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夏の終わりは、ラテンだ、サルサだ!
09/08/15

編集部 川井 龍介

 日本ラテン化計画というものをご存じだろうか。国際的にみれば、シャイで引っ込み思案で、感情表現が苦手。そんなイメージのある日本人に、楽天的でにぎやかで、明日のことは明日考えればいいじゃない、というラテン気質を植え込もう、それも音楽で。それがラテン化計画。日本を代表するラテンそしてサルサバンドのオルケスタ・デ・ラ・ルスが考えた。

オルケスタ・デ・ラ・ルスのNORAさん
 デ・ラ・ルスはいまや日本だけではなく、世界各地で活動し中南米でも知られるラテン音楽の伝道師のようなグループである。ヴォーカルのNORA(ノラ)を中心に、11人編成による彼らが、結成25周年を迎えて世に出すアルバムの第1弾が『サルサ食堂〜日本ラテン化計画』(ユニバーサルミュージック)。
 とにかく、もっと日本人の家庭に一家に1枚とは言わないまでもラテン音楽を浸透させようと考えた。では、ラテンとはなにか。インタビューにノラさんはこう答えてくれた。
「人生を明るくハッピーにするもの。エネルギーを与えてくれるようなもの。やっても楽しく、聴いても楽しいもの・・・。ラテンの人は瞬間瞬間で生きている。過去も未来もない。過去を振り返って反省したり、明日を心配したりするのは、いないことはないが1万人に一人くらい」
 これだけきくと、いうことないようだが、実際のラテン諸国でのコンサートなどでは、ずいぶんと困ったらしい。会場の準備が直前でもできていなかったりする。
「1994年頃、コロンビアに行ったときのことですけれど、3万人くらい入るスタジアムで、リハーサルをやろうとしたら、電気が来ていない。これから近所の電柱から電気を引いてくるって。でも、近所の家がみんな停電になるんじゃないのって言ったら、大丈夫、みんな観に来るからって(笑)」
 中南米の人から見ると、デ・ラ・ルスは日本人なのか韓国人なのか、中国人なのかわからないそうで、コンサートでも最初は「なんか中国人がラテンやるそうだ」というくらいにしか見ていないという。しかし、いったんライブがはじまると、あまりの本格さに驚いて目が点になり、そのうち踊り出すそうだ。

日本のポップスもラテンに!
 
 このデ・ラ・ルスの「日本人ラテン化計画」のアルバムは、彼らとつながりのあるアーティストなどにゲストで登場してもらい、彼らの作品などをデ・ラ・ルスのラテン・アレンジによる歌と演奏で構成する。デュオのキマグレンからはじまって、山崎まさよし、PUFFY、宮沢和史、bird、ユースケ・サンタマリア、大黒摩季、RIP SLYMEといったアーティストとのコラボレーションを聴かせる。
 ちょっとラテンになりにくそうなPUFFYの「アジアの純真」ラテンヴァージョンもおもしろいし、大黒摩季の力強さはラテンによくなじむ。オリジナルは夏木マリが歌った「むかし私が愛した人」に挑戦したユースケ・サンタマリアによるラテン化されたこの歌は、情念と哀愁が絡み合ったいい味を出している。
 アルバム最後は、デ・ラ・ルスだけによる「空に太陽があるかぎり」。にしきのあきらのなつかしいヒット曲のカヴァーだ。暑さが滲み出てくるようなアレンジだ。

93年には国連平和賞も
 
 デ・ラ・ルスが結成されたのは84年だが、それより数年前ノラさんは東京のライブハウスでR&Bなどを歌っていたが、あるときバンド仲間から勧められて、ティンバレス奏者で、マンボの王様でありラテン音楽の王様であるTITO PUENTE(ティト・プエンテ)を知った。いままで聴いたことのないビートをもつこの音楽に魅了され、これが転機になった。まもなくしてニューヨークで生のサルサに触れてさらに衝撃を受ける。帰国後、サルサをやろうとバンド仲間を誘ってオルケスタ・デ・ラ・ルスを結成した。
 90年に最初のアルバム『デ・ラ・ルス』(BMGビクター:現BMGファンハウス)を発売。これは『サルサ・カリエンテ・デル・ハポン』(日本からの熱いサルサ)としてアメリカでも発売され、全米ビルボード誌ラテン・チャートで首位を長い間確保した。以後、世界各地でツアーを行い、93年には国連平和賞まで受賞するという快挙をなしとげた。
 ラテン、それもサルサバンドを名乗っているが、このサルサについてノラさんは「キューバのソンという音楽がもとになっていて、60年代後半にニューヨークのプエルトリカンの間から生まれたものではないか」という。サルサバンドは、4、5人のブラス楽器にパーカッション、コーラスなどで最低10人くらいで編成されるという。
 本場も顔負けの本格ラテン、サルサを演奏しアルバムを発表してきたが、途中からもっと日本人に親しんでもらおうと日本の曲をラテンにカヴァーした作品をつくる。古いところでは、桑田佳祐がつくって高田みづえが歌った「私はピアノ」のカヴァーや、ザ・ピーナッツの「情熱の花」などのラテンヴァージョンがある。今回のアルバムもその流れだが、9月末にはオリジナルのアルバムをリリースする予定だ。

