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Report 街・国・人
第3回 南海の楽園と被曝のトラウマ
05/10/31

教育ジャーナリスト 渡辺 幸重

美しい島々が輪のように並ぶことから「太平洋に浮かぶ真珠の首飾り」 と呼ばれる南太平洋のマーシャル諸島。しかし半世紀ほど前、ビキニ環礁などで米国の核実験が繰り返され、この「南海の楽園」は放射能で汚染された。被曝したロンゲラップ島の人々は、いまも心身のキズを抱えながら他の島で故郷に帰る日を待っている。NGOのメンバーとして現地を訪れた渡辺幸重氏が、島民との交流を通して島の暮らしや今後の課題を伝える。

マーシャル諸島の首都、マジュロ
(撮影:島田興生)

「南海の楽園、ヤシの木陰でランデブー」——そんな言葉で太平洋の島々のイメージを語る人がいたら用心した方がいい。ヤシの木の下ほど危ないところはないからだ。愛を語らっているうちにヤシの実が頭に落ちてきて、打ち所が悪ければ命を落とすことにもなりかねない。私は、マーシャル諸島に通っているうちに何度も注意され、ヤシの木を避けるか、上を見ながら歩くようになった。
 ことほどさように、見ると聞くのでは大違い。マーシャル諸島に行ってきた、と言うと、ほとんどすべての人から「のんびりできていいね」という言葉が返ってくるのだが、現代の南の島は環境問題や経済問題などのさまざまな重い課題にあえいでいる。特に、マーシャル諸島には米軍基地があり、太平洋戦争直後から核実験が繰り返されてきた。美しい自然と陽気な人間性の陰には、被曝の後遺症と心の傷が隠されている。

マーシャル諸島の首都・マジュロへ

中央政府ビルから見たマジュロの風景
(撮影:島田興生)

 今年の7月31日夕、私はコンチネンタル航空機で6年ぶり3度目のマーシャル諸島訪問に向けて成田を飛び立った。51年前にビキニ水爆実験で被曝したロンゲラップ島民の自立を支援する草の根国際NGO「ブンブンプロジェクト」の一員として、代表の清水谷子さんと会員の大学2年生、上西彬君と共に島民との交流を深めるのが目的だ。今回は、ロンゲラップ島の残留放射能調査を進めている高田純・札幌医科大学教授と一緒に行動することになっていた。
 我々4名が、グアム空港ロビーで数時間仮眠した後、早朝に再びコンチネンタル航空機に乗り、チューク(トラック)、ポンペイ(ポナペ)、クワジェリンを経て、マーシャル諸島共和国の首都マジュロに着いたのは夕方になっていた。迎えに来ていた通訳の日系人ミズタニさんと車でホテルへ向かった。8年前に比べて車が増えていることにびっくりした。車がつながっているのだ。制限時速は確か時速20マイル(32キロ)で、のんびり走っているのだが、ところどころに道路を横断してベルト状の盛土がしてあり、スピードが出せないようにしてある。前回の訪問時には、交通事故があるとこれが増えると聞いたことがあるが、人も車も急増しているから交通事故を防ぐにはいいアイデアだと私は気に入っている。ちなみに、マーシャル人のマジュロでの交通手段は乗り合いタクシーだ。一人50セントで気軽に利用している。
 空港からホテルに向かう途中で橋を渡る。この橋は1983年に日本の援助で造ったもので、この橋の標高は12フィート(3.7メートル)。ここがこの島でもっとも標高が高いのである。島は幅が狭く、平べったいので、海面が上昇すると水没してしまう恐れがある。地球温暖化の影響で消えた砂浜があるという話や高潮の時に波が島を横断したという話も聞いた。温暖化が進むと国がなくなってしまうという太平洋諸国の訴えを現実のものとして感じてしまうところなのだ。
 やがて建物が多くなり、道の両側にやたらと店が多いことに気がついた。ミズタニさんに聞くと、ほとんどが中国人の店だという。移住してきた中国人が働きながら金を貯めて店を開くそうだ。そのせいかどうか、以前あった2大スーパーのうちの一つがつぶれていた。
 マーシャル諸島でいつも心配するのが水と電気だ。今年も水不足だと聞いていたが、着いた日は雨模様で、ここ数日は雨が降り続いているという。ここでは、滑走路に平行して窪地が作られていて、そこに滑走路の雨水が流れ込むようになっている。その水を貯める貯水池を深くし、かつ拡張したので、滑走路と貯水池の上に降る雨水でだいぶ持つようになったということだった。ただし、我々は少ない滞在日数を体調不良で過ごしたくないので、水はミネラルウォーターと決めている。幸いホテルには海水転換の水タンクが備え付けられており、我々は毎日それをペットボトルに詰めて飲んだ。
 しかし、離島に行くとこのような大がかりな設備はなく、各家庭に雨水貯水タンクが備え付けられている。井戸のある島もあるが、塩っぽい水が多い。8年前にクワジェリン環礁のイバイ島を訪れたときは水の利用にも電気の供給にも時間制限があった。さらに環礁内の北にあるメジャト島ではマグカップ1杯の水で体を洗った。事前に話を聞いたときには信じられなかったが、やってみて1杯の水で全身を洗えるんだと妙に感心したことを思い出す。電気はそれぞれの家での自家発電だった。ちなみに、5年前にイバイ、メジャトに行ったときには、両島とも生活レベルは相当上がっており、水も電気もそれほど制限された記憶が残っていない。

