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Report 街・国・人
第4回 モントルー・ジャズ・フェスティバル
06/07/15

編集部 川井 龍介

スイスのレマン湖のほとりの小さなまち、モントルー。ここで毎年夏に開かれる「モントルー・ジャズ・フェスティバル」は今年で40周年を迎える。半月にわたって連日コンサートが開かれ、湖畔では屋台や出店がならびにぎわいをみせる。日本では音楽ファンにしか知られていない伝統のフェスタは、音楽を中心とした世代を超えた楽しみの場でもある。

 モントルー(Montreux)という名前は、ジャズファンならばきっと一度は耳にしたことがあるだろう。この地で行われたライブ演奏の数々が、これまでモントルーの名前を冠して、レコード、CDになって世に出ているからである。私の場合も、それほど濃いジャズファンではないが、よく聴いたLPレコードのなかにトミー・フラナガンというピアニストによる1977年のモントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブ盤があった。聴衆の拍手がひびく臨場感あふれる録音と華やかな演奏に惹かれたものだった。

ドイツ-アルゼンチン戦で興奮するドイツサポーター

 だからモントルーという地名は独特の響きがあり、いつかは行ってみたいと思っていたのだが、この夏ひょんなことからその機会が訪れた。話は多少長くなるが、きっかけは知人からドイツでのワールドカップのチケットをいただいたことだった。観戦することになったのは、6月末に行われた準々決勝の1試合(結果としてドイツーアルゼンチン戦という好カードになった)で、場所は首都ベルリン。
 そこでおもいついたのが、ついでにヴァン・モリソンのコンサートは観られないものかと。来日したこともなければ、する予定もない唯一の大物アーティストである彼は、欧米では頻繁にライブ活動をつづけている。ならば、この機会に彼の歌を生で聴くことができるかもしれない。ジャズ、リズム&ブルース、ロック、そしてアイルランド音楽を織り交ぜた彼のヴォーカルに長いこと魅了されていたものにとってはまたとない機会に思えた。

メイン会場近くのにぎわい

 早速、ワールドカップ期間中のヨーロッパでの彼のライブがないか調べてみると、ロンドン、スペインのビルバオ、そしてモントルーという3ヵ所でコンサートが行われている。そのなかで地理的にも日程的にも都合がよく、さらにヴァン以外にもさまざまな音楽シーンを経験できるという点でモントルーに出演する彼のショーを観ることにした。
 幸いにして、現地での取材パスを取得することもでき、意気揚々とベルリンでの観戦を終えて風光明媚なモントルーへ向かう予定だった。ところがそうはうまくいかなかった。ベルリンで腰を痛めて、ほとんどぎっくり腰状態になってしまったのだ。顔を洗うのも靴下を履くのも難しくなり、時折激痛に襲われるという情けない姿になってしまった。
 一時は、日本へ帰ろうかとも思ったのだが、たぶんその長旅にも耐えられないだろう。同じ痛むのなら行ってしまおうと、ベルリンを後にして、予定通りミラノを経由してジュネーブに入った。日本からの往復を含めたアリタリア航空の安売りチケットなので、途中どこへ移動するのにもだいたいミラノを経由しなくてはいけないことになっている。
 ジュネーブ空港からモントルーまでは、列車で1時間余り。一等が50スイスフラン(CHF)、2等が30CHF程度だったと記憶している。見てくれの違いはあるが、たいした混雑もなく2等に乗ってなんとか無事目的地にたどり着くことができた。
 地図を見ていただければわかるように、ジュネーブという町はレマン湖の西端に位置していて、ここから湖の北側に沿って東に弧を描くように進むとモントルーがある。湖にヨットやボートが浮いている一方、山側をみると、木造の三角屋根の家が点在し、窓辺にピンクや朱色の花を咲かせている。絵はがきにでてくるような美しい景色だが、時折停車する駅の近くの線路沿いには、スプレーによるものらしい判読不明の文字や絵の落書きがあるのもまた現在のスイスである。

レマン湖のほとりに並ぶ屋台や出店

湖畔の屋台、出店

 モントルー駅のある場所から湖畔に向かっては傾斜になっていて、坂を降りてゆくと道沿いにホテルが建ち並んでいる。日本の熱海の駅から海へと下がる地形につくりが似ている。湖畔沿いの古いホテルにたどり着くと、度重なる車のクラクションと、奇声が聞こえる。みると、窓から身体を乗り出してポルトガルの国旗を振っている。サッカーでイングランドを破った直後のポルトガルの勝利を祝っていたのだ。
 すでに午後8時を過ぎているが、まだ十分外は明るく、この日は土曜日とあってか湖の近くには途切れることなく人々が行き来している。うわさで聞いたとおり、たくさんの屋台や出店のテント屋根がホテルのバルコニーから見えた。元気ならば直ぐにとんでいくところだったが、痛みと不自由な身体ではどうしようもない。

