々が多く居住して、一大インド人コミュニティを形作ってきた。彼らの末裔が現在も多くの商店などを構え、ダルエスサラームの経済の中心を握っているようだ。インディア・ストリートと名づけられたその地域の中心道路沿いには、多くの電器店、雑貨店、宝石店などが軒を連ねている。
 到着してから家が見つかるまで約1ヵ月間は、中心街にあるホテルで暮らしていたが、そこでタンザニア人たちの人懐っこさに触れることができた。街を歩いていると、肌の色の違いで明らかに外国人と分かるからなのだろうが、白い歯が目立つ笑顔で「ジャンボ!(こんにちは!)」と声をかけられる。遠くからでも目が合えば、右手の親指を立て、にっこりとしてくれる。また、慢性的なひどい交通渋滞でも、思ったよりクラクションが鳴り響くことが少ない。少しでも車を前進させるため、皆、車間をギリギリにして運転するが、譲り合ったりする光景もよく見られる。以前訪れたことのあるアジアの国々では、四六時中、車のクラクションが聞こえていたのとはずいぶんちがう。

「俺が大家だ!」―家探しに悪戦苦闘

市内へ向かう主要道路の大渋滞
 しかし、そういう見方も、徐々にではあるが変化してきた。到着して、子供たちの学校の手続きなどと並行してしなければならなかったことは、「家」を探すことだった。現在我が家が居を構えるのは、いわゆる外国人が多く住む住宅地だ。中心街からは車で15分ほどのところにある。夫婦2人の生活であれば街の中心部に住み、地元の生活に浸っても良い、と考えていた。しかし、平和であるといっても、中心街では少しずつ物取りや強盗などが増えていると聞き、子供3人の安全面を考慮し、比較的安全と言われているその住宅地を中心に家探しを始めた。
 多くの国際援助機関や外国企業などが進出し、物価もタンザニアの他の地域と比べかなり高いここダルエスサラームでは、地元の人たちの生活も随分きついようだ。そのため、治安も悪くなっているのだろう。ただ、車を持つ人が増えているということは、住む人すべての生活が苦しいという訳ではなさそうだ。つまり、豊かな人はより豊かになり、貧しい人との格差が広がっているように感じる。そこでまた治安も悪くなる、という悪循環を繰り返しているのか。
行き交う車の間を縫いながら、身体の不自由な人が喜捨を求めている
 話を我が家の家探しに戻そう。タンザニアに到着したのはこちらの学校の新年度が始まる8月で、海外などから新たに流入した人たちの動きも落ち着く時期だった。従って、家探しは難航すると思われたが、到着して約1ヵ月後にはある集合住宅(アパートメント)が見つかり、そこへ引越しした。但し、寝室が2つしかないいわゆる2ベッドルームだった。こちらの家にはもちろん畳の部屋などは無い。必然的にベッドでの生活なので、日本人にはデッドスペースが多いと感じ、家族5人で2ベッドルームはかなりきついものがあった。そこで入居する際、そのアパートメントのタンザニア人の大家と「このアパートの3ベッドルームに空きが出たら、最優先で移ること」、という約束を交わした。
 9月初めに入居して、10月の終わり頃に3ベッドルームが空いたようだったが、すぐに新たな入居者が入った。「うちより先に予約があったのだろう」くらいに思い、気にせず空きを待った。11月終わり頃に、ある3ベッドルームが空くということが、同じアパートに住む住人の噂で分かった。3度目くらいの「空き情報」なので、これは痺れを切らして遂に大家に尋ねた。「うちが最優先で3ベッドルームに移れると約束してくれたが、今回は移れるんだよね?」。ところがどっこい返ってきた答えは、「俺が大家で君たちは店子だ。入居に関しては指図するな」という。更に、「嫌なら出てくれ」とのこと。愕然とした。
 家自体は広いものだった。日本での我が家は3DKのアパートで、2段ベッドの横に布団を2枚敷き、家族5人が一つの部屋で寝ていた。しかし、先に説明したとおり、こちらの家の内容では、日本にいたときよりも狭い環境で寝起きしている錯覚さえ覚える。その上にこの大家の態度である。ここでの3ベッドルームへの移動は無理だとあきらめ、新たな家探しを始めることにした。