ビキニ水爆で被曝、故郷の島を脱出

クワジェリン環礁の海と小さな島
(撮影:島田興生)

 マーシャル諸島共和国は、日本から南東へ約4000キロ、グアムとハワイの中間の太平洋上に浮かぶ、29の環礁と5つの独立島からなる島国で、人口は約6万人。第一次世界大戦を期にドイツの保護領から日本の委任統治領となり、太平洋戦争で多くの犠牲を出したあと、国連信託統治領としてアメリカの施政権下に置かれ、1986年にアメリカと自由連合協定を結び、独立を果たした。
 太平洋戦争中には、クワジェリン環礁をはじめ、ポナペ、ヤルート、マロエラップ、ウォッゼ、ミレ、ブラウン、クサイ(いずれも当時の島の呼称)に日本軍部隊が置かれ、米軍の攻撃の前に全滅した。戦争が終わってわずか1年後、アメリカの核実験が始まり、アメリカは1946年から1958年にかけてビキニ環礁、エニウェトック環礁において67回の核実験を行った。マーシャル人にとっては、戦争の傷を癒やす余裕すらなく、受難が続いたということになる。
 特に、1954年3月1日に実験が行われた15メガトン水爆「ブラボー」の威力は広島型原爆の約1000倍とも750倍ともいわれ、ビキニ環礁の3つの島を吹き飛ばした。高度に放射能に汚染された珊瑚礁の砂は、“死の灰”となって空中高く舞い上がり、風によって東方海上に流され、海上、地上に降り注いだ。ビキニの東方160キロの海上では第五福竜丸が操業しており、さらにその東方約30キロのロンゲラップ環礁には82人の島民が住んでいた。第五福竜丸の乗組員も、ロンゲラップの胎児を含む86人の島民も、“白い粉”が水爆実験によるものだと知らされないまま、高度の放射能にさらされ、被曝した。このとき、ロンゲラップの東に位置するウトリック環礁でも同じように住民が被曝。この2環礁と実験場のエニウェトック、ビキニとを合わせ、アメリカの補償対象となる被曝4環礁(島)と呼ばれている。
 ロンゲラップ島民はやっと3日後にアメリカの駆逐艦によって島から脱出することができた。しかし、その間に島民は水を飲み、死の灰の上を歩き、空気を吸った。吐き気、やけど、下痢、頭痛、目の痛み、脱毛などに悩まされたが、アメリカ政府は検査をするもののろくな治療をしてくれなかった、と島民は言う。死産・流産が多くなり、異常出産という、これまで体験したことのない事態に直面するようにもなった。
 3年後、アメリカ政府はロンゲラップ島の安全宣言を出し、1957年6月29日、被曝時に島にいなかった人を含め島民250人が島に帰った。しかし、島に帰っても被曝者の容体はよくならず、甲状腺異常も発見された。脳障害や白血病、ガンなどで死ぬ人も出てきた。
 島民たちは帰島後も核の恐怖に怯えながら暮らした。「アメリカは治療もちゃんとしてくれず、島の汚染状態も正確に教えてはくれない」という不信感と怒りは日に日に強くなっていった。「島を去るか、このまま島にいて病気になるか」という切羽詰まった思いにかられるなか、1982年にアメリカエネルギー省(DOE)から、ロンゲラップ本島の残留放射能が核実験場だったビキニ環礁と同レベルであるという1978年調査結果が発表された。島民たちはアメリカ政府に島を出ることを要望したが取り上げてもらえず、ついに1985年、自らの判断で全員が離島する“島捨て”を実行した。