湖畔のにぎわい

 杖があれば多少でも助けになるだろうと、ここまでの道すがら考えていたので、ホテルのフロントにいる初老の男性に「杖があったら貸してもらえないだろうか」と、尋ねてみた。すると、彼が「これを使ってください。祖母が使っていた物ですよ」と、親切にも古い杖を差し出してくれた。ありがたいではないか。丁重に礼を述べて、手元が丸くなった、細身だがしっかりした木の杖を借りて歩き出した。
 天気は快晴、西日が反射したまぶしいくらいの湖面と対岸の山肌を眺めながら、ようやく、レマン湖にたどり着いたことになんともいえない安堵感を覚えた。

一流スターたちが一堂に会す―これぞ醍醐味!!

熱気あるオーデトリアム・ストラビンスキー

 フェスティバルは、湖に沿った約1キロほどの一帯が“会場”となっていた。いくつかの建物や広場、そして路上でさまざまな催し物が開かれる。コンサートは、メインのオーデトリアム・ストラビンスキー(Auditorium Stravinski)をはじめ、マイルス・デイビス・ホール(Miles Davis Hall)、カジノ・バリエール・モントルー(Casino Barrière Montreux)の3ヵ所で毎夜、並行して開催される。
 ストラビンスキーは、3500人を収容し、大物アーティストが単独でステージを行ったり、あるいは同じ日に時間をずらして連続して何人かが登場したり、そのパターンもいくつかある。私が観たB.B.キングのステージでは、別の会場や別の日に登場するアーティストが最後に彼と一緒にセッションを組んだ。その顔ぶれをみると、ボーカルではグラディス・ナイトやランディー・クロフォードなど、このほかサックスのデビッド・サンボーン、キーボードのジョー・サンプル、ギターのジョン・マクラフリンなど、いずれも単独で大きなコンサートを開くスターの面々が集合するという豪華な締めくくりとなった。このへんがフェスティバルならではの醍醐味だろう。
 かつてはこのモントルーでも名演を残したトランペッター、マイルスの名前を冠したマイルス・デイビス・ホールは、ストラビンスキーと同じ建物のなかにあって2000人を収容できる。ここは現代的な、新しいトレンドをつくるアーティストたちが登場する場でもある。ちょっと尖っているサウンドの実験場でもあり、聴衆にも若者が多い。日本からも、海外で評価の高い、 SOIL & “PIMP” SESSIONSというグループが今回出演することになっていた。

モントルーのカジノ入り口

 これら2つのホールから約1キロほど離れたところにあるのが、カジノ・バリエール。実際のカジノのなかにあるこのホールでは、アコースティックなジャズを中心に、ベテランながら、古びることない音楽を追求する、味のある大物アーティストが登場する。ヴァン・モリソン、ダイアナ・クラール、チック・コリアといった今年の出演者のラインナップをみれば、ああなるほど、と納得されるファンは多いだろう。席数も1000ほどでアーティストへの距離は近い。もっとも“大人の音楽”といったアーティストを楽しむ場であり、聴衆もそれなりの年齢の人が中心となる。
 私がヴァン・モリソンを聴いたのもこのホールで、席について周りを見ると、中高年がほとんどだった。日本人と思われる聴衆は見かけなかったが、あとになってキャロル久末さんもこのライブを見ていたと聞いた。バイリンガルDJの先駆けのような存在である彼女は、BS放送での番組取材でモントルーを訪れていた。フェスティバルのためのメディア・センターで偶然彼女にあったのだが、日本からの取材者ということで、こちらが取材されてしまった。