いくら"ポレポレ"気質だからといって…

市内のあちこちで大きなビルの建築が次々と始まる
 しかし、この時期は年末にあたったためか、最初の時より格段に苦労した。外国人の移動が極端に少ない時期だったということと、家賃が高騰していたからだ。現在、ダルエスサラームの住宅事情は圧倒的な売り手市場になっている。つまり、家主が強いのだ。明確には分からないが、いくつかの理由は考えられる。一つは、2008年末からの世界的な不景気で以前よりは少なくなっているとはいえ、開発途上のこの国にはまだまだビジネスチャンスがあり、ヨーロッパや中東の国々、あるいは他のアフリカ諸国からの企業進出が多いこと。また、援助関係機関の進出も多い。結局、需要に対して供給が足りなくなっているので、相場が上がっているという事実があるようだ。
 子供たちの通うインターナショナルスクールの親仲間たちの間でも、家賃の話は大いに盛り上がる。皆、口をそろえて「どうかしてるよ、ダルエスサラームは!」と嘆いている。各国の企業や国際援助機関が入り、この国を盛り上げようとしていることは、ある意味歓迎されることなのかもしれない。しかし、それがこうした物価の高騰を招いている一つの原因になっていることも事実で、首を傾げてしまうこともある。

 そんな状況ながらも、あと2週間でアパートを出なければならないという時期になって、ようやく1軒の家を見つけることができた。しかし…。ここから第2の悲劇が始まる。見つけた家は、3ベッドルームで我が家にとっては願ったとおりの物件だった。が、網戸は破れ、トイレは水漏れ、キッチンは使えないというような状況だった。引越しするまで10日余りの日にちがあったので、改修をしてから入居できるようにお願いしたのだが、その改修が間に合わなかった…。その家はこちらでは「コンパウンド」と呼ばれる、広い敷地にいくつか一軒家が入っている内の1軒で、同じコンパウンド内の他の家の改修もしていたため、担当していたタンザニア人の技術者も大変ではあったと思う。しかし、「いつ終わる?」と尋ねたら「5日もあれば」と最初に言ったのが、6日、1週間、10日になる。とうとう「嘘ついたの?」と聞くと、「ごめん」と言われた…。
 タンザニアをはじめとする東アフリカ一帯で話されているスワヒリ語の中に、「ポレポレ」という言葉がある。「のんびり行こうよ」というような意味だが、「ポレポレ」も程が過ぎる!と感じてしまった。

「僕らの国には米も果物も野菜も魚もなんでもある」

豊富な種類の野菜が並ぶ、市内中心部のキスツ市場
 その後、我が家は再びホテル暮らしに逆戻りした。そこから子供たちを学校に送り、妻が仕事の都合をつけて、また2人で家探し。たまたま空きの情報が入った今の家に移ることができたのは2009年の2月上旬だった。現在は多少の問題はあるものの、幸い快適に暮らすことができている。
 この家探しを通し、いろいろな事を考えた。「タンザニアは南緯1度ー11度に位置している」と書いた。緯度だけ見れば、「赤道近くで暑い国なのでは」と思われるかもしれない。確かにここダルエスサラームなど、海抜が0メートルに近く沿岸部に位置している場所は1年を通して暑く、湿気もある。しかし、タンザニアの国土の多くは高原地帯であり、気候的には一年のうちに涼しい、あるいは寒い場所などもある。とは言っても、未だに氷河が残るキリマンジャロ山の頂上付近などは別として、凍死するほど寒くなる場所もない。またマンゴーや椰子などの木もたくさん生え、季節ごとにはその他の果物類なども豊富に出回る。人が暮らすには意外に過ごしやすい国であるようだ。
キスツ市場に並ぶコメ 水を少し多めに炊けばおにぎりも作れる
 旱魃の影響で農作物が採れなかった時など、数例あると聞いたことはあるが、この国で餓死、或いは凍死した、などという話はほとんど聞かない。生きてはいけるのだ。「ポレポレ」精神はこのような気候、豊穣な国土で、必然的に生まれたのではないかと思う。そして、「嘘をつく」、「時間に遅れる」など日本人にとっては小さい頃から「いけないこと」と教えられる道徳的なものも、そんな中ではあまり無くても気にならなかったのだと思う。そのようなことを「しても」「されても」、こちらの人たちの多くは驚くほど悪びれず、怒りもしないのだ。それが普通の感覚なのである。
日本の援助でかけられた橋。欄干には「富士山」が…。
 そこに、かなり昔から、アラブ人やインド人、そして白人が入ってきた。のんびりと暮らしていたこの地の人たちは、新しい技術やお金などといった、外からの新しいものごとに魅入られたのではないか?それが現在もさらに大きくなっている、貧富の差の拡大などに繋がっているように思える。
 我が家に手伝いに来てくれる自称60歳のおばさんがよく言う。「お金は危険よ。今のタンザニア、特にダルエスサラームは全てがお金になっている」と。
「僕らの国には米も果物も野菜も魚もなんでもある。なんでこんなに外国人が入ってくるんだ?」と言ったのは、仲良くなったタクシードライバーのベッカー君。しかし、その彼の顧客は外国人が多いのも事実だ。様々な矛盾が見えてくる…。