ロンゲラップ島民の生活と自立を支援

ロンゲラップ島残留放射能調査、1999年
(撮影:島田興生)

「ブンブンプロジェクト」は、1985年からの約6年4ヵ月をマーシャル諸島で暮らし、“島捨て”の瞬間にも立ち会ったフォトジャーナリスト、島田興生さんと島田さんの妻、清水谷子さんの呼びかけで1996年に結成された。翌年夏、島民の多くが住むクワジェリン環礁メジャト島と病院がある同環礁内のイバイ島を結ぶ足として船(リィマンマン号)を贈り、その後2002年春まで半年ごとに日本から技術者を派遣し、現地の人と一緒に船のメンテナンスを行ってきた。
 島民が“島捨て”をしたからといって、その心の中から故郷の島が消えたわけではない。ブンブンプロジェクトは、生活支援の一環としてリィマンマン号を贈り、メンテナンスツアーを続けたが、ロンゲラップの人たちが故郷のロンゲラップ環礁で伝統的な生活を取り戻し、自立できるように支援し、交流することが究極の目標であった。そのためにはロンゲラップ島で暮らすことが安全で安心できるものでなくてはならない。しかし、島民はアメリカのデータや判断を信用していない。そこで、島民が帰島を判断する材料として、利害関係がない科学者の客観的データが必要だとして、高田教授と共同で残留放射能調査を始めたのである。第1回目の調査は1999年7月、ロンゲラップ島で行われた。ちょうどこの頃、アメリカは再定住計画に従って、表土を剥ぐクリーンアップ工事と建物の建設がロンゲラップ島で始まったところだった。
 私のマーシャル諸島への最初の訪問は、1997年のリィマンマン号の贈呈に合わせたもので、2回目は1999年にロンゲラップ本島を中心に残留放射能調査を実施した高田教授(当時は広島大学助教授)に同行、助手として地表から出る放射線量測定および建設現場で働く労働者の体内被曝量測定を手伝った。
 調査結果は、「現時点では、ロンゲラップ本島の残留放射能のレベルは低く、再定住は可能」というものだった。ただし、環礁内の他の島からヤシの実やヤシガニを獲り、魚や放し飼いにしてある豚、鶏を普通に食べた場合の調査は行っておらず、今後それらの調査をする必要がある、という意見を付けた。
 今回は、ロンゲラップ村役場があるマジュロで、1999年の残留放射能調査結果について公式報告会を行うと共に、島民の前歯から出るベータ線量を測定し、歯の成長期に取り込んだ放射性ストロンチウムについて分析することを目的とした。そして、ロンゲラップ環礁の汚染状況を調べるための調査を来年夏以降どのように継続して実施するか協議することになっていた。その調査内容は、環礁内の他の島や近くの環礁、ヤシの実やヤシガニなどの食料に残された放射能のレベルを測定、帰島して昔のような暮らしをした場合の被曝の度合いについて分析することが中心になるはずだ。