「終わってほしくない」、そう思える“大人”のステージ

ステージに立つヴァン・モリソン

 話はヴァン・モリソンに戻るが、サングラスのようなメガネをかけて黒い上下のスーツに帽子をかぶって登場した彼は、予想していたよりも小柄だったが、その味のある歌唱力には改めて聴き入った。ステージでは、軽く腕を振ってリズムをとるくらいのほかは、あまり身体を動かすことなく、威風堂々といった姿で歌い、ギターを弾き、あるときはサックスやハーモニカを吹いた。ときどき、サンキューといいながら一言二言話すくらいで、余計なおしゃべりはほとんどない。うわさ通りの人物であった。
 カントリー色を出した最近のアルバムからの曲を披露したり、もう数十年前のヒット曲でありながらいまも斬新にきこえる「ムーン・ダンス」といったしゃれた曲など、ただひたすら少し上を向くようにして彼は歌いつづけた。本人の希望なのだろうか、彼のバンドメンバー(コーラス、ギター、ベース、ドラム、キーボード、バイオリン)にはスポットライトがあたるものの、ヴァン自身の表情が明るみにでることはついぞなかった。
 最後と思われる曲でステージをあとにして、しばらくして再び姿を現したが、聴衆のアンコールの拍手には応えることなくショーは終わった。
「すっごい、かっこいいな」
 隣にいたメディア関係者と思われる男性が、いきなり私に話しかけてきた。
「その通りだ」
 日本では決してみることができなかった彼のステージに、胸が高鳴る気持ちがあったのはもちろんだが、とくに「世界の果てで、私は座礁してしまった」と歌う「Stranded」という曲のゆったりとした情緒的なメロディーを生で聴いたときは、「ああ、とうとうここまできたか」という感慨があった。キャロル久末さんと話したとき、「終わってほしくないと思えるようなコンサートは、あまりないですからね」と私が言うと、彼女も「そうですね」と共感してくれた。

コンテストやワークショップ プロとの交流が楽しい!!

野外の無料コンサート

 これらの有料のコンサートのほかに、昼間から湖畔では無料の演奏も行われている。屋台や出店がすぐそばに並んでいるので、散歩の途中に足を止めて楽しむのもよし、ビールを片手にリラックスして聴いてもいい。実力派のビッグ・バンドが登場したり、モントルー音楽学校の学生による演奏もある。野外のライブならでは開放感にひたれる。

夜通しつづくJazz Caféのライブ

 屋内でも、夜から深夜にかけてジャム・セッションを特徴としたMontreux Jazz Café や、新人や新しい試みの音楽を紹介することを目的としたMDH Club がある。ここは18歳未満は入場禁止で、夜を徹して若い大人たちが集っている。 
 このほか、ライブやコンサートとはべつに、フェスティバル中には、ヴォーカルやピアノ、ギターのコンテストが行われる。これらも無料で観ることができる。私は、ヴォーカル・コンテストの準決勝を観る機会があったが、審査委員長はこの夜ライブを控えた、ジャズヴォーカリストのアル・ジャロウだった。ヨーロッパの各国やアメリカ、オーストラリアからやってきた女性7人と男性1人の計8人がステージに上がって2曲ずつを披露した。それぞれプロとして歌っている人たちらしいが、個性や可能性を審査員の気分で聞き込んでみるのもおもしろかった。

ヴォーカル・コンテスト。アル・ジャロウ(左)が審査

 アル・ジャロウのように自らのコンサートでモントルーを訪れているアーティストが、アマチュア・ミュージシャンのために音楽テクニックなどを教えるワークショップも開かれる。第一線で活躍するプロと交わる絶好の機会でもあり、B.B.キングやデビッド・サンボーンといった大物が自ら参加する異色の試みである。

ジャズ・フェスタでは通貨も「JAZZ」

フェスティバルへの駐車場案内

 こうしてみると、まさにプログラムにそって音楽三昧の時間を過ごすことができるわけだが、お祭り的な要素もたっぷり味わえる。ずらりと並んだ小さな土産物屋や屋台の数々はその主役である。この種の店は東西を問わず、品物はB級、C級であっても、割り切って買うところに楽しみがある。
 民芸品やTシャツ、アクセサリーや絵や写真、スイスにゆかりのあるものとは思えないが、それはそれで愛嬌がある。食べるものはインターナショナルで、シシカバブやパエリア、中華にピザにシュラスコ、それにアイスクリームやビールと豊富だ。スイスは物価が高いといわれるだけあって、屋台といっても決して安くはないし、味は正直言ってまあまあといったところだろうか。

湖畔にせり出した涼しげなカフェ

 しかし、レストランで食べるよりはるかにコストパフォーマンスは高い。それに、好きな物を買って湖畔にある仮設のベンチで涼みながら食べる方が祭りの気分も高まるというものだ。
 ところで、これだけたくさんある店では、直接スイスフランは使えない。どういうことかというと、まずはここだけで通用する“地域通貨”に両替しなくてはいけない。この単位が「JAZZ」というからおもしろい。1フラン=1JAZZで、5円玉のような硬貨が用意されている。両替所は至る所にあり、決して不便は感じない。ちなみに、生ビールは5JAZZ(約470円)だからそれほど高くはない。