ラテンの王様、ティト・プエンテ

「Salsa Meets Jazz」TITO PUENTE
 彼らがもっとも影響をうけたティト・プエンテについて、少し触れたい。1923年にプエルトリコからの移民である両親のもとに、ニューヨークで生まれた。13歳からプロとして活動し、戦後はニューヨークにあるクラシックの名門学校ジュリアード音楽院で音楽理論やオーケストレーションなどを学び、48年に自身の楽団を旗揚げした。
 50年代の世界的なマンボブームのなかで活躍し、その特異なエンタテイナー性で人気を博し、キューバ音楽とジャズとの融合などをはかってさまざまなアーティストとも共演し、ラテンの王様などと呼ばれた。私は、海外の映像で彼のライブの模様をみたが、そのとき彼は「サルサは食べ物と同じで、これをいつも食べている」という意味のことを熱く語っていた。
 ノラさんは、彼について「ティト・プエンテはすべてがパフォーマンス。サミー・デイビス・ジュニアのような人。なにをやっても絵になって、常に人を楽しませるエンタテイナーです」と、絶賛する。生きているラテン音楽みたいな存在で、パッションとサービス精神を併せ持つ人だ。
 ジャズとラテンと言えば、日本には熱帯ジャズ楽団というバンドがある。パーカッショニストのカルロス菅野が率いる18人で編成されるこの楽団のメンバーは、それぞれが腕に自信のあるプロ中のプロで、メンバーは独自に活動をする一方、ラテンのリズムによるジャズを中心に熱く豪華なサウンドをつくる。
 最近では、歌手のマリーンの誘いを受けて、彼女のヴォーカルをサポートしたアルバム『マリーンSings 熱帯JAZZ』(BMG JAPAN)をつくっている。かつてのマリーンの大ヒット曲の「マジック」の新録をはじめ、セルジオ・メンデスが有名にした「マシュ・ケ・ナダ」やマイケル・ジャクソンがジャクソン・ファイブ時代に歌った「Never Can Say Goodbye」。バート・バカラックの曲で、ディオンヌ・ワーウィックによる「I'll Never Fall In Love Again」など。

沖縄民謡でオキナワン・サルサを

「VA A PASAR」KACHIMBA1551
 サルサはサルサでも、沖縄の薫りを加えたユニークなバンドに、カチンバ1551がある。サルサを軸にして、オリジナルに加えて沖縄民謡をサルサにアレンジするという試みで、「オキナワン・サルサ」と、名付けたジャンルをつくり活動している。
 結成は98年。リーダーのTAROの呼びかけによって、ヴォーカル、ベース、ギター、ピアノ、パーカッション(2人)、ホーンセクション(2人)の計8人で構成。カチンバ(KACHIMBA)とは、スペイン語で泉の意味。1551は、結成時のメンバーの担当別構成(ヴォーカル1、リズムセクション5、ホーンセクション5、ヴォーカル1)を表しているという。
 数年前に、おもしろいバンドがあると紹介され、私は彼らが03年にリリースしたアルバム『KACHIMBA1551』(ドリーミュージック)を聴いたことがある。いま、思い出して改めて聴いてみると、切れのいいホーンが印象的で、有名な沖縄民謡の「安里屋ユンタ」のサルサヴァージョンなど、なるほど南の沖縄の明るさとラテンがうまく融合している。
 近年はどうしているのだろうかと思ったら、たまたま見たシアトルで発行されている日系のメディア「北米報知」で、彼らのなかの4人でつくるカチンバ・クアトロがシアトルで公演したのを知った。
 カチンバは01年にはキューバでの音楽祭に招待をうけて出演したのをきっかけに、これまで何度かキューバでのライブツアーも行っている。また、キューバにおける沖縄からの移民の生活を描いたミュージカル・ドキュメンタリー「サルサとチャンプルー」(企画・製作・監督 波多野哲朗)の音楽を担当している。
 沖縄そのものが多様な文化をもつが、さらに南米文化がこれに重なる映画の背景をカチンバの音楽がどう描くのか、興味深い。

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