ロンゲラップ村役場で歯のベータ線量測定を実施

前歯のベータ線測定を受ける島民

 8月1日マジュロに着いた夜、私たちは早速、受け入れ側のロンゲラップ選出国会議員、アバッカ・アンジャインさんと相談、滞在中のスケジュールを決めた。
 翌日、午前中に前歯ベータ線測定の会場となったロンゲラップ村役場の一室を借り、マーシャル語の調査票の作成などの準備を行い、午後から検査を始めた。通訳のミズタニさんと私は受付係で、名前や年齢、ロンゲラップ島に住んでいた時期などを聞き取り、調査票に記録する役目となった。果たして来てくれるだろうかと心配していたが、アバッカさんの手配でラジオ放送とポスターでPRした効果が出て、ぽつりぽつりではあるが島民が検査に参加してくれた。
 ロンゲラップ村役場には島民がたえずたむろしている。強い冷房が効いているので涼みがてらおしゃべりをするために来るらしい。検査室もドアが開いていると、島民が自由に入ってきてポリタンクの水を汲んでいく。そんなわけで受付を設けた廊下にも何人もの島民が座り込んで話をしているので、どの人が検査を受けに来たのかわかりづらい。しかもマーシャル人にははにかみ屋が多いので、自分から「検査を受けに来ました」などと言って来ないのである。ぶらぶら歩いている人を捕まえては「歯の検査をしますか」と聞いて回ったりしなければならない。なかには、虫歯の検査と間違えて来た人もおり、放射線検査だと言うと検査しないで帰る人もいた。
 それでも半日に10人のペースで検査は順調に進み、最終日までに38人のデータを得ることができた。結果は全員が「測定不可能なほど低い」という“レベル1”。これは、この人たちの歯が成長した時期に放射性ストロンチウムをそれほど取り込まなかったことを示している。すなわち、ロンゲラップに住んでいた時期を聞いてあるので、これらのデータからその時期の島の汚染状況が推測できるということになる。

男はつらい? マーシャル社会

ロンゲラップの人々が暮らすメジャト島
(撮影:島田興生)

 ここで私は、ロンゲラップ村役場という言葉を使っているが、英語名はRongelap Local Governmentであり、ロンゲラップ地方政府と訳すこともできる。ロンゲラップ村の行政についてはマーシャル諸島共和国政府よりもロンゲラップ村役場の権限が強く、アメリカとの補償交渉を直接行うことも多いので、地方政府といったイメージの方が合っているかもしれない。
 ロンゲラップ村の人口は約3000人で、本籍地のロンゲラップ環礁には住めないため、メジャト、イバイ、マジュロなどの島に分かれて住んでいる。ロンゲラップ村の人口もそうだが、マーシャル諸島の出生率は世界トップレベルで、太平洋戦争後の人口は爆発的な増加を続けている。
 マーシャル諸島は母系社会なので、奥さんがロンゲラップの人なら、旦那は他の島の出身であっても、その家族はロンゲラップ村に帰属することになる。ちょっと脱線するが、財産はすべて女性のものであり、離婚したら男は“風呂敷一つ”で家を出て行かなければならない、という話を聞いた。離婚はよくあることで、父親が異なる子どもの同居もよくあるらしい。まさに“男はつらいよ”の世界である。男は海に出ると瞳が輝き、勇ましくなる。海洋民族の血が騒ぐのだ。しかし、アメリカの援助に頼る社会では伝統的な社会様式が崩れ、男が海に出て魚を採ったり、ヤシの木が多い島からヤシの実やヤシガニを採ってくることも少なくなった。そうなると男は陸上でゾウガメのようにのそのそしていてだらしない。私は“男が生き生きする社会”の実現を切に願っている。

たくましいマーシャル諸島の女性

 被曝、米軍基地、地球温暖化、人口爆発、援助漬けから自立する問題、ゴミ問題(海にゴミを捨てる習慣はそのままなのに、プラスチックや缶詰、化学繊維などが増えている)など、マーシャル諸島にはこの地球上のすべての社会問題が集まっている。