両替所 ここで"JAZZ"に替える

 会場から離れるところでの観光と音楽を結びつけた企画もある。ひとつは目の前のレマン湖を船で遊覧しながらライブ音楽を聴く「モントルー・ジャズ・ボート」。もうひとつが、モントルー駅から列車に乗ってアルプスの山々をみながら、こちらも生演奏を聴くという列車ツアー。それぞれ予約制でほぼ半日かけて船や列車と音楽を楽しむという粋な企画だ。

ジャズを聴きながらの列車

 私は、試しに鉄道によるツアーに参加してみた。午後出発して、列車は行きつ戻りつしながら眼下に湖を見下ろし高度を上げていく。この時は、ジプシー・スウィング的なバンドとデキシーランド・ジャズ風の二つのバンドが同乗し、いくつかある車両を順番に回っていく。日本でも、青森の五能線で三味線の生演奏を聴かせる特別列車があるが、車窓の景色が変わっていくなかでのライブはなかなか旅情を盛り上げてくれる。
 途中、グシュタッドという観光地で一旦下りて、まち中を散策して一服。用意されたワインにパン、チーズを屋外でつまみながらここでまた演奏を聴く。しばらく自由時間を挟んでまたモントルー駅に帰って行くというスケジュールになっている。

船からみたシオン城

 音楽から離れて観光しても、観るべき物はいくらでもある。ずぐ近くには湖の縁にたつ中世の古城であるシオン城があり、またとなりのヴェヴェイという町は晩年チャーリー・チャップリンが暮らしたことでも知られ、彼の銅像があるほか、世界的食品メーカー、ネスレが本社を構え、ワインの産地としても知られる。

日本でもDVDで見られる「モントルー」

 ここでフェスティバルの歴史を簡単に振り返ってみたい。始まりは1967年に遡る。当時、地元の観光局につとめるクロード・ノブスという人物が発案者であり、その後今日までこの祭りをプロデュースしてきた。モントルー近くで生まれ、最初は料理人として名前をあげた彼は、熱烈なジャズファンでもあった。観光局の職員として、モントルーに人々を惹きつけようとあれこれ模索し、最終的にジャズ・フェスティバルの開催を企画。あるとき仕事でニューヨークを訪れたのを機に、大手のアトランティック・レコードの取締役に直談判して、協力をとりつけるなどしてこのフェスティバルをはじめた。
 この時の予算はわずか10,000フラン。それが徐々に規模を拡大していき、いまでは1,800万フランに膨らんでいる。この発展の過程で運営の母体は、モントルーの観光局からThe Fondation du Festival de Jazz de Montreux (Montruex Jazz Festival Foundation)という非営利団体にかわった。
 ふだんは人口2万人余りのまちだが、フェスティバル期間中には10倍以上にふくれあがる。一方、参加ミュージシャンも、ジャズを中心に有名どころはほとんどこの地を訪れ、その時のライブはレコード化されていった。こうしてモントルーはひとつのブランドにもなり、これまでブラジルやアメリカ、東京をはじめ世界各地で「モントルー・ジャズ」が開かれるようになった。

レジェンズ/ライヴ・アット・モントルー1997

 過去に行われたライブは記録映像として残されているが、これらは徐々にDVD化されて日本でも昨年からビデオアーツ・ミュージック(本社・東京港区)から販売されている。もちろん今は亡きアーティストの記録もあり、いかにモントルー・ジャズの歴史が層の厚いものかがここから伝わってくるだろう。
 最後に、これはキャロル久末さんから聞いた話だが、ある日本人の年配夫婦が今回のフェスティバルにやってきていた。夫である男性が彼女に語ったところでは、モントルーに来たかったという長年の夢がようやくかなったという。日本では馴染みは薄いようだが、音楽好きでなくても、また音楽好きならなおさらのこと、旅の楽しみを兼ねて一度は訪れてみる価値があるようだ。

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PROFILE

川井 龍介

「風」編集長。1956年神奈川県生まれ。慶応大学法学部卒。毎日新聞記者を経てノンフィクションを中心に、都市・住宅、音楽分野で執筆。主な編・著書に『122対0の青春』(講談社文庫)、『福祉のしごと』(旬報社)、『これでも終の住処を買いますか』(新潮OH!文庫)など。近刊に『身体にいい家、悪い家』(前田智幸との共著、新潮社)

122対0の青春

『122対0の青春』
(講談社文庫)

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参考Webサイト:

1スイスフラン=約93円(7/14現在)

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