(続く)

補足) タンザニア 奴隷貿易と植民地支配の歴史

 タンザニアで最も日本人に知られているのは何と言っても、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山だろう。コーヒーのブランド名にもなっていて馴染み深い。毎年日本人の登山客も多く訪れており、1987年にはこのキリマンジャロ山を含むキリマンジャロ国立公園も世界遺産に登録されている。そして、世界的にも有名なセレンゲティをはじめとする数ある国立公園では、ライオンやキリン、象など多くの野生動物を見ることができる。タンザニアを訪れる観光客の目的の多くは、この野生動物を見るサファリであるとも言えるだろう。
 歴史的には、今も沿岸部の漁師などが使用しているダウ船という帆掛け船が、紀元前からアラブ、ペルシャ、インドなどと、インド洋西海域のモンスーンを利用して往復、交易していたと考えられている。この船を使った貿易での物資の他に、イスラム教も伝わってきたのだ。7世紀ころからは沿岸部にアラブ人が多く住む街が形成された。そして特にザンジバルには、多くのアラブ人たちが住み着いたため、先に書いた「アラブ風」の街並みが今も残っている。アラブ人との交流が盛んになるとともに大規模な奴隷貿易も始まった。数々の悲劇を生んだ奴隷制度の象徴となっている南北米大陸の奴隷貿易は、15世紀頃から始まったとされており、その中心は西アフリカ、中央アフリカからの黒人だった。現在のタンザニアなどの東アフリカでは、それよりも何世紀も前に多くの黒人が奴隷として、アラビア半島やインド、インド洋諸島に送られていたのだ。
 時代が下り15世紀後半にはヴァスコ・ダ・ガマの回航からポルトガルが、東アフリカ世界へ入り込んだ。これが、20世紀まで続く西欧人のアフリカ侵略と植民地化の波が、現在のタンザニアを含む東アフリカへも来た始まりとも考えられる。今も続くアフリカ大陸の抱える負のイメージを決定的にしたのは、1884年ー1885年にドイツで開かれたベルリン会議だったと考えられる。そこでは、当時隆盛を誇っていたドイツ、イギリス、ポルトガル、フランスなどの西欧諸国が自分たちの都合でアフリカ大陸を分割、植民地の境界線を引いていった。それは、その土地に住むアフリカ人たちのそれまでの文化や生活、権利などを無視したかたちで行われ、当時の境界線が現在のアフリカ諸国の国境線に、基本的にはなっている。そのことが、アフリカ諸国での部族紛争などにも少なくない影響を与えているようだ。

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PROFILE

山森先人
(やまもり さきひと)

1966年生まれ。慶応大学文学部卒業後、新聞社に勤務。2007年よりフリーの写真家。現在は「主夫」と「写真家」の『二足の草鞋』を履く。タンザニアでの生活はブログ「ポレポレとうちゃん」で日々更新中。

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