報告会で真剣に話し合い、来年の共同調査で合意

報告会会場は島の伝統的な建物

 1999年の残留放射能調査結果に関する公式報告会は、8月5日夕方に宿泊先のホテルの庭にある集会場で開かれた。タコノキの葉で屋根を葺いた伝統的な建物だが、ちゃんとマイクもプロジェクタも使うことができた(ただし、スクリーンはなかったのでホテルのシーツを借りて黒板に貼り付けた)。
 報告会で高田教授は、1999年の調査結果からわかる危険度や広島など世界の被爆地との比較、前歯のベータ線測定の意味などについてわかりやすく説明、さらに来年の現地調査、島民の前歯ベータ線の継続的測定、アメリカの調査データの検証などの活動を行うことができることを表明した。1時間ちょっとの説明が終わった後、説明を真剣に聞いていた島の人たちから、島に帰ってからの健康問題、これから産まれてくる子どもたちへの影響などについて質問があり、さらに約1時間の熱心な質疑応答が繰り返された。報告会は概ね成功だった。そして最終日に、今後の調査研究活動について、ロンゲラップ村、高田教授、ブンブンプロジェクトの三者が共同実施をするという内容の覚書締結にこぎつけた。

島よ、蘇れ——日本人としてできること

滞在最終日に現れた二重の虹

 私たちは、推し測ることができないほど深い傷が島民の社会にトラウマとなって存在していることを十分に認識しながら活動しなければならない、と感じている。フォトジャーナリストの島田興生さんは、著書『還らざる楽園/ビキニ被曝40年 核に蝕まれて』(小学館)の中で「被曝の後遺症は、単に島民たちの身体的障害だけにとどまらない。家族、村、島社会における生活共同体、環境や生態系、文化や伝統など、すべてにわたって破壊の爪あとを残している」と指摘している。
 同時に私たちは、南方系の底抜けの明るさを併せ持つことも必要だ。今回の報告会と前歯検査を通じて、帰島実現に一歩近づいた。このことについては、私たちは島民と一緒に心から喜び合うことができる。サヨナラパーティーで来年の現地調査と併行して若者が参加するサマーキャンプをやろうという話が出たとき、被曝経験を持つ女性から「自分たちも行こう」と元気な声が上がり、盛り上がった。被曝の後遺症や共同体社会が破壊されたことによる苦しさよりも、現在から未来に向かっての明るさをあっけらかんと表現し、顔をくしゃくしゃにしながら体全体で笑い合う彼女たちの姿に接すると、私たちもつい嬉しくなり、躊躇も恥ずかしさもなく抱き合ったりするのだった。
 太平洋の島々は、西洋の大航海時代から受難の歴史をたどってきた。太平洋戦争の爪あとは戦地となった島のあちこちに今でも残されている。マーシャル諸島の島々で、破壊された日本軍の軍事施設跡やいまだにヤシも生えない日本軍のコンクリート滑走路を見、日本軍によるマーシャル人や朝鮮人の虐殺や兵站を断たれた日本兵を含む人々の餓死などの話を聞いてきた島田さんは、島の生態系と人々の伝統的な生活が回復できるよう「せめて、島を昔の状態に戻すのが日本人としての最低の義務だと思う」と訴えている。

マジュロにある日本兵の慰霊碑

 ロンゲラップ島も日本軍の重要拠点の一つであり、島民は戦争の歴史に翻弄された。受難続きのロンゲラップの人たちの帰島がかない、再定住ができて、海の民として人々が豊かで幸せな生活を取り戻すことができれば、私たちもどんなに嬉しいことか。その日を信じてブンブンプロジェクトの活動は続いていくことだろう。

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PROFILE

渡辺 幸重

1951年鹿児島県屋久島生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業。4年間の新聞記者生活を経てフリーに。1993年、有限会社教育環境研究所を設立、同代表取締役として現在に至る。この間、教育や環境、科学、情報、人権関係についての執筆や出版企画を手がけ、『CAIニューズレター』編集長、ラジオ短波「サバイバル渡辺のな〜るほどカウンセリング」パーソナリティ、大学改革や情報教育に関する教育コンサルタントなども務める。複数の教育・情報関係のNPO法人設立に参加、NPO法人デジタルコンテンツ協議会理事などを兼務。2006年4月、畿央大学(奈良県)教育学部助教授に就任予定。主な著書に『21世紀コンピュータ教育事典』(共著、旬報社)など。

21世紀コンピュータ教育事典

『21世紀コンピュータ教育事典』
(共著、旬報社)

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