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Report 街・国・人
第2回 パナマ運河と “バナナ・リパブリック”
05/08/15

ジャーナリスト 堀田 佳男

南北アメリカ大陸のつなぎ目にあるパナマ運河。約90年前に開通し、太平洋と大西洋間の移動時間を画期的に短くした水路としてあまりにも有名だ。しかし実際に目にした人は日本にどれだけいるだろう。ワシントン在住の堀田佳男氏は、ふと地図でこの運河を目にとめ、好奇心にかられて出かけていった。そこで見たものは…。

 地図を見ても想像できない土地がある。
 世界地図をひろげたときに、足を踏み入れたことのないところの風景はなかなか想像できない。
 パナマに行きたいと思ったのは、単に世界地図を眺めていたときにパナマ運河が眼にとまったからである。南北両アメリカ大陸のつなぎ目といえる場所を運河が横断している。地図にはパナマ地峡という言葉も刻まれていた。運河を映像で観た記憶がほとんどないので、脳裏に思いうかべることはできなかった。
 いくつかの疑問が沸いた。運河の航路すべては人の手で掘り進められたのか。どれくらいの幅で、船はどういった具合にそこを通過するのか、といった疑問が次々に出てきた。だが、世界地図からは答えが出せない。地図に眼が着地したような感触になるまで眺めてから、閉じた。

朽ちかけた鉄橋を歩いて国境を越える

パナマ・コスタリカ国境付近の海岸にて
地元サーファー、セバスチャン16歳

 4月下旬、15キロのバックパックを背負って、北西の隣国コスタリカからカリブ海沿いのルートでパナマ入りした。入国前日に降った集中豪雨で、国境沿いの川はミルクチョコレート色の濁流となって唸りをあげていた。国境を越えるには、そこにかかる古い鉄橋を徒歩で進まざるをえない。何十年前に敷設されたかわからぬ鉄道の枕木は一部で朽ちており、足を踏み外せば下にダイブしてしまうほどの隙間があいていた。ザックの重さで左や右によろめきつつ、一つ一つの枕木の硬さを確かめるようにハイキングブーツを置いていく。
 そこには団体旅行には組み込まれない、都市生活では経験できない、地図では想像できない世界があった。しかし狼狽も苦痛の呻吟もない。ひたすら、ゆっくりと、噛みしめるようにして国境を越えていくだけである。
 毛穴から汗が沸騰するかのような暑さだった。ザックを背中に載せて1時間も歩くと、頭から幾すじもの汗が顔や腕に流れた。ふと立ち止まって燦光(さんこう)の世界から木陰に入ると、一瞬だけだが真夏に冷房の効いた新宿のデパートに踏み込んだときのような涼しさを覚える。しかし、じきに下から這い上がってくるようなジワッとした熱がもちあがる。

100本で3ドル! とろける旨さだ

 国境を越えてしばらく歩いても町には着かず、アルミランテという町までタクシーに乗った。冷房が中途半端に効いており、熱風でも冷風でもない微妙な風が車内をまわっていた。あたり一帯には地平線までバナナ農園がひろがる。パナマは「バナナ・リパブリック(バナナ共和国)」といわれる、西側の資本で開拓されたプランテーションが広がる中南米諸国のひとつで、そこには地元労働者が低賃金で雇われるという図式がいまだに残る。
 バナナは3、4ヵ月でたわわな房を実らせる。その房を切り取ると同じ木からまた3、4ヵ月後には別の房が育つ。房は大きなブルーのビニール袋で覆われている。汗がにじんだキャップをかぶったシワの多い地元の男性が「害虫よけ」だといった。
「アメリカではバナナはいくらで売られているんだい」
 その男が訊く。
「そうだなあ。7、8本で1ドルってところかなあ」
「ここじゃ3ドルで100本買えるよ」
 そういうと屈託のない笑顔を見せた。
 澄明な夕日がバナナ農園の彼方に沈もうとしていた。陽炎がたつようでもあり、燦爛(さんらん)がそこかしこに散りばめられているようでもあった。旅はこれからだった。

「なんだ? これがパナマ運河か」

 パナマは自国の紙幣をもたないので、国境を越えた瞬間からすべてが米ドルに変わる。紛れもなくアメリカ財務省発行のドル紙幣を使っている。地元の人が通う「食堂」という言葉がもっともふさわしい飯屋で黒豆とライス、チキンのトマト煮、ふかし芋、それにソーダとコーヒーの昼食をとると3ドルといった嬉しさだ。ただ、観光客を相手にしたレストランはアメリカ並みの値段設定であるところが多い。
 アルミランテからカリブ海に浮かぶ島に寄ったあと、パナマ運河を観るために首都パナマシティに向かった。高速バスが「パンアメリカン・ハイウェイ」という南北アメリカ大陸を縦貫する高速道路をひた走る。この道路は丘陵地帯では片側1車線ずつ(幅約6メートル)の道なので、ハイウェイと呼ぶにはお粗末だが都市部ではそれが4車線になる。それでもいちおう時速100キロのスピードで走れる舗装状態を保っている。

高速バスの車窓から。パナマ中部の風景

 パナマの中央部は山が深く、西部に位置する最高峰のバル火山(標高3475メートル)はバスの中からうっとりと眺め続けていたいほど優麗で、周辺は高地でありながらも熱帯性植物が生い茂っている。その後、バスは牛が草を食む牧草地のあいだを抜けていく。牛はどれもこれも痩せていて、ホルスタインのような豊満さも重厚さもなく、中米の小国を象徴しているような脆弱さを感じた。
 のびやかな牧草地を何時間も走りぬけると、だんだんと民家が多くなっていく。パナマシティが近づいているのだ。民家の窓の形状や庭先で遊ぶ少女の顔つきを見ていると、いきなりフワーンと突き抜けるようにしてライトブルーの海が見えた。鉄橋を渡っている。大きな川の河口で、バスの右側にヨットハーバーが見えた。地図を取りだして川の名前を調べてみる。
「ンー、なんだ。ここがパナマ運河か」
 それはまるで川だった。運河というから、河口も人工的な岸壁で仕上がっていると思い込んでいた。だが、河口は一般の河川となんら変わらない。パナマ湾に口を大きく開くようにして広がった河口は、多摩川が東京湾に注ぐような柔らかさがある。

 バスがパナマシティのターミナルに着き、町の中心部のホテルに投宿してからあたりを歩くと騒乱の雑踏がそこにあった。まだバスの車窓から見た牧草地の光景が脳裏に残っていたせいもあり、カンザス州の草原からいきなり年末の上野アメ横に連れてこられたような戸惑いがあった。喧騒と稚純の魅力が町に溢れている。

運河開通から85年間、「アメリカにレイプされてきた」

高層ビルが立ち並ぶパナマシティ

 次の日にパナマ運河を探索する予定だったので、英語ができるガイドとタクシーを雇う手配をした。一人で徘徊する手もあるが、地元の人からなるべく詳しい情報を仕入れた方が得られるものは倍化する。ガイドを依頼する時、「ただの観光案内役ではなくて歴史と数字に強い人」と注文をつけた。煩い客だと思われたかもしれないが、こちらの真剣さを伝えたほうが、プロのガイドは燃えるものである。
「時間にルーズ」が中南米に流布した常識だが、ガイドのジョージ・オーガスティンは午後2時という約束を厳守してきた。ホテルのロビーに現れた彼は、背丈が185センチほどある黒人青年で、なまりの少ない英語を話した。さっそくタクシーに乗って運河に向かった。車中、現在のパナマの社会状況や運河についてできるだけ詳しく説明してくれるように頼んだ。彼は
「私の知っていることはすべてお話しします。何でも訊いてください」
  とさらりという。

運河建設に着工したレセップスの胸像

 運河についての話を聴く前に、ガイド本で少し読んだパナマの歴史をベースにして、こちらから山ほど質問を浴びせかけた。ジョージはそのすべてにまるで予定稿を用意していたかのように淀みなく答えた。
 パナマという国が1903年に隣国コロンビアから独立したのは、アメリカが手をかしたからである。そしてパナマに傀儡政権を築き、アメリカのいうなりの国に仕立て上げてきた。これはある意味で、アメリカの独善的外交政策の範例ともいえるケースで、パナマ運河建設はその可視的な具体例としてあげられる。それが99年末日まで続く。
 運河がオープンした14年からパナマは85年間、ジョージの言葉を借りれば「アメリカにレイプされ続けてきた」のである。99年末まで、運河の通行料はすべてアメリカ政府に流れた。パナマ運河がパナマ政府に返還されてからは、やっとその収益が直接パナマ人に還元されるようになった。通行料は年間約500億円にのぼる。
 運河はそもそもアメリカ人の発案ではなかった。1534年にスペイン国王カルロス1世が南北両アメリカ大陸でもっとも狭いパナマ地峡(約64キロ)の測量を命じている。運河建設の明確なアイデアがあったからだ。だが、当時、技術的にこの地に運河を造ることは不可能だった。
 19世紀後半になって、スエズ運河をものにしたフランス人レセップスがパナマ地峡に運河を建設しはじめたが、約3万人の労働者が黄熱病やマラリアで死亡。工事も難航すると同時に資金難で建設会社は倒産した。その後に登場したのがアメリカで、最後に出ていって運河をものにするのである。

船腹がこすれる!? 幅33.53メートルの水路をいく大型船

幅33.53メートルの閘門

 ジョージの話を聴きながら、「そうだったのか」発言がなんども口から出た。
 運河の場所はもともと川が流れていたところだが、工事では水位の違う大きな湖を3つ造り、その湖を行き来するような形で閘門(水門)を3ヵ所(合計6門)に作った。これは地中海と紅海を結ぶスエズ運河の海面式
(注)とちがい、水のエレベーターとよべる機能を取り入れることで水位を上下させて船舶を通行させるためのものだ。いまでもオリジナルの閘門とポンプがメンテナンスされながら使われている。
 全行程は約80キロなので車であれば1時間の距離だが、船舶は9時間を費やす。午前中は太平洋からカリブ海に、午後はカリブ海から太平洋にという時間差による一方通行がルールとなっている。

船体から運河の壁までわずか1メートル

 次なる「そうだったのか」は運河の幅である。一番狭いところで33.53メートルしかないのだ。だが、横幅32メートルの船舶が、まったく岸壁をこすることなく通過する。というのも運河を通行するには特別な操舵技術が必要で、このときばかりは熟練したパナマ人の水先案内人が操舵室に乗り込んで舵をとるからだ。
 さらに、この幅を通過するために造船会社が幅32メートルの船舶をつくってきたことは驚きだった。それがパナマックスと呼ばれる船舶だ。しかし、現在はスーパータンカーが盛隆をきわめており、パナマックスは世界で航行する船舶の5%でしかなくなっている。
 運河通行料は排水トンによって違うが、最低で6万ドル(約660万円)、最高は21万7000ドル(約2400万円)で前払いで支払われる。それでもマゼラン海峡まで南下するより燃料費も期間も節約できるので、コンテナ船や穀物を積んだ船が1日平均35隻ほど通過する。

大型船を曳いて、タグボートが運河を行く

「100年も前によくこんなものを作ったね」
 そう呟くと、ジョージはすかさず返してきた。
「僕の祖父も労働者として建設に携わったんだ」
 パナマ人の誇り、とでもいいたいような表情だった。そしてつけ加えた。
「アメリカが去ってから5年。パナマにようやく精神的な独立が訪れたと思っている」
 だが、現実は厳しい。アメリカは運河付近に米軍基地や関連施設を14ヵ所も所有していた。運河の管理がパナマに移るとともに彼らも完全撤退したことで、地元ビジネスは年間300億円の減収に見舞われている。特に飲食店や米軍に依存していたビジネスは多くが潰れた。それが今後、沖縄が直面する問題であることは容易に想像できる。
 私が持っていた「知識欲」をほとんど満たしてくれたジョージに、久しく心をこめた礼などをしたことがなかったことを想いだしながら、最大級の賛辞を述べるとともに強く握手をして別れた。

数えきれないほど露店が並ぶ町は、活気に満ちていた

 ダウンタウンに戻ると、熱湯を床にかけたあとに立ち上る湯気のような熱気が待ちうけていた。地元の人の足である「レッド・デビルズ」というバスがビーコビーコとクラクションを鳴らしながら、日本の昭和30年代かと思えるような黒鉛の排気ガスをだしながら眼の前をとおりすぎる。歩道には数えきれないほどの露店が出て、パイナップル1個50セントとか丸いココナッツ菓子1個20セントという値札を並べている。露店商は威勢がよく、次から次へと声が飛んでくる。そこには米軍が去った後、経済が下降線を辿った国とは思えないほどの活気が満ちていた。

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PROFILE

堀田 佳男

1957年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、ワシントンDCにあるアメリカン大学大学院国際関係課程修了。永住権取得のため米情報調査会社に勤務。1990年に独立、以来ジャーナリストとしてワシントンで政治、経済、社会問題など幅広い分野で執筆。AERA、週刊文春などに寄稿する。
2004年に過去4度の大統領選の取材をもとに『大統領のつくりかた-トップリーダーへの戦術と戦略』(プレスプラン)を出版。このほか世界で最初にエイズ治療薬を発見した日本人医師の半生を描いたノンフィクション『MITSUYA 日本人医師満屋裕明-エイズ治療薬を発見した男』(旬報社)などの著書がある。

大統領のつくりかた-トップリーダーへの戦術と戦略

『大統領のつくりかた』
(プレスプラン)

パナマ運河の歴史について:

パナマ運河

『パナマ運河』
山口廣次著
中公新書

1950年代前半までのアメリカの中南米政策について:

中南米

『中南米』
山本進著
岩波新書

(注)
地形の問題から土木工学の専門知識を要したパナマ運河の場合と異なり、スエズ運河の工事は技術的に難しいものではなかった。単純にいえば、砂漠の土砂を掘り下げて取り除いていくだけだった。しかし人手に頼るしかない当時、全長160キロ以上の巨大な溝を掘るその作業は過酷を極め、一説には10万人の犠牲者が出たという